白鳳

通説では白雉(650年〜654年)の別称、美称であるとされている。美術史上の用語。「飛鳥」も同様。

 

長谷寺★★★★★

◆長谷寺のご本尊さまは、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大磐石という台座に立つ、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩です。地蔵と観音の両菩薩の持物を併せ持った形。

◆「今昔物語」わらしべ長者の舞台。

◆馬頭夫人(めずぶにん):馬頭夫人の送った宝物の中に牡丹の種があり、今の境内を飾る牡丹はこの故事によると言われている。
◆登廊:399段。石段は一段一段が非常に低く作られている。これはかつて着物姿の女性の参詣を多く迎えた長谷寺の心遣い。

◆「いかで長谷」(なんとしても長谷寺に行きたい)蜻蛉日記 藤原道綱母

◆無印良品のCM:奈良の長谷寺では朝の5時から掃除が始まります。350年以上にわたり、礼堂の板葺きの床は毎日拭き続けられていました。

◆「人はいさ心も知らず ふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(人の心はさあどうだかわかりません。しかし慣れ親しんだこの土地では、梅の花が昔とかわらずにすばらしい香になって匂っていることだよ。)

紀貫之が久しぶりに慣れ親しんだ土地をたずねたときのこと。昔よく宿泊していた宿に顔を出したところ、「宿は昔のままずっとここにあります。それなのにあなたときたら、心が変わってしまったかのように訪れてこなくなりましたね。」と家の主人に皮肉を言われてしまいます。そこでとっさに機転をきかせて、梅の花を手にとってこの歌を詠んだというわけです。

◆鎌倉の長谷寺の寺伝では、1本の楠からふたつの観音像が刻まれ、一体は奈良の長谷寺に祀られ、もう一体を海に流したところ鎌倉の長谷寺にたどり着いたという。

◆徳道上人:十一面観音像を造り、信仰を広めた。門前にある法起院は晩年を過ごした場所。

◆法起とは、何かを思い立つこと。「一念発起(いちねんほっき)」。思い立ったことが仏の道なので発が法の字になっている。

◆はがきの語源になった木がある。実際に葉っぱに書かれている。絵馬もはがき形。

極楽はよそにはあらじわがこころ おなじ蓮(はちす)のへだてやはある 蓮根 ハチの巣

当札所の御詠歌(上人御詠歌)は、大変に意味深く詠じられています。
(極楽は遠くにあるものではありません。あなたの心の中に求めなさい。この世に咲く蓮の花と、あの世に咲く蓮の花とはともに同じ蓮の花です。決して違うものではありません。)

今日の言葉で言えば、自分をじっくりと見つめよという事ではないでしょうか。

 

◆難陀龍王像:古代中国の役人の服装。

◆赤精童子立像(雨宝童子立像):初瀬山を守護する八大童子のひとり。天照大神の化身とも言われる。神仏習合の名残。

◆うかりける人(ひと)を初瀬(はつせ)の山(やま)おろしよ はげしかれとは祈(いの)らぬものを
「冷たいあの人が、私を好きになってくれるように初瀬観音に祈りはしたが、初瀬の山から吹き下ろす風よ、おまえのように激しく当たるようにとは祈らなかったのになぁ」という意味。「祈っても成就しなかった恋」というテーマで詠まれた歌で、「はげし」いのは「冷たいあの人」と「風」の両方です。

 

般若寺

十三重石塔:初重には東西南北の面にそれぞれ薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来のいわゆる四方仏が刻まれている。

 

東向商店街(ひがしむきしょうてんがい)

東向という変わった地名は、興福寺に背を向けないように、かつてはすべての家が東を向いていたため。

 

不退寺

聖観音菩薩象は、頭に大きなリボンをつけ、前進が白く塗られている。胸の膨らみなどは艶めかしい感じさせする。在原業平の理想の女性をモデルにしてのではないかと言われている。

 

