白峯神宮(しらみねじんぐう)

闘魂お守りがある。
崇徳院は、父親である鳥羽上皇との対立の末に、弟の後白河天皇を相手に、保元の乱により、讃岐国に流刑に処された。この乱が武士台頭のきっかけとなり平安時代の終焉へと向かった。
崇徳院は怨霊となった。人々は社会があるべき姿ではないときに、その原因を怨霊に求める。貴族や江戸時代の神道家、天皇中心の政権に変えようとする人々にとって武士の世の中はあるべき姿ではない。その出発点に存在したのが崇徳院の怨霊だった。
慶応4(1868)年
8月26日:勅使、崇徳院の霊に京都への動座を願う
8月27日:明治天皇即位
9月 6日:崇徳院の霊、京都に到着。天皇これを拝する。
9月 8日:明治と改元。

狛犬には、サッカーボール、ラグビーボール、ラケットを持っているものがある。

 

新京極

◆京極の名の由来:新京極の隣の道は、京極通。京極通は寺町通の一部でもあり、この寺町通で最大のお寺、誓願寺を建てたのは、秀吉の側室であった「京極松の丸」という女性だった。その女性の名にちなみ京極通となった。
◆本堂と通りが極端に近いのは、明治時代に通りが作られた痕跡。

◆船越英一郎のオフの過ごし方:かねよで”きんし丼”を食べ、ホーマンでジャージを買い、紀伊国屋で本を買い、MOVIXで映画を見る。
◆蛸薬師堂:入り口右の鯉地蔵尊は、鯉の姿になって鴨川を渡ろうとした若者を救ったという伝承があり、氾濫を繰り返した鴨川の歴史を物語る。ちぢれ毛が治る御利益もある。がん封じのお守りもある。蛸のイボががんのイメージと重なり、がん封じのご利益にったといわれる。蛸が描かれた絵馬は手書きのもの。一枚一枚の図柄が全て異なっている。
◆染殿地蔵:安産の地蔵として信仰されている。四条通に面した林万昌堂という甘栗屋の店内からも境内に入れる。
◆誠心院(じょうしんいん):初代住職が和泉式部。和泉式部の法名から寺名をとった。
◆マツモトキヨシ1000号店がある。実際の総店舗数は760程度だが。
◆錦天満宮:紙芝居は見終わるまで16分かかる。大願梅という可愛らしいお守りがある。二ノ峰と三ノ峰の間の荷田社(かだしゃ)には、石造の奴彌鳥居(ぬねとりい)がある。日本に2つしかない。もうひとつは、錦天満宮の摂社の日ノ出稲荷神社。
◆誓願寺:迷子道しるべ石の左奥に張り紙がしてあることもある。女人往生の寺と言われる由縁を作ったのが和泉式部と清少納言。二人ともこの寺で尼になった。
◆阪急百貨店の角に北緯35度モニュメントがある。

◆「koe donuts kyoto」できたてのドーナツをナイフ&フォークで楽しむ京都発のドーナツ専門店。店は新国立競技場を手掛けた建築家、隅研吾のデザイン。

 

神護寺(じんごじ)

◆そうだ京都行こう『あの空海だって、自分には「ここの、この夏」が必要だと思ったわけです。』2004夏
◆薬師如来立像:への時に引き締められた真っ赤な唇。にらむような鋭いまなざし。異様に丸く突き出し割れている顎。妙にふてぶてしく偉そうに見えて怖い。他の仏像と違うのは、禁欲的な山岳修行のためとも。和気清麻呂が失脚させた道鏡の怨念を鎮めるためとも言われる。突き出した腕は別材・自然な比例を無視し部分部分を強調した表現。呪詛に対抗するための神威が込められているのか。

薬壺を持つ右手と左手が同じ高さの珍しい像。肉付きがよい両足は平安時代前期の特徴。
◆すりへった石段が参詣者の数を物語る。
◆かわらけ投げは、ストレス解消に最高。かわらけとは、中世の紙コップのようなもので、使い捨て。うまく投げるコツは、お椀を逆さにしたような状態で、谷底に向かって投げる。上昇気流に乗るため。

