當麻寺

古代の三重塔が東西一対で残る全国唯一の寺としても知られています。

◆二上山は雄岳、雌岳という二つの頂上を持ち、夕日がその間に沈む光景から、古代の人々は、この山は西方浄土への入り口と思っていた。

◆本堂:耐震のため、白い亀腹の上に建つ。内部に安置されている須弥壇は源頼朝の寄進。壇には「源」の文字を見て取ることができる。

◆弥勒仏:粘土作り。胴体の上に首を載せた形なので、首が無い。

 

◆石灯籠:金堂前に立てられた灯籠は二上山の凝灰岩で作られています。日本最古の石灯籠。

◆ツムラの薬品バスクリンは、浴材中将湯(ちゅうじょうとう)という入浴剤を期限とする。その主成分は婦人薬「中将湯」原料の生薬で、温泉のように温まると評判だった。そのネーミングは中将姫に由来する。創業者の津村重舎は宇陀の出身。逃亡中の中将姫をかくまったお礼に製法を教わったという秘薬が伝わり、それが後に中将湯になった。

◆中将堂本舗の中将餅

 

 

橘寺★★

聖徳太子誕生の地といわれる。

橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守(たじまもり)が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。

同時期の寺院は中国の「王者南面」の思想を受け仏教寺院は南面して建てられるのが通常であったが、橘寺はこれに反して東面して建立されている。立地条件からやむを得ずそうしたのか、あるいは他に理由があったのか等、詳細は未だ不明である。

 

談山神社 ★

入山に600円かかる。

舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。 この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。

たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、 聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、 西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。 後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。

◆十三重塔:父・藤原鎌足の追福のために、長男・定慧と次男・不比等に よって西暦678年に建立されました。 現存の塔は、享禄5年 (1532)の再建で、木造十三重塔としては、世界唯一のものです。 高さは約17メー トルあり、屋根は伝統的な檜皮葺きです。 神仏混淆時代の名残であると同時に、談山神社のシンボル的な存在です。

◆比叡山の末寺であったので、しばしば興福寺の僧兵たちと戦いを交えた。そのため社の建て方が城郭風になっている。

◆朱塗りの本殿は、のちに日光東照宮を造営する際の手本になり、「関西の日光」の異名がある。

 

中宮寺★★

法隆寺と中宮寺は僧寺・尼寺の関係にあったと考えられます

菩薩半跏像:国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。

半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れ、人の悩みをいかにせんかと思惟される清らかな気品をたたえておられます。両肩にかかるのは蕨手とよばれる毛髪。神の色は元は群青に彩色されていた。

聖徳太子が母の姿を自ら刻んだと伝わる。50円切手の意匠。

 

天寿国曼荼羅繍帳:日本最古の刺繍遺品として知られる「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」は、推古天皇30年(622)、聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子薨去ののち、宮中の采女に命じて、太子が往生なされている天寿国(極楽浄土)のありさまを刺繍せしめられたものです。

◆吉田五十八:成田山新勝寺本堂、歌舞伎座 耐震耐火のお堂。

 

朝護孫子寺★★★

◆信貴山:聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。以来、信貴山の毘沙門天王は寅に縁のある神として信仰されています。

◆朝護孫子:醍醐天皇により、朝廷を子々孫々にわたり守護せよ。

◆本堂:朝護孫子寺のある大和国信貴山は毘沙門天王が日本で最初に御出現になった霊地で、毘沙門天王の総本山です。 特に本堂からの眺めは素晴らしく、斑鳩方面の山や町並を一望することができます。また、日の出側になるため、毎朝ご来光を拝むことができます。毘沙門天王の使者は百足(むかで)です。おあし(お金)を沢山いただけるという意味がございます。信貴山内では、いたるところに寅だけでなく、百足の絵や像を見ることができます。

◆毘沙門天王の扁額には、ムカデの装飾がされている。

◆阪神タイガースファンの聖地。

◆開山堂☆

◆かやの実☆

 

天理教

天理教ではここを人類のふるさととし、市内では「ようこそおかえり」という看板をよく見かける。

 

唐招提寺★★★★★

鑑真和上:第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗、次第に視力を失うこととなりましたが、6回目にして遂に日本の地を踏まれました。以後、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごされ、天皇を始めとする多くの人々に授戒をされました。

戒律を授ける施設である戒壇を東大寺に建設、さらに戒律の教えが日本に定着するよう戒律を専門に学ぶ施設を建てた。これが唐招提寺。戒律は僧侶が守るべき単なる規則ではなく、正式な僧侶になるための資格。

◆寺地を決める際、方々の土を舐めて物色したところ、唐の戒壇の土と同じように甘い味がしたので、この地に建立を決めた。「甘土」が変化して「尼が辻」になった。

◆金堂:七間だが、中央から両端に行くほど間口が狭くなっている。遠近法。軒下の四隅には、邪鬼がいる。盧舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像の本尊が三体並んでいる。ありえない組み合わせの訳は、下記の「◆戒壇」を参照。