法隆寺★★★★★

聖徳宗という日本だけに存在する宗派のお寺。

「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」 正岡子規 

柿の日:正岡子規が奈良で「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んだとされることにちなんでいる。 また、10月は柿の旬の時期でもある。

柿氷

奈良県は柿の収穫量で全国2位。1位は和歌山県。

御朱印は「以和為貴(和を以て貴しとなす)」「篤敬三宝(三宝を篤く敬え)」

 

 

◆法隆寺の七不思議

・中門の中央になぜか柱がある。

その1.法隆寺の伽藍には蜘蛛が巣を作らず、雀も糞をかけない。

実際の所は、蜘蛛が巣を作り鳥の糞も多く見受けられます。これは法隆寺をこのような清い寺に保とうという僧たちの心持ちの表れではないかと思われます。

その2.南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある
南大門の階段の下に魚の形をした石が地面に埋め込まれています。この石には、どんなに大雨が降ってもこの石の位置よりも水位が上がらないということから、魚(水)はここまでまでしか来ないという意味が込められています。鯛石を踏むと、水難に遭わないと言われている。
その3.五重塔の上部の九輪に鎌が四本刺さっている
この鎌は聖徳太子の怨霊封じのためという説もありますが、落雷防止を祈願するもので、雷の魔物が塔に降りようとするのを防ぐためのものとされています。これは中国古来の五行が関係し、五行では世の全てのものは、木火土金水の五つに属し雷は「木」、鎌は「金」とされます。そして金は木に勝ることから鎌がかかっていると考えられます。またこの鎌が上向きに見えたらその年は米が豊作で、下向きに見えれば凶作であるともいわれています。長さは1.2メートル。
その4.法隆寺の中庭に伏蔵(ふくぞう)が三つある
伏蔵とは地下の蔵のことで、法隆寺が破損した時、再建ができるように財宝が収められているところです。金堂の北東の角、経蔵の中、回廊の南西の角にあり、石の蓋で覆われています。注連縄で囲まれただけのところもある。

南大門をくぐって境内に入り、護摩堂の角で左に折れると、柵で囲われた一角にある。

 

その5.因可池(よるかのいけ)の蛙には片目がない
西院伽藍と東院伽藍を結ぶ石畳の大路の奥にある因可池は付近には昔、太子が住んでいた斑鳩宮がありました。太子が学問をしている時に蛙があまりに鳴いたそうで、静かにするように筆で目をついたところ、この池の蛙はすべて片目になったといわれているそうです。
その6.夢殿の礼盤(お坊さんが座る台)の裏が汗をかいている
夢殿の救世観音像の前に礼盤(らいばん)と呼ぶお坊さんが座る台があります。
毎年2月にこの礼盤を日光に当て、陽の光により帯びる水気の量によって豊作か凶作かの占い(夢殿のお水取り)を行います。かつて下に井戸があったからといった臆測がある
その7.雨だれの穴が地面にあかない
実際には、雨だれの穴はいくつも見受けられましたが、この言い伝えは法隆寺の水はけの良さ、地盤の良さを表しているものだと思われます。
 

金堂:木造建築としては世界最古。

釈迦三尊像:端厳ななかに穏やかなほほ笑みをたたえた釈迦三尊像(鞍作止利(くらつくりのとり)作)の精緻な光背の裏面には、推古30年(622)に聖徳太子が発病され、また薨去されるにあたり、その病気平癒と成道を願って造られた太子等身の像が、その翌年に止利仏師によって完成したことなどが刻まれております。「尺寸王身」と刻まれている。つまりこの像は、釈迦の像でありながら聖徳太子その人の像でもあるわけで、法隆寺が太子菩提の寺でもあることを物語っています。身長175㎝。

一つの大きな光背に三尊が納まるのは、飛鳥仏の特徴。足先よりも長く伸びた天衣が印象的。

みぞおちに結び紐がある中国式の衣を着ていることが確認できる。飛鳥大仏、法隆寺の釈迦三尊像の胸元をみると、どちらにも胸元で結ばれた紐が見られる。これは裳が落ちないように結ばれた紐で、インドの僧侶にもインド製の仏像にも決して見られない。胸元で結ばれた紐をみたら、それが「中国の影響を受けた仏像」だと断定できる。