◆地蔵院:江戸時代に建立された塔頭の一つで、明治33年に再興。「世継ぎ地蔵」といわれ、家の跡取り誕生を願う人の信仰を集めている。左手に建つ客殿は、谷崎潤一郎がしばらく隠棲し「春琴抄」が書き上げられた場所。
◆文覚が、神護寺復興の勧進のために後白河院の法住寺殿に参入して、その無礼を咎められて伊豆に流され、源頼朝に平家討伐をすすめた話は「平家物語」中にもあり有名。その後、頼朝の後援も大きく神護寺は立派に再建された。

◆空海作という不動明王像があったが、平将門の乱が起こると、将門調伏のために下総国へ運ばれ、京都広沢の遍照寺・寛朝僧正を導師として御祈祷がなされたという。その後、乱が鎮まると寛朝を開山として成田山新勝寺が建立された。

◆空海が密教の入門儀式を施した僧侶の名を記した「灌頂(かんじょう)暦(歴)名」には、天台宗を開いた最澄の名もある。墨で書き直した跡があり、「弘法も筆の誤り」は空海直筆のこの「灌頂暦名」が由来。

 

 

神泉苑(しんせんえん)
◆平安京の禁苑(宮中の庭)として造営され、常に清泉が湧き出すことから名づけられた。
◆日照りが続いても神泉苑の水が枯れることはなく、この時ばかりは庶民の立入が許されて水が分け与えられたことから、人々は感謝と敬意を込めて「御池」(御池通の名前の由来)と呼ぶようになった。
◆池というものについて、昔の人は現代人とは異なるイメージを持っていたかもしれない。池は穴であり、天上と地獄を貫く巨大なパイプであった。まさに、古代の人にとって「神の泉」であった。
◆池には真っ赤な欄干の橋が架かっていて、一言だけ願い事を念じて渡ると叶うという。
◆一見すると神社っぽいが、れっきとした真言宗のお寺。
◆源義経が静御前を見初めたのが、神泉苑での雨乞い祈願の奉納舞が催されたとき。白拍子の静御前が舞う姿に一目ぼれだった。
◆烏丸御池駅:烏丸(からすま)とは、「川原の洲の上に発達した土地」という意味。「カハラ(川原)」「ス(洲)」「マ(際)」。カラスとは何の関係もない。

 

新撰組(しんせんぐみ)

◆「誠」の文字の意味は、尊王攘夷思想を表す「誠忠浪士」からきているという。「言を成す」から有言実行を意味しているとも。隊旗の「誠」という字が揺れたときに、近藤の「試衛館」の「試」に見えるからという理由も隠されているらしい。近藤派の存在を大きくしたかった土方の野望とも言われている。
◆制服を作ったのは大文字屋呉服店(現在の大丸)。京都店(きょうとみせ)という。
◆「誠」の文字を染め抜いた隊旗は、高島屋で作った。
◆独特のだんだら(山形)模様は、身分証明や同士討ちを避けるためにつけた。
◆「誠」は北野天満宮の奉納絵馬の誠からであり、現在も北野天満宮の境内に飾られている
◆京都市民が贈答品・プレゼントを贈るときには、年配の人は大丸、若い人は高島屋で買う。
◆肺結核だった沖田総司が、黒猫をそばに置いていたのは有名。黒猫は魔を打ち払う霊力を持つ特別な存在だとみなされてきた。黒い招き猫が魔除けや厄除けの力をもつとされて数多く作られたのもそのため。

◆新選組のだんだら模様の羽織は、忠臣蔵に似せて作ったもので、忠義を重んじる集団ということで京都の人々に理解を求めたという。

 

仁丹町名表示板

◆「京都仁丹樂会」の調査によると、2013年740枚であったものが、2022年には545枚に減っているとのこと。

 