仏像が三体安置されているが、その三体で金堂のスペースはほぼ埋まり、中に入って仏像を拝むことができない。この時代のお堂は仏像を安置するための空間にし、お堂の外から礼拝する形が主流だったと考えられている。

 

◆講堂:平城京の東朝集殿を移築した建物。平城京の建物で現在まで残っているのは唯一この建物だけ。

◆盧舎那仏坐像:後背の小さな釈迦如来像は862体。

◆梵天・帝釈天像:仏教の護法とされ、衣服の下に鎧が見られるのが特徴。

 

◆鑑真和上坐像:師の示寂が近いことを知った弟子たちが作った。6/5~6/7のみ公開。生前に造られた肖像を「寿像」、死後に造られた肖像を「遺像」と呼ぶ。胎内から白い砂状のものがあり、これを遺灰とみなして「遺灰像」とする考え方もある。まつげは1本ずつ描かれている。鼻の下の髭には白いものも混じっている。眼は左右で微妙に高さが違っている。

造形にあたって座禅をしている姿を選んだ理由について、「古くから中国に伝わる蝉脱思想の影響による」と推測されている。蝉脱思想とは、蝉が脱皮するように、肉親に宿した魂を抜いて解脱するというような意味。

◆千手観音菩薩象:大きな手42,小さな手911。合計953本。 作ったのは如宝というペルシア人。体に対して顔が大きく、ぽっちゃりして幼い感じ。アニメ顔っぽい。

◆鼓楼:名称は「鼓楼」ですが、現在は鑑真和上将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿(しゃりでん)」とも呼ばれています。

◆礼堂:隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂。

◆経蔵:堂の東側に宝蔵とともに並んで建つ高床式の校倉(あぜくら)で、小さいほうが経蔵です。
唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、唐招提寺で最も古い建造物であり、日本最古の校倉です。

◆戒壇:金堂の西側にある戒壇は、僧となるための授戒が行われる場所です。創建時に築かれたとされていますが、中世に廃され、その後再興されたものの火災により建物は失われました。現在は、3段の石壇のみが残り、その上に昭和53年(1978)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれました。

戒壇院は東大寺(本尊が盧舎那仏)、下野薬師寺(薬師如来)、太宰府の観世音寺(観音菩薩)に設けられ「天下三戒壇」と呼ばれ崇められた。当時鑑真の私寺として建てられた唐招提寺には戒壇院は無かったが、鑑真の死後、官寺へと成長していった。そのため天下三戒壇の本尊を一堂に集めることで、唐招提寺こそが受戒を伝えた本拠であると誇示したかったのではないかと考えられている。

 

◆松尾芭蕉の句碑「若葉して御目の雫拭はばや」(折しも初夏、あたりの樹々に若葉の色がみずみずしい。この若葉でもって、和尚の盲いたお目の涙をそっと拭ってさしあげたい。)

◆うちわまき:鎌倉時代の唐招提寺中興の祖・大悲菩薩覚盛(だいひぼさつ・かくじょう)上人が、修行中に蚊にさされているのを見て、それをたたこうとした弟子に、「自分の血を与えるのも菩薩行である」とおっしゃって戒めたという故事があります。戒行清廉なるその徳をたたえ、「せめて団扇で蚊を払って差し上げよう」と、上人が亡くなられたときに法華寺の尼僧がハート型うちわを供えたことが始まりです。
上人の命日5/19に執り行われる中興忌梵網会(ちゅうこうきぼんもうえ)の法要の後、舎利殿(鼓楼)から数百本のうちわがまかれます。(うちわまき参加券は当日配布します。参加券の代わりとして抽選券も配布します。)うちわを授かることは、病魔退散や魔除けのご利益があるといわれています。

◆和上は現代の日中友好のシンボル。中国政府の要人が日本を訪問した際、多くの人が廟所に参拝している。

 

東大寺 ★★★★★

◆南大門:仁王像二体は、昭和63年から5年間にわたって全面解体修理が行われ、天平創建期から向かい会って立っていたことや、山口県で伐採された木材が、約1年程で搬送され、古文書の記述通り、ほぼ70日間で二体同時進行で、造像されたことも証明された。見上げることを想定して、上半身にボリュームを持たせ、下半身は上半身よりも短めに造形されている。逆遠近法。それによって見上げたときの迫力が増している。支えが無くても自立する。

寄木造りで造られ、阿行は2987,吽行は3115もの部材で構成されている。 

日本最古の石獅子。1196年、宋から輸入されたもの。

南大門を入って3歩目の位置に立つと、2つの像からの視線がピタリとあう。このポイントを「降魔」といい、山門の内部に邪悪なものが入るのを防いでいる。

 