屋根を力士像が支えている。

横から見ると手が非常に短いことがわかる。脚は袴のように見える裳の内側で組まれているが、それも極端に短い。さらに身体の厚みも少し不自然。正面からは堂々として体躯に見えるが、横から見ると胸板の薄さが目立つ。飛鳥時代はまだ、側面から見られることを考えていなかった。衣にしても正面には布のシワを現わす衣紋が表現されているが、横側にはほとんどそれがない。つまり止利仏師は最初、側面を意識せずに仏像を造っていた。正面の姿のみを整えたこした仏像を「正面観照性の高い仏像」という。飛鳥時代の仏像、そなわち止利仏師が生み出した「止利様式」の三大ポイントをまとめると、方円形の輪郭と微笑みをたたえた「アルカイックスマイル」、横からの鑑賞を意識しない「正面観照性」、「左右対称性」といえる。

 

薬師如来像

阿弥陀三尊像

吉祥天

四天王像:須弥壇の四隅に置かれた四天王像は、現存する日本最古の四天王で、全体の直線的な表現は止利仏師の様式に共通し、後世の威嚇的な四天王像とは異なった物静かな彫像です。直立型は飛鳥仏の特徴。

 

五重塔

日本最古の塔である五重塔は、五重目の軸部が初層の半分の大きさになっており、これに深い軒の出が相まって安定感を与えています。その軒を雲肘木が優しく支えて、見る人を飽きさせません。
心柱の下にある心礎には、仏舎利が納められています。

1300年の間どれほどの地震があっても倒壊しなかったことから、「耐震設計の教科書」とも呼ばれる。

塔本塑像:五重塔最下層の心柱の四方には塑土で洞窟のような舞台を造り、釈迦に関する四つの説話から四つの場面を塑像の小群像で表しています。

東面「維摩詰像土」は維摩経に説かれた場面で、病の維摩居士を文殊菩薩が訪ね問答をはじめます。これを聞こうと、仏弟子たちが集まった様子を表現しています。

北面:釈迦涅槃の場面。右奥には阿修羅がその様子を見て立っている。医師が横たわる釈迦の脈をとっている。

南面:弥勒浄土の世界。

西面:仏の舎利を分ける場面。

 

中門:軒が深く覆いかぶさり、正面が四間二戸と入口が二つある形が特徴です。エンタシスの柱や上層には金堂と同じ卍崩しと人字型の割束を配した高欄を備え、壮麗な飛鳥時代の様式を今に伝えています。正面の真ん中に太い柱があり入り口にしては入りにくいように感じる。法隆寺の謎とされてきたが、梅原猛「隠された十字架法隆寺の謎」の中で、法隆寺は所得太子の怒れる霊を鎮めるための寺と位置づけ、中門は太子の霊を封じ込めるためにあるとした。

中門からの左右からの回廊の長さを確認すると、左側は10間なのに、右側は11間になっている。左右のバランスを取るための視覚的な補正。

 

鋼封蔵(こうふうぞう):寺宝を収蔵していた蔵。風通しや寺宝の出し入れを考慮して、中央が吹き抜けになっている。

 

大宝蔵院

観音菩薩象(夢違観音):この像に祈ると悪夢が吉夢に変わるとの伝説から、夢違観音と呼ばれ、親しまれています。溌剌とした少年のような像で白鳳時代を代表する仏像です。

玉虫厨子:下部の台座には正面に舎利供養図、背面には須弥山世界図、また側面には釈迦の前世説話「捨身飼虎図」(前世の釈迦が崖下に飢えた虎の親子を見かけ、自らの体を餌に供した話。衣服を木にかける場面、ダイビングして落下する場面、崖下に横たわる体を虎が食べる場面を描く)、「施身聞偈」が描かれています。異時同図法。螺鈿細工が伝来し、たまむしを使用した装飾品は造られなくなった。

