海龍王寺

・今の寺は現在の住職によってかなり整備されたが、それでも荒れ寺だった当時の面影を感じることができる。

・玄昉が唐からの帰路、暴風雨に遭遇するも『海龍王経』を唱え無事に帰国を果したことにちなんで、寺号が海龍王寺と定められました。

・春には雪柳が境内を白一色に染める。

・本尊である十一面観音菩薩立像は通常戸帳越しの公開で、毎年3月下旬~4月上旬、5月上旬、10月下旬~11月上旬の特別開帳等でのみ開帳されます。

・像は精巧入念な作で、頭・体のプロポーション、頭部の自然な俯きに優しい手の動き、腰のひねりに巧みに応ずる右足の遊ばせ方など彫刻としての基本的なデッサンは確かなものがあり、衣の文様表現では彩色より切金が主座を占め、頭飾装身具では、透彫りの技巧の細かな点に注目できます。

四海安穏祈願法要:奈良時代に遣唐使の航海安全のために読誦された海龍王経。全国各地から送り届けられた海水を壇上に安置し、海龍王に「世界の平和・生命の源である海の安穏と自然への感謝、渡海する方々の安全」の思いを込めて厳修します。海外渡航など旅の安全を願う人々が全国からお参りされている。

 

鹿島立ち

旅行に出発すること。旅立ち、門出。奈良時代、東国から筑紫(つくし)、壱岐(いき)、対馬(つしま)などの要路の守備に赴いた防人(さきもり)が、任地へ出発する前に鹿島神宮の前立ちの神たる阿須波神(あすはのかみ)に道中の無事を祈願したことに始まり、のち武士にもこの習慣が伝えられたという。

・一説によると,中大兄皇子とともに大化の改新を行い、藤原氏の祖となった中臣鎌足は鹿島に生まれ育ち、飛鳥に移ってのちも鹿島の神を信仰していたという。

 

春日大社

・ご神体は三笠山。

・石燈籠が2,000基。釣燈籠が1,000基。合計3000基で日本一。節分万燈籠には灯がともり幻想的な風景が。

・燈籠の竿部分は、「春日社」と刻まれているが、15基だけ「春日大明神」と刻まれた燈籠があり、それをひと晩で3基見つけると長者になれるという言い伝えがある。

・一ノ鳥居は日本三大木造鳥居。氣比神宮、厳島神社。大きな鉄の輪が二個ずつついているが、お祭りの際、神事の始まりを示すのに使う大榊を立てるための金具。

・本殿を一般人が近くで見ることはできないが、若宮神社が酷似している。寺院建築の影響を受けている。身舎(もや)柱は円柱、向拝柱は角柱。御神輿のように持ち運びができたのではないかと考えられている。

・社殿は傾斜のある土地にある。通常は回廊の窓は長方形だが、傾きに合わせて平行四辺形になっている。

・御神木が社殿を突き抜けている。

・20年に一度、社殿の修理が行われる。伊勢神宮でいう式年遷宮のようなものだが、社殿は他の神社に移されることも多い。「春日移し」と言われる。

・奈良の一年を締めくくる「春日若宮おん祭」。900年近くにわたり途切れることなく続けられている春日大社の摂社、若宮神社の祭礼です。その中心行事が「お旅所祭」。芝舞台の上で、神楽や田楽など様々な芸能が奉納されます。この祭りが、「芝居」という言葉の語源だと言われています。

・松は特に芸能の神の依り代(よりしろ)であり、この影向の松は能舞台の鏡板に描かれている老松の絵のルーツとされている

 

元興寺(がんごうじ)★★

日本最古の瓦が残る。一部に飛鳥時代の柱も残る。

極楽坊の智光曼荼羅:図の下の方には智光と頼光の二人の僧が描かれている。内陣の周囲は畳敷きになっており、念仏を唱えながら右回りに歩き回って行をする構造になっている。