◆大仏殿:最も大きな国宝。毎年、大晦日から元旦に正面唐破風(からはふ)下の観相窓が開かれ、大仏尊像のお顔を外から拝しながら新年を迎えることができる。
平成24年に大仏殿内、廻廊、霊名所、授与所の照明装置を全てLED化。
消費電力は8分の1、熱や紫外線も殆んど出なくなりました。

建物前方の唐破風の横幅は通路と同じ。

観相窓が開かれるのは、元旦の0~8時までと、8/15の夜に行われる万灯供養会のみ。

開眼の際に使用した筆は正倉院に宝物として保管されている。

 

◆大仏殿内部の柱には大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が開いていて、横幅30㎝、縦幅37㎝あり。

◆盧舎那仏:サンスクリット語のビルシャナ(太陽)からきている。仏の中の仏という意味を持つ。造営の際には、当時の国民の2人に1人という、260万人が携わった。大仏開眼の際に使用された筆は今も正倉院に伝えられている。

◆八角燈籠:燈籠としては最大級。火袋の八面のうち、四面には楽器を奏でる音声(おんじょう)菩薩象が、他の四面には獅子がレリーフで表現されている。

◆蝶は6本ではなく、8本脚で造形されている。理由は諸説有り。

◆大仏が完成したときは、752年4月9日。ちょうど仏教伝来の552年から200年目の節目にあたる。ちなみに平等院は1052年に造営され、1053年に鳳凰堂が建てられた。552年を起点にして、その500年後は末法に入る年だった。

釈迦の誕生日である4月8日に開眼供養を予定し、それに向けて準備をしていたものが、翌日になった理由は不明。

◆大仏の顔は江戸時代の修復で全く変わってしまった。天平時代の大仏の顔は、台座の側面に線描きで表わされた顔こそ、オリジナルの顔だと言われている。現在の顔より丸顔だった。大仏殿の前に建つ燈籠に彫られた顔も、天平時代の大仏の顔と言われており、ふっくらとした顔をしている。

◆東大寺の模型:中門24メートル、本堂48メートル、塔76メートルと、それぞれ倍になっている。

◆階層構造

 

◆戒壇堂

四天王立像:多聞天。怒りの表情で見るものを圧倒する。

広目天:瞳には黒曜石が使われているため、黒々としていて、目力がある渋い。「通常ならざる目を持つ者」という意味があり、色んなものを見て、見たものを書き留めるために筆と巻物を持っている。踏まれている邪鬼は、口元が笑っているようにみえる。まさに天邪鬼。

激しい憤怒の面を見せる持国天、増長天に対し、眉をひそめて静かに怒る広目天、多聞天の表情の対比が秀逸。

増長天は四天王の中で唯一、口をカーッと開いて、憤怒相をさらに際立たせている。

表面の仕上げに使われた土には銀灰色の雲母が入れられている。元来の像はその上から全身に配色されていた。

甲冑は四体の体形、動きにフィットしている。この四天王像が仏像で「初めてオーダーメイドの甲冑を身につけた」と言われている。

 

◆二月堂

二月堂下にあるのは、良弁杉で2代目。

欄干にはお水取りの松明を回すときに作られた窪みがある。

 

◆法華堂(三月堂)★

不空羂索観音立像:願いを叶え、空しくさせないことから「不空」。頭にかぶるゴージャスな宝冠にも注目。ヒスイや真珠など2万8千個の宝石が散りばめられている。

三面六臂の像で、第三の目は額の中央に縦型で表現されている。右肩と左肩にかかった衣では表現が異なり、左肩に鹿布がかけられているのがわかる。身体にまとっている布を見ると、右肩にかけている布にはシワが表現されているが、左肩にかけている布にはシワが内。右側の布は軽くて柔らかく、左肩の布は厚手の布という表現。このことから右側の布は天衣、左側の布が鹿布だと思われる。下半身には裳をつけているが、その衣紋線は白鳳時代までの仏像に比べて一段と深く、くっきりと表現されている。

 

南北に長いお堂を西側から見ると、左半分が奈良時代、右半分が鎌倉時代の建物になっている。元々は右が本堂で、左が礼堂と別々だったものを、重源上人が礼堂を改修した折に、くっつけた。欄干に段差があり、屋根の高さも微妙に違う。

 

◆正倉院

「シルクロードの終着駅」と言われる。絹の道。

正倉とは奈良平安時代の中央地方官庁や大きな寺にあった重要な品を収めておく収蔵施設のこと。そしてその正倉が何棟も集まった一角を正倉院と呼んだ。今では東大寺正倉院内の一棟だけが当時の姿のまま残った。

 

◆転害門

お寺の門なのに、なぜか注連縄がはられている。手向山八幡宮の八幡神を宇佐八幡宮から迎え入れるときにこの門を通ったことから。