最低でも1282匹分、全体に拭かれていたら4542匹分が使用されていた。

現存する最古の漆工芸品。

 

百済観音像:飛鳥彫刻を代表するこの像は像高209.4㎝。あたかも天を指すようなすらりと伸びた体躯に、優しく微笑みかける柔和な尊顔が華麗な光背に映え、見る人の心を惹きつけます。光背の支柱は竹を模して造られ、基部に山岳文が表現されています。酒買い観音の異名がある。水瓶には邪悪な物を払う霊水が入っている。博物館の展示用にコクヨによって作られたガラスケースは一般的なガラスにみられる青みを最大限減らした透明度の高い特殊なガラスで、低反射コーティングを施したもの。通常のガラスの反射率は8%だが、1%に抑えた。

飛鳥時代、日本製の木彫り仏は大半が楠材で造られていた。一方、百済や中国南北朝では楠材の木彫り仏は例がないことから、日本で造られたと推測されている。

 

百万塔:百万塔は天平宝字八年(764)称徳天皇が発願され、神護景雲四年(770)に完成したと言われ、百万基が制作されたため百万塔と呼ばれています。塔芯を刳り抜いた中に収められた「陀羅尼」は年紀の明らかな印刷物としては世界最古のものです。完成後、大安寺、東大寺を初めとする十大寺に収められましたが、法隆寺に収められた十万基の内四万六千基弱が現存しています。

飛天図:金堂内部の壁面は外陣の大壁四面をはじめ、内陣の小壁などすべてに壁画が描かれていましたが、昭和24年焼損してしまいました。写真の内陣「飛天図」は火災の前に取り外され、難を逃れました。内陣にあった20面の飛天図は同じ図様で、花皿を掲げ持った二体の天人が天衣を軽やかに翻して舞う姿が描かれています。

伝橘夫人念持仏阿弥陀三尊像:蓮華の枝が蓮池から伸びているのがわかる。

1月26日は文化財防火デー:理由は法隆寺が火災にあった日だから。

 

 

夢殿:西院の東大門をくぐると、広い参道の正面に東院伽藍が現われて、甍の上には見事な夢殿の宝珠が輝いています。ここは聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧行信(ぎょうしん)が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748)に聖霊会(しょうりょうえ)を始行したとされる太子信仰の聖地であります。東院は聖徳太子の遺徳を偲ぶ施設として創建された。八角形をしているのは故人を追悼するためのお堂であるため。名は聖徳太子が経典でわからないところがあると、夢に金人(仏のこと)が現れた教えたという故事に由来する。

手水舎(ちょうずや)が鳳凰。夢殿をモチーフに作られた建物が日本武道館。

 

救世観音像:聖徳太子の等身像178㎝と伝えられる救世観音像は、行信が夢殿建立のときに本尊として迎えた霊像です。楠の一木造りで漆箔が施され、長く秘仏として厳重に奉安されてきたために金銅仏と見まがうような輝きをみせています。明治になるまで絶対の秘仏として457メートルの布でグルグル巻きにされていたため、金箔がよく残っている。手にはすべての願いが叶うという宝珠を持っている。もともとこの仏に触ると祟りが起こるという話があった。そんなことを意に返さないアメリカ人のフェノロサは、封印解きに踏み切った。単なる保存が目的なら、457メートルもの布は必要ない。この長さは救世観音像の祟りの強さを表わしていたのかもしれない。

光背(こうはい)は、救世観音の後頭部に直接突き刺さっていることらからも、聖徳太子の怨霊を封じ込めるための寺と思える。百済観音は一本の支え木で止められている。

 

法輪寺

◆三重塔:作家である幸田文(こうだあや)さんとのご縁が転機をもたらしました。
父・幸田露伴氏の代表作『五重塔』のモデルとなった、天王寺(東京都台東区谷中)の五重塔焼失を目の当たりにしていた文さんは、ある出版社を通して法輪寺の勧進の話を知り、他人事には思えなかったといいます。
文さんは法輪寺三重塔再建のため、企業や個人を回って寄金を募り、住職と共に免税申請をかけ合い、講演会やメディアへの執筆も厭わず、全国を巡りました。すると「文さんの話を聞きました」「書かれたものを読みました」と、全国に大きな縁の和が広がっていったのです。