聖徳太子孝養像:つり目なのは、賢さを表している。16歳時に、父親の用明天皇の病気が治るようにと祈っている姿を表している。

 

岩船寺

・普賢菩薩は笑う象にのる。

 

金峯山寺(きんぷせんじ)

仁王門:本堂(蔵王堂)北側に位置する重層入母屋造、高さ20.3メートルの壮大な日本屈指の山門です。二階建てで、一階と二階の境目にも屋根の出を有する本瓦葺きの二重門です。本堂が南を正面とするのに対し、仁王門は北が正面。これは、熊野(南)から吉野(北)へ向かう巡礼者と、吉野(北)から熊野(南)へ向かう巡礼者、両者に配慮して互いに背を向けるように建っているのだといいます。門の左右に安置された高さ5.1メートル、桧材寄木造りの金剛力士(仁王)像は重要文化財で、日本で二番目の大きさを誇ります。

銅の鳥居:東大寺の大仏を鋳た銅の余りで作られた。

内陣の柱は、神代杉や躑躅の自然木をそのまま使っている。

山号は国軸山。日本国の中心に位置する寺という意味。

役行者が蔵王権現のお姿を山桜の木に彫刻したことから、吉野山では山桜が御神木として保護、献木され、日本一の桜の名所となった。

 

◆如意輪寺:脇から石段を登ると、後醍醐天皇陵がある。天皇陵としては珍しく北向きに築造されているが、これは「死して後も、魂は京都の天を望まんと思う」と言い残されたため、京都の方角を向いている。

◆吉野駅:駅舎は、角度が急な大屋根と緩い角度の小屋根を組み合わせた「大和棟(やまとむね)」と呼ばれる社殿風の建築様式をしている。

◆昭和4年に運行を開始した日本最古のロープウェイ。

 

興福寺 ★★★★★

◆山階道理:興福寺(山階寺)は藤原氏の権勢によって無理を押し通したところから。

本来、非道な事であっても、権力によって道理として通るたとえ。

 

◆南円堂(なんえんどう)

「西国三十三所」の第九番札所として人々の参拝が多い御堂です。この堂は藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父の内麻呂(うちまろ)追善のために建立しました。基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら築き上げたことが発掘調査で明らかにされました。当時の興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家となる北家の力が強くなり、北家の内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めました。本尊である不空羂索観音菩薩(10/17のみ公開)が身にまとう鹿皮(ろくひ)は、神に仕える鹿への信仰、つまり氏神である春日社との関係により、藤原氏の強い信仰を集めました。

向かって右側の藤棚は南都八景の一つ。

行賀像:10/17のみ公開。眼力抜群。

 

◆不動堂☆

◆五重塔

神仏混淆→明治維新→廃物き釈により、五重塔も売りに出され、25円で買い受けたものがいた。現在の貨幣価値にしても100万円程度。ところが塔を解体するのに大変な手間やお金がかかるので、買い主が困って放っておくうちに、仏教排斥運動の嵐も収まり、解体されずにすんだ。

東寺の五重塔55Mに次いで高い。

◆  三重塔  毎年7/7開扉。1180年建立。

 

◆北円堂(ほくえんどう)

日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺の創建者藤原不比等の1周忌に元明・元正天皇が、長屋王に命じて建てさせたものです。興福寺伽藍の中では西隅に位置していますが、ここは平城京を一望の下に見渡すことのできる1等地で、平城京造営の推進者であった不比等の霊を慰める最良の場所でした。

無著・世親菩薩立像:晩年の運慶が造った日本肖像彫刻の最高傑作に挙げられる2体の像。5世紀の北インドに実在した兄弟僧。老境の兄無著が、年の離れた弟世親に仏教の本質を説く様子ともいわれ、極めてリアルに表現している。

 

