高台寺(こうだいじ)
秀吉の正室ねねが過ごした。政略結婚が大半だった当時、愛妻家秀吉との結婚はきっと幸せだったはず。だが、秀吉はすでにバツ2だった。
10人の話を聞いたという聖徳太子は、豊聡耳と呼ばれた。豊臣という姓は「豊聡耳(とよとみみ)」から名づけられたという説がある。
「ね」一字が本名で、それに「お」をつけた形、「ねね」は俗称で正しくはない。
寺内の瓦には、豊臣家の家紋である桐の紋が使われている。
一般公開が始まったのは、平成元年から。元々寧々が秀吉の菩提を弔うために建てられた寺であって、信仰の対象。多くの人に見てもらうという考えがなかった。、

堰月池に架かる屋根付きの橋には、中央に秀吉遺愛の観月台が設けられ、天下人の優雅な観月の宴を想像させる。ここで池面に映った月をみた。
庭園には借景である東山と同じカーブの盛り山がある。庭園は女性らしい柔らかい印象。
開山堂:天井は漆塗りの黒格子に金箔という豪華さ。長方形のそれは秀吉が朝鮮出兵の時に使用した「御座船」の天井。奥の小さな天井は北政所の「御所車」の天井。
霊屋(おたまや):ねねの墓所。実際に像の6m下には、ねねが土葬で眠っている。南面して建っているが、これは阿弥陀ケ峰の豊国廟(秀吉が眠る)を見守るおねの仏心による。枕草子の第十三段「峯は阿弥陀の峯」

暗くて見にくいが、霊屋の北政所像に注目。なぜか右膝を立てて座っている。これは当寺の女性の正式の座り方であって、決して膝を痛めていたわけではない。パンフでも確認できる。胡跪(こき)といい、「胡椒、胡弓、胡麻」という言葉に共通する「胡」は、中国の西域からもたらされたものに冠する語。
高台寺蒔絵は、職人の遊び心からか、ススキの葉が虫に食われた箇所がある。姿はみえながい下から虫の鳴き声が聞えるような演出。
北政所:政所とは個人事務所的なもの。関白クラスの高官になると、その妻も夫とは別に政所を開けた。正妻は館の北側に住むのが通例であったため、これを北政所と呼んだ。


傘亭:傘のような放射状の竹垂木が特徴。利用されていた往時は池に面して建っていたため、船で出入り可能な跳ね上がり式の入口がついている。重みのある屋根なので、ワイヤーと金具で樹木に引っ張られている。客と主人がひとつ傘の仲にいるような気分になれそう。
時雨亭は、茶室では珍しい2階建て。千利休の設計。傘亭の傘に対して時雨と名付けられた。
傘亭と時雨亭は小堀遠州作という説もある。例えば正方形の切石を45度ずらしつつ、飛び石として幾何学的に配していく手法は、遠州作が明かな金地院にもみられる意匠である。また、それを横切るように配された手水鉢への飛び石も、桂離宮にみられる典型的な遠州好みといっていい。
見晴らしのいい高台の傘亭・時雨亭の場所から、ねねは大阪城が炎上するのを見たといわれている。

勅使門:楼上の欄間に彫られた見返りウサギの姿がなかなかに楽しい。門のツマには、左甚五郎作といわれる「麝香ネコとボタン」の彫刻がある。

ねねの道:電柱が地中化されている。約7億円かかった。
表門(薬医門):加藤清正の寄進による。清正は秀吉子飼いの武将で若い頃から北政所にかわいがられ、母とも慕っていた。

月真院:「御陵衛士屯所跡」1867年新選組の伊東甲子太郎は尊皇攘夷論を説き、ついに隊長の近藤勇と意見が合わず、本隊と分離して月真院に屯所を置いた。大義は前年に崩御された孝明天皇の御陵を守る衛士の任務に就くことだった。しかし、両者の確執は続き、徳川慶喜が大政奉還をしたのち、近藤に呼び出された伊東は、不覚にも泥酔したところを謀殺された。
月庭園の椿は織田信長の弟織田有楽斎が植えたもの。
月真院の向かいの文の助茶屋は、落語家の桂文の助が始めた茶屋。芸能人の名入りの暖簾が下がる。