◆勧進帳:寺社,堂塔の建立,修理のため寄付金をあおぐ趣旨を記した文書。源義経と家来の弁慶主従の忠義の物語。平家打倒の功績があったものの、不仲となった兄・頼朝に追われる義経一行は、山伏姿に変装して安宅の関にさしかかる。追捕の命を受けて待ち構える関守の富樫。焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると白紙の巻物を読み上げるなど、知力の限りを尽くして通り抜けようとする弁慶。疑いのかかる主君の義経を杖でたたいてまでかばう忠義心に富樫は感銘して通行を許す。歌舞伎十八番の一つ。

 

法起寺

三重塔:日本最古で最大。

 

法華寺★★

歴史は今から1300年ほど前、聖武天皇の后・光明皇后の発願によってはじまりました。父・藤原不比等の死後、皇后は子どものころから住み慣れた邸宅を皇后宮とされます。その後、皇后宮を宮寺に改められたのが法華寺です。

正式には法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、総国分寺である東大寺に対し、総国分尼寺(にじ)として、女人成仏の根本道場としての役割を担いました。皇后は法華寺において尼僧の仏学研鑚を勧め、女人成仏の規範を示されました。

 

法華寺を囲む築地塀(ついじべい)には、皇室とのゆかりを表す5本の線が引かれています。

 

◆十一面観音菩薩立像

本尊・十一面観音菩薩立像は良質の榧(かや)材の木目を生かした檀像(だんぞう)風の一木造で、蓮のつぼみや葉を後光のように配した珍しい光背を持ちます。そのお姿は光明皇后が蓮池を渡られる姿を写したものと伝えられてきました。
長年秘仏であったため造立当初の姿をよく保っており、目鼻立ちのはっきりとしたお顔や唇のほのかな紅の色、天衣(てんえ)の端をそっとつまんだ長い右腕が印象的です。左手には宝瓶(ほうびょう)を持っています。また右足は膝から浮かせて少し前方に踏み出し、親指の先を軽く跳ね上げているのも特徴的です。
透けるように薄い衣に包まれた豊満な弾力感ある体部、そして静から動への一瞬を捉えた表現は、1mの小ぶりの像とは思えないほど充実しており、天平時代の風格をそなえつつ、密教の影響をよく表した傑作といえるでしょう。

一歩踏み出した右足と腰のひねりぐあいは、豊かな体躯や静かに見つめる切れ長の眼、赤い唇などとあいまって、妖しげさえある。

ふくよかな首、長い腕、繊細な指先、細部がチャーミング。

唇に紅の色彩がほのかに残る。

銅板製の髪の毛が後ろになびく様子。

背後から見ると豊かな女性の肉体そのもののようで、光明皇后の姿を重ねたと言われるのも納得できる。

 

◆お守り犬

かつて世界的に猛威を振るった疱瘡(天然痘)は、仏教と同時に大陸からもたらされた感染症だった。奈良時代以降、たびたび大流行し人々を苦しめたが、当時は治療法が無かったため、疫病封じの加持祈祷が行われたほか、さまざまなお守りが作成された。

古代から変わらぬ製法で作られてきた「お守り犬」は、厄除けや長寿、安産のお守りとして親しまれてきました。光明皇后がお手ずから犬のお守りを作り、無病息災を祈願して人々に授けられたのがはじまりと伝えます。護摩堂の灰と土とを練ってかたちを作り、自然乾燥後に胡粉(ごふん)で着色して雲母粉(きら)で磨き上げ、最後に文様を施します。精進潔斎した門主と尼僧しか作ることを許されず、完成までに長い期間を要します。※授与希望者は電話にて要予約

◆から風呂:光明皇后が1,000人の垢を流した。