真如堂(しんにょどう)
◆そうだ京都行こう『ご本名は、真正極楽寺。「正真正銘のゴクラクは」町角を曲がるとあったりするんです』2002秋

◆山号の鈴声山は、神楽岡(吉田山の古名)の神社の鈴の音が聞こえてきたことから。
◆本堂の手前右手には、菩提樹が枝を広げている。菩提樹の実から数珠が作られていたこともある。
◆ご本尊は、「うなずきの弥陀」と呼ばれる阿弥陀如来。円仁が霊木で彫った如来に「一切の衆生を導きたまえ。中でも女人を導きたまえ」と祈ると3度うなずいたとか。以来、女性往生のご利益があるとされている。生身の仏様ということで、眉間の白豪はいれていない。

◆屋根には琴高(きんこう)仙人とコイ(龍の子)の像が。
◆涅槃絵の拝観時には、花供曽(はなくそ)というお菓子がもらえる。その変わった名前は、仏様への供物を意味する「花供御(はなくご)」に由来する。
◆堂内を拝観すれば、比叡山、東山を借景にした「涅槃の庭」が見られる。釈迦がガンジス川で涅槃に入った姿を石組で表現した枯山水の庭。
◆涅槃の庭:中央の4つの大きな石は左側(北)に頭をむけ、右側を下にして横たわるお釈迦様を、その周囲の石は弟子たちを表現している。
◆随縁の庭:作庭家・重森千青による。随縁とは、「心理は絶対に普遍でも、条件によって様々な姿を見せる」ことをいう。モチーフは庭の背後にある仏殿のかえる股に付けられた四つ目の家紋。ほとんどの素材が境内にあったものを再利用している。

◆四季の間の襖絵の春の間に描かれているのは、梅とスズメ。普通はウグイスのはずだが、これは「鳥違い=取り違え」であり、あまり歓迎しない客をこの間に迎えたとの説がある。

◆鐘は、昭和17年に軍需品の原料として香川の精錬所へ。たが戦後、無事お寺にカンバック。戦時中は全国から1万個以上の鐘が集められたが、残ったのはわずか380個。材質を調べるため穴を2つ開けられた後が残っている。兵器として使われること無く無事に帰還したことから、その強運にあやかろうとする人もおり、鐘の穴に向かって祈りをささげる人もいる。
◆お十夜(十日十夜別時念仏会) 11月5日~15日 :中風よけの小豆粥の接待がある。一説によると、粥を「おじや」というのは「おじゅうや」がなまったものだとも?
◆元三大師堂の前にある「工学博士田辺作郎君顕徳紀念」と刻まれた石燈籠がある。疏水のおかげで水不足に困らなくなったお礼として、白川村(当時)の村長が奉納した。
◆「ああ真如堂、めし黒谷さん(ああしんどい、飯くいたい)」というギャグがある。
◆「ああ真如堂 ここらで一服永観堂(ええだろう) お茶漬けさらさら南禅寺(何杯や)」

 


慈舟山 瑞泉寺

山号は、高瀬川を往来する船に因んで「慈舟山」。

豊臣秀次公は太閤秀吉公の甥ですが、実子に恵まれなかった秀吉公に請われて養子となり、二代目関白太政大臣を引き継いで、豊臣家の次世代をまかされた。

豊臣秀次公は、謀反の疑いをかけられ、高野山に追放。

①   秀吉公の愛妾淀の君に秀頼が生まれ、秀次公は実子を盲愛する秀吉公からうとまれたとの説。

②   石田三成の策略によるものとする説

③   秀吉のすすめる朝鮮征伐に秀次公が異を唱えたからとする説。

秀次公は、秀吉公の命により高野山において切腹。御首のみ京の三条河原に移され、その前に秀次公のご一族39名が引き出されて、次々と処刑されていった。

秀次公の御首を納めた「石びつ」が据えられ、「秀次悪逆塚」との文字を刻ませ、三条大橋を渡る人々への見せしめとした。

 