円徳院には、秀吉が若い頃に持ち歩いていたという木像の三面大黒天がある。正面に大黒天、左右に毘沙門天、弁財天の顔がある。

 

広隆寺(こうりゅうじ)

そうだ京都行こう『仏様に対してこういう言い方もなんですが、「きれいだなあ」。モナリザよりも1000年ほど前から、微笑んでおられるそうです』1996夏

像は「東洋のモナリザ」と評されることもある。
ドイツの哲学者ヤスパースは、「人間がもつ心の永遠の平和の理念を最高度に表現したもの」」と絶賛した。

口元に静かに笑みをたたえるような表情を、美術用語で「アルカイックスマイル」(古典的微笑)という。ちなみにウルトラマンの口元も、アルカイックスマイルが投射されている。
昭和25年彫刻部門の国宝第一号に指定された。

◆「半跏」:仏を表す右足が左足に当たる人の強欲を押さえている姿を表している

十一面観音坐像:手が折れ、42本あるはずの手も13本だけになっていて、しかも残っている手のほとんどは途中から折れてなくなっている。やや垂れ目がちの長い目を閉じ、小さな口は苦難の歴史を耐えてきたことを今にも語り出しそうにして、への時に曲げている。顔の中央には亀裂が入っていていっそう痛々しさを増している。現世で人々を救済し、疲れ果てぼろぼろの姿になってしまったのか、厳しい現実の世界に連れ戻される。
太秦に至る旧二条の道は「太子道」、嵐電の停留所は「太子前」といった。しかし、観光客のために「太秦」駅に改められた。

本尊の聖徳太子像:像のすごいところは、下着、下袴姿の像の上に着用している服にある。歴代天皇が即位の大礼に着用する御ほう御束帯と同じものを、この尊像に着せるのを通例としている。命日である11月22日に開帳される。
太子像には、歴代天皇がご即位の大礼に着用された黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)の御束帯が即位後に贈られ、各天皇の御一代を通じて御召しになるならわしになってる。現在、太子像が御召しになっている御束帯は現天皇陛下(今上天皇)から贈られたもの。

駐車場近くにある井戸「いさら井」は、その名から「イスラエル」と読め、秦氏とユダヤ人との関係が囁かれている。当時の歴史家が北海道開発のためのユダヤ資本の導入のために構想されたという説もある。

護王神社(ごおうじんじゃ)
猪年生まれの守護神。
足腰健康のご利益があるので、マラソン選手も参詣する。
国難を救い新政府を築いた和気清麻呂公と護王神社は、かつて紙幣にも印刷されていた。
称徳天皇より、和気清麻呂は別部穢麻呂、姉の和気広虫は、狭虫と改名させられた。
道鏡は、臣下の身でありながら天皇の位を狙ったので、戦前は、日本三大悪人の一人といわれていた。他の二人は、朝廷に対して反逆した平将門、後醍醐天皇に反逆し建武の新政をつぶした足利尊氏。

境内にはカリンの木があり、その果実で造ったカリン酒は喘息封じのご利益がある。
清麻呂公の命日である4月4日には、護王大祭が執行される。
元は神護寺境内にあったが、明治天皇の勅命により御所の蛤御門の前に社殿が造営された。
手水場のイノシシの鼻をなでると幸運が訪れるという。

 

御香宮神社

絵馬堂には、御香水を飲んで病から回復した猿がその喜びのあまりに得意の芸を披露したという正保3年(1646)の猿回しの絵馬が奉納されており、御香水伝説を今に伝えている。

◆割拝殿の神社は女神を祀っているという俗説があるが、これは参道(産道)が通っている、という語呂から生まれた昔のなぞかけ。