泉湧寺(せんにゅうじ)
そうだ京都行こう『泉涌寺。なんと読むのか、とよく聞かれます。700年以上も門を閉ざしていたお寺ですから。「せんにゅうじ」と読みます。この時代に生まれてよかった。700年の秘仏「楊貴妃観音」に会えました』1998秋

お寺ではなく御寺(みてら)と呼ばれる理由:承久の乱の折、後鳥羽上皇が流罪になった際に鎌倉幕府によって擁立された天皇がまだ2歳の四条天皇であったが、わかず12歳で崩御してしまった。その時、京都の各寺院は、後鳥羽上皇を流罪に処した幕府が擁立した天皇の葬儀はできないとしたが、泉涌寺は「亡くなられたらどなたも皆一緒である」という考えから葬儀を引き受けた。以来、江戸時代までの葬儀はほとんど泉涌寺で行われ、境内の月輪陵には、多くの天皇・皇族が眠っている。
天武天皇以後、称徳女帝(孝謙)までの八代七人の位牌がない。ここには、天武系の天皇を除外する意図があるといわれている。
門前には、「拝跪聖陵」の石柱が。孝明天皇陵への参道入口で、「ひざまづいて拝む」

楊貴妃観音:玄宗皇帝が楊貴妃をしのんでその姿をうつし彫らせたといわれている。中国にわたった湛海律師が、政変のため避難させるように頼まれて中国から持ち帰った。昔は100年に一度しか開帳されなかったが、請来から700年目の1955年(昭和30年)から一般公開されている。長く秘仏だったので、施された彩色はいまの鮮やかに残っている。顔のヒゲのようなものは、説法中の口の動きを表現している。美人祈願を。

仏殿の三つの仏像は、同じ大きさ。通常は真ん中の本尊が大きく、両側の脇侍は小さいが、こちらは三体がすべてご本尊であるため。三世仏といって中国では多いが日本では珍しい。
向かって左から、過去担当の阿弥陀如来、現在担当の釈迦如来、未来担当の弥勒如来。
仏殿の隣には、清少納言の歌碑が。寺付近が、父である清原元輔の別荘があったということ、また仕えていた定子が眠る鳥戸野陵が近いことから、隠棲したという伝説もあって、昭和47年に建てられた。。
御座所の大玄関には熊本県荒尾市の赤松が植えられている。これは開山の俊  が熊本出身の僧侶だったため、荒尾市からゆかりの松として奉納移植された。

タレントの石田純一さんがこの泉涌寺で良縁祈願したら、東尾理子さんに出会ったというパワースポット。

「下り参道」と呼ばれる珍しい伽藍配置は、盆地の底に本堂を建てるのが修行に適しているとされていたから。

長さ約16メートル、幅約8メートルという涅槃図は日本最大。コの字に折り畳んで吊さないと堂内に収まりません。昔はその大きさから東大寺の堂内に飾るために作られたのではないかと伝わっていたそうですが、近年になって泉涌寺の仏殿にあわせて作られた涅槃図だということが分かってきたそうです。上を見上げると美しい満月、目の前にはお釈迦様が入滅する様子。視覚いっぱいに場面が広がることで、その瞬間に立ち会ったかのような臨場感を演出する狙いがあったのではないかということでした。

舎利殿:開山の月輪大師の弟子である湛海律師(たんかいりっし)が宋から持ち帰った仏舎利を祀るためだけに設けられたお堂です。仏舎利とはお釈迦様の遺骨のことなのですが、泉涌寺の仏舎利は「仏牙舎利」(ぶつげしゃり)が正式名で、“牙”の字から推察できるようにお釈迦様の犬歯をお祀りしています。仏舎利ももちろん貴重ですが、犬歯は4本しかないということもあって、さらに珍しいもの。ありがたい仏牙舎利を守るために鎮座しているのが、韋駄天様です。日本でもっとも古い韋駄天像で国の重要文化財に指定されています。

 

雲龍院:掛け軸の意味は、右「ちごのさけいつものみたや」、左は「禁酒」(林の下に祖の字の左半分だけ現れた。つまり「禁」。水辺はさんずいへん、尊の字の上と下を隠してさんずいへんを付けると「酒」になる)

 山村美沙のお墓がある。墓石の横に設置されたポストにはファンレターが投函できるようになっている。

 伽藍石:社寺の柱の礎石を利用したもので、方広寺大仏殿の礎石と伝わる。

 走る大黒天:少しでも早く福を授けようとする姿を表している。

 

即成院:総勢25名の菩薩像が。仏像で立体的に来迎を表現されているのは、日本でもここだけ。歯が見えるほど笑っている菩薩像など、表情が豊かなのにも注目。楽器を持った仏様が多いので、仏様のオーケストラとも呼ばれる。平等院の雲中供養菩薩を意識して楽器を持たせたかも。菩薩像は寄木造りで仏像の中は空洞部分が多い。お経が鳴り響くのを意識したかも。
東寺講堂の仏像群が曼荼羅なら、こちらは阿弥陀如来の来迎(極楽浄土から現世に現れる様)を仏像で表現したものといわれる。