◆東金堂

本尊薬師如来坐像を中心に、日光・月光菩薩立像、文殊菩薩坐像、維摩居士坐像、十二神将立像、四天王立像などを安置しています。

かつては五重塔と回廊によって結ばれており、夫婦和合の聖域とされていた。

・病に伏せる維摩居士を文殊菩薩が訪ねてきて、仏教思想の核心についての激しい議論を交わしたという話が仏教経典に書かれている。

維摩居士は在家の信者で有り、頭に帽子を載せ、ゆったりとした着物を羽織って、背もたれのついた四角い椅子に座っている。額には血管が浮き出ていて、顔をしかめ、握りこぶしを振り上げながら、病を押して命の限り熱い議論をしている様子。文殊菩薩は丸い蓮の台上に座り、涼しい顔で相手の話を聞いているというふう。汗を掻いているような維摩居士と比べて、文殊菩薩は非常に冷静な顔をしていて対照的。

 

◆中金堂

柱は66本、日本では巨木が見つからず、アフリカ中部産のケヤキ、カナダ産のヒノキを使用している。

 

木造釈迦如来坐像:藤原鎌足が蘇我入鹿打倒を願って、大化元年(645)に造立した釈迦如来像と伝えます。

木造大黒天立像:頭巾を被り、上衣と短い袴を着け、袋を肩にかけ、沓をはきます。彩色が落ちて、丸ノミによる荒削りが目立ちます。

 

国宝館

①中金堂鎮壇具:中金堂建設の際に、地の神に土地を借りることを報告し、許しを得る自鎮儀礼が行われ須弥壇下に、35種類二千点近くの放物が鎮められた。

 

④⑤天燈鬼・龍燈鬼立像

四天王像に踏みつけられる邪鬼を独立させ、仏前を照す役目を与えたものです。

天燈鬼像は、2本の角と3つの目を持ち、口を大きく開き、やや横目で前方をにらみ、左肩に乗せた燈籠(とうろう)を左手で支えます。上目遣いの表情と、ふんどし姿がユーモラス。赤鬼、阿
龍燈鬼像は、腹前で左手で右手の手首を握り、右手は上半身に巻きついた龍の尻尾をつかみ、頭上に乗せた燈籠を上目づかいににらみます。青鬼、吽

日本で唯一生まれていない邪鬼。

 

⑨木造仏頭(釈迦如来像頭部):古記に「この像の眉間からは自然に光が発せられたので白毫(びゃくごう)はつけなかった」と記されるように、この像にも白毫が付いていません。

⑫銅造燈籠:扉の文章は弘法大師、書は橘逸勢と伝えられる。

⑬銅造燈籠火袋羽目:文章は弘法大師、書は橘逸勢と伝えられる。

⑯銅造仏頭(旧東金堂本尊):伸び伸びと弧を描きながら流れる眉、水平に伸びる下まぶたと、それをおおうように弧を描く上まぶた(蒙古襞という。目頭の部分に覆い被さる上瞼の皮膚)、額から直線的に伸びる鼻、ふっくらとした唇、顎の張った逞しい面相は、青年のような若々しさ、清々しさを感じさせてくれます。

 

◆乾漆十大弟子立像(じゅうだいでしりゅうぞう)

・衣のひだが年齢や性格の表現に一役買っている。

⑰舎利弗像(しゃりほつぞう)像の袈裟の折り目は垂直方向に流れており、直立感を感じさせます。腰高で痩身の厳粛な風貌の青年で、それに呼応して衣紋も縦長に現わされている。
⑱目犍連像(もくけんれんぞう)像は真っ直ぐ正面を見て、両手で何かを抱かえ持ちます。

⑲迦旃延像(かせんえんぞう)他の弟子像は体の動きが少なく、静かにたたずんでいますが、この像は右肩を少し右に出します。わずかな体の動きで大きな動きを感じさせます。右を向き、口を開き、歯をのぞかせます。
㉑羅睺羅像(らごらぞう)。釈迦の子として他人から絶えず注目されていることをよく知っており、人の二倍も三倍も努力し、また身をつつしんだと言われます。像は正面を向き、目を閉じ、両手は腹前で袈裟の中につつみます。その袈裟は求心的にまとめられます。盲目の僧。

