五山の送り火

◆「大文字焼き」とは言ってはいけない。「大文字」はあり。以前は大文字焼きと呼ぶ人のほうが多かったが、お餅やお煎餅みたいな名前はよくないということで、五山の送り火が定着した。一説には、大文字焼きの字面と語感が、織田信長による比叡山の焼き打ちを連想させるからだとか。
行事の由来には諸説があるが、有力なのが足利義政の早逝の息子の弔いのために行われたのが通説。山上の点火地点から足利将軍の御所が真正面にあり、御所の池に映えるように向けたといわれる。
銀閣寺北側の浄土寺が左大文字を管理している。

送り火の時間帯になると、火がよく映えるようにと家の電気や看板の電気を落とす。街のネオンが一斉に消灯されていく。
家のベランダや屋上から送り火が見えるというのは、京都ではちょっとしたステイタス。
京都は、建物が密集し、文化財がある地域も多いため、打ち上げ花火は盛んではない。その代わりといってはなんだが
◆1944
年は、燃料不足を理由に中止した。その代わりに1000人近い学童を集め、大の文字を焼かれる場所に立たせて、白い服装で大の文字を作った。
太平洋戦争中には、灯火官制(空襲を受けないように明かりを極力消す軍令)のため、一時中止した。
懐中電灯を片手に、学生により「犬」の字にされたという伝説もある。
燃料として使うアカマツの薪は、すべて山で育った木で賄われている。松を使う理由としては油分を多く含む松でないと、強くて持続する火力が出ないから。
明治42年には、ロシアの皇太子ニコライの入洛を歓迎して点灯された。その数日後に、大津事件が起きた。宗教的な行事とは全く関係ない。
平成12年の大晦日、21世紀の幕開けを記念して点灯された。文字通り「盆と正月が一緒に来た」。
鳥居型の火床の数は108で人間の煩悩の数を表している。仏教行事であるが、神仏習合の名残りともいえる。

言い伝え茄子に穴を開けて「大」を見ると眼の病気にならない。 盃に「大」を逆さに映して飲み干すと中風にならない。 火床が燃えた後の炭を半紙で包んで玄関に吊るすと厄除けや盗難除けになる。また煎じて飲むと腹痛に効く。恋人同士で送り火を見ると別れる。二人の恋の火が消えてしまうから
地縁血縁を大事にしてきた仏教では、死者の霊は西方遥か彼方の阿弥陀仏の浄土ではなく、ふるさと近くに留まっており、京都のように山に囲まれた所では山に、海辺の漁村では海に居ると考えられてきた。お盆の終わりに死者の霊を山へと送り返すのが「送り火」、海へと送り返すのが「精霊流し」。

広沢池では、灯籠流しが。バックには鳥居型が。

 

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
比叡山の黒谷で修行を行っていた法然が草庵を営んだことから、地元では「黒谷さん(くろだにさん)」と呼ばれている。
本堂は太平洋戦争時に再建されたため、鉄を自由に使うことが出来なかった。そのため釘を一本も使わずに建てられている。
山門は、時代劇のロケによく使われている。
山門にかかる「浄土真宗最初門」の額は、比叡山から下った法然が、この丘に草庵を結んで、浄土宗布教の第一声をあげたというゆかりを表したもの。
三重塔に上る階段横には、アフロ地蔵と呼ばれる阿弥陀様が。五劫思惟像といわれるもので、伸びた髪は修行にかけた時間の長さを表している。五劫とは、気の遠くなるような長い時間で、落語でも「寿限無、寿限無、五劫のすり切れ・・・」
三重塔に上る階段横には、「左側には江(春日局が江の菩提を弔うために建てたという供養塔があり、江の遺髪が納められている)、春日局」、「右側には平敦盛、熊谷直実」「塔の裏手には八橋検校」のお墓がある。

見晴らしの良い高台にあるので、大阪城まで見渡せたと言う。その立地から、軍事拠点として幕末に京都守護職に任じられた会津藩主松平容保の本陣が置かれた。西雲院の東寄りに、幕末の動乱で散った会津藩主352名が眠る「会津藩殉難者墓地」がある。
ところが、会津藩士の東北なまりが京都人には理解できず、「アイツ(会津)はダメどす」と冷ややかなものだったという。
会津藩はもともとは二代将軍秀忠(関ヶ原の戦に遅参)の庶子の家柄で、関ヶ原での実戦経験はまったくない。しかし、ないがゆえに文弱の徒と呼ばれるのを恐れたのか、藩主は藩の気風を戦国そのままに保とうと努力した。そこで幕末に京都守護職という重責を任され、新撰組が会津藩御預りとなった。
本堂は昭和19年の再建。戦時中だったこともあり、金属が不足していたため、擬宝珠が木で作られている。

新撰組がまだ壬生浪士組と名乗っていたときのこと。松平容保と近藤勇がこの寺ではじめて会見し、壬生浪士組が京都守護職の配下になることを決め、容保から「新撰組」の名をもらったことから、新撰組発祥の地といわれる。

熊谷堂:一ノ谷の合戦で、平家一の美少年・平敦盛の首をとった熊谷直実が、世の無常を感じ出家した所。当時は同性愛はタブーではなく、直実が敦盛を憎からず思っていたことは周知の事実。この由来から、男性二人連れのお参りが増えたとか。
クマガイソウ、アツモリソウという花があり、名の由来は、膨らんだ形の唇弁を昔の武士が背中に背負った母衣に見立て、がっしりした方を熊谷直実に、優しげな姿の方を平敦盛にあてたもの。花色がそれぞれ白、赤っぽいため源氏の白旗、平氏の赤旗に見立てたための命名ともいわれる。
本堂の右前に、傘形に枝を張った松があって、熊谷の鎧掛け松と呼ばれている。
姉小路の鳩居堂は、広辞苑にも紹介されているが、熊谷直実の子孫が経営。

 

金福寺(こんぷくじ)

弁天堂は、村上たか女が寄進したもので、鬼瓦にはたか女の干支にちなむ蛇が彫刻されている。