山門の屋根の上には、鳳凰があり、平等院の鳳凰と向かい合っている。橘俊綱によって建てられた持仏堂がその発祥。俊綱は平等院を建てた藤原頼道の子で、橘家に養子に入ったため苗字が親子で異なる。父の平等院鳳凰堂を意識していたかもしれない。

扉も鳳凰の透かし彫り。

弘法大師空海が高野山を開くにあたり、狩人が連れてきた白と黒の犬に導かれたという伝承にちなみ、弘法大師を祀る真言宗寺院には2匹の犬の像を置くところがある。境内にある大師像のまえに、阿吽の犬像がある。阿は物事の始まり、吽は物事の終わりを示すといい、あずは阿形の犬の頭から体全体を撫で、その次に吽形の犬像の頭から体全体を撫でると福音を授かり、一年が万事うまくいくという。

 

戒光寺:「丈六さん」と呼ばれる5.4mの釈迦如来像。

身代わりのお釈迦様。後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ、寝首を掻かれたときに、身代わりになったので、首には血の痕がある。ネイルアートのように爪が長い。爪先に引っ掛けてでも苦しんでいる人を救いたいという心の現われ。頭上には、NASAで使用している宇宙服と同じ材質の防火カーテンが織り込まれている。法律上、重要文化財のお釈迦様は防火機能のついた場所に納めなければならないが、大きすぎて本堂から運び出せないので苦肉の策として設置された。熱を感知すると留めてある糸が切れ、銀幕がパサッと落ちる。

不動明王は足の裏をだして珍しい形。

 

善能寺:弘法大師が稲荷大明神を祀る寺として善能寺と号された。日本で最初に祀られた稲荷大明神。

現在のお堂[祥空殿]は、昭和四十六年北海道横津岳で遭難した「ばんだい号」の遺族が、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願され、建立寄進された。庭園は重森美玲作。苔庭の造形は飛行機をイメージしたもの。

 

 

千本ゑんま堂(引接寺・いんじょうじ)
引接とは、「衆生を導く」「極楽浄土へ導く」といった意味がある。
節分には、こんにゃく煮きがおこなわれる。舌の形のようなこんにゃくがふるまわれる。
閻魔像の両脇には、検事の司令尊と書記の司令尊が坐している。
賽銭箱の上、天井に程近い所を見上げると、閻魔王が使っていたとされる大きな湯飲み茶碗が置いてあるのが見える。これは閻魔王の萬倍碗と呼ばれるもので、この茶碗に賽銭を下から投げ入れることができたらご利益が万倍になり、1万日の参拝に相当するご利益を授かるという。

閻魔王の顔が赤いのは、自分もつらいから。

千本閻魔堂の紫式部供養塔 境内の奥に立つ重要文化財
十層の笠石は死者の初七日から三回忌の年忌供養に例え死後35日目に閻魔様の決裁があります。死者の行き先が決まる事を引接(いんじょう)と云い、このお寺の引接寺の由来です。決裁の事を引導(いんどう)と云い、引導を渡す意味の謂れです。

 

 

千本釈迦堂(大報恩寺)

応仁の乱の兵火をまぬかれた、京都では貴重な建物。本堂の柱には、刀槍の跡がたくさん残っている。
なぜ激戦の中心地でありながら災禍を免れたかというと、六角堂や革堂など、○○堂と呼ばれる寺院は町衆からの信仰が厚い町堂といわれ、正式名称よりも通称で呼ばれてきた。千本釈迦堂も災禍の際には町衆が決死の覚悟で守ってきた。そのため、町衆を敵に回したくない武将らも、何があっても守り抜くよう部下に命じたという。
おかめ伝説で知られる。夫婦円満、建築関係者のお参りが多い。現在は不美人の象徴だが当時は切れ長な目に下ぶくれのふくよかな女性は美女とされた。
釈迦誕生像:右手で天井、左手で地面を指し、「天上天下唯我独尊」と唱えたというブッダ誕生の姿を、半裸の端正な童形として表している。

◆六観音像:六道信仰に基づいてつくられた六観音が現存するのはここのみ。観音V6。

◆十大弟子像の中には、ピッコロ似のものも。「桾(くん)」というスカート状の衣を身につけている。その衣には細かな麻の葉の文様などがびっしりと描かれ、真面目な快慶らしい仕事ぶりがうかがえる。

◆目犍連(もくけんれん)像:快慶の自署があることから、唯一快慶の手によるものとされる。衣のリアルな表現に注目。

◆明徳の乱が起こった日。明徳2(1391)年。「六分の一殿」と称された山名氏清が、足利義満に対して兵を挙げた戦い。
結果、氏清は敗れて11か国の守護領国を僅か3か国に減らされた。勝者の義満は、氏清の菩提を弔うために北野経王堂を建立。現在その一部が千本釈迦堂境内に現存する。

 

そうだ、京都、行こう

CMのクリエーティブディレクターは佐々木宏氏。他のCMでは、「ソフトバンクの犬」「缶コーヒーBOSSの宇宙人」「富士フィルムのお正月を写そう」