㉒富楼那像(ふるなぞう)像はこまやかな折り目を造り、老人の顔にし、左肩を引き右肩を出し、右方を見ます。

㉓須菩提像(すぼだいぞう)像は大まかな折り目を造り、若者の顔にして、左方を見ます。

 

◆乾漆八部衆立像(はちぶしゅうりゅうぞう)

インドで古くから信じられてきた異教の八つの神を集めて、仏法を守護し、仏に捧げ物をする役目を与えて、八部衆とします。

 

㉘  阿修羅像

目は碧く、金髪、赤い肌の偉業の神だった。

向かって右:まだ迷いの中にあるのか眉をしかめている。

向かって左:仏法の守護神として生きていく覚悟を決めたかのよう。

正面:悟りに達し、穏やかな心を取り戻したかのよう。

向かって左から、子供→青年→大人の顔とも。

体重は15キロ程度。

仏像で唯一ファンクラブがある。

スカート状の衣に施されているのが、想像上の花を意味する宝相華文様。

左右に高く揚げた腕の手の平が上を向いているのは、左手に日輪、右手に月輪を捧げ持っていたため。中間の両手には弓と矢を持っていたからと言われる。

修羅場(しゅらじょう、しゅらば)とは、インド神話、仏教関係の伝承などで、阿修羅と帝釈天との争いが行われたとされる場所。

 

㉔五部浄像(ごぶじょうぞう):頭に陸で最大の動物である象の冠をかぶり、正面を凝視する姿にあらわされます。

㉕畢婆迦羅像(ひばからぞう): 音楽をつかさどる神で、横笛を吹き、諸神を供養します。像は正面を見て、口や顎に髭をたくわえます。

㉖鳩槃荼像(くばんだぞう) 像は正面を向き、炎髪にして、口を開け、歯をのぞかせています。
㉗乾闥婆像(けんだつばぞう) 像は正面を向き、頭上に獅子の冠をかぶり、静かに目を閉じています。
 

㉙沙羯羅像(さからぞう) 頭に蛇を巻き、頭上で蛇の頭を立て、左を向き、少年の顔にあらわします。
㉚緊那羅像(きんならぞう) 像は頭上の正面に1本の角を持ち、額には縦に1目を置いて3目とし、やや左を向きます。
㉛迦楼羅像(かるらぞう) 像は頭が鳥で、身体は人間で、左を向き、肩にスカーフを巻いています。カラス天狗のもと。
 
◆菩提院大御堂十三鐘

石子詰:万が一鹿を殺害した場合の刑。

7つ(4時)と6つ(午後6時)=13の鐘が鳴る。

三作(みのさく)の供養のため、年齢も重ね合わせて。母は紅葉を植えて永年供養とした。

 

 

五劫院

・ご本尊はアフロヘア。アフロヘアのように見える螺髪は気の遠くなるほど長時間考え続けたお姿です。

・「億劫」は元々仏教用語で、「非常に長い時間」を表していました。 「劫」はサンスクリット語「kalpa」の音写で、古代インドで最長の時間の単位を示します。 ”一劫”の長さは、100年に一度天女が高い岩山に舞い降りてきて羽衣で頂上を撫でて、その摩擦によって岩山が消滅する時間、簡単に言うと「無限に近い時間」を表します。 この”一劫”の一億倍が「億劫」で、考えらないほど長い時間を指しています。 このことから、「億劫」は、「考えられないほどの時間がかかってしまい、容易でない」という意味から「時間がかかるので、面倒に感じる」という意味になりました。「面倒」は「手間がかかること」、「億劫」は「やる気が起きない」という心情を表します。「面倒な問題である」とは言いますが、「億劫な問題である」とは言いませんよね。

 

 

古墳

奈良県内の古墳数は9,600基。

市町村別では天理市が一位で、1,690基。