角倉了以によって高瀬川を開く工事が行われている時に、流された「秀次悪逆塚」の石櫃が偶然発見された。実は高瀬川の開削責任者だった角倉了以の実弟吉田宗恂(医師)は、秀次に仕えていたことがあり、彼は秀次事件への連座は免れたが、その後死去していた。慶長16年は宗恂の一周忌にもあたることから、了以は秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得てかつて秀次一族の塚があった場所にお堂を営むこととし、戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って、瑞泉寺と名付け建立された。以後、瑞泉寺は400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。

 

 

正座

◆正座の本来の目的は相手をしびれさることにある。しびれることによってすぐに立つことができないということは、相手に危害を加えることができなくなることを意味する。武士の時代においては、それほど正座は重要な意味を持っていた。しびれを防ぐ道具である座布団も、本来は床下からの防御として用いられたものであった。しかし、茶室内では「一切危害を加えない」というお互いの信頼関係の中から生まれてきた作法であり、武士の時代が終わった現在でも続いている。

 

清明神社(せいめいじんじゃ)
◆「せいめい」という名称から、子供の姓名判断を求められることが多い。名付けに関しては、女の子は水商売風な名を付けられることがあるとの噂がある。
◆境内にある清明井は、立春に神職が井戸の上部を回転させ、取水口がその年の恵方を示す慣わしになっている。
◆安倍晴明のお墓は、嵯峨嵐山の長慶天皇陵の横にある。
◆安倍晴明像は上空を見上げている。その理由は夜空の星をみて占いをしているため。狛犬本殿脇の清明公像は、衣の下で印を結び、夜空の星を見て天体を観測する姿を表している。


◆一条戻橋:花嫁は渡らず、出征軍人は渡った。千利休の木像が処刑されたのも戻橋であり、切腹した利休の生首が晒されたのも戻橋の袂だったとされる。千利休住居跡。怪しげな話が多いのは、平安京において、北辺の寂しげな場所にあったために、余り近づかないようにとのシグナルだったのではないか、と推察できる。

◆伊勢志摩の海女のはちまきは、セーマン(五芒星 安倍晴明)ドーマン(格子 芦屋道満)が描かれている。魔除けとなり危険な海から海女たちを守ってくれると信じられている。

 

 

赤山禅院(せきざんぜんいん)
◆慈覚大師円仁が、若き日に遣唐使船で唐に渡り、その帰路の「航路平穏」を守護したという出航地の山神、赤山大明神を遺言で勧請したのが寺の始まり。
◆寺院なのに鳥居がある。神仏習合の名残を今に留めている珍しい風景。

◆マスコット人形のようなお姿みくじが有名。
◆集金、借金の回収に御利益がある。
◆申の日の5日にここにお参りして、集金に回ると取りはぐれることがないという信仰が生まれ、それが毎月の5日となり、さらには五十日(ごとび)の集金日の商習慣ができたといわれる。「積算」と「赤山」をかけた。
◆敬老会発祥の地。
◆古い石灯籠は、すべて白川石。

◆丑寅(東北)の方角にある。拝殿の屋根の上には、赤ら顔の陶製の猿がいる。丑寅の方角に抗して申を置くのは、牛の角をはやし虎のパンツをはいた鬼に対して戦った桃太郎の家来たちが、申酉戌であるように、風水の考えから来る。「難がサル」にも通じる。
◆猿は、京都御所の猿と向き合っているという。
◆古来より猿は魔除けの力があると信じられてきた。「西遊記」でも、三蔵法師の旅を助ける孫悟空として活躍する。

◆泰山府君:仏教の閻魔王に相当する中国の冥府(めいふ)の神。
 

戦後

◆京都人にとっての戦後とは、第二次世界対戦ではなく、「応仁の乱」(1467)または「蛤御門の変」である。ちなみに、全国にある小京都は応仁の乱によって戦禍を逃れるため当時の知識人たちが移り住んだためにできた。