鞍馬寺(くらまでら)・鋼索鉄道
由岐神社(ゆきじんじゃ) 

そうだ京都行こう『650万年前、金星よりの死者、この地に立つ。800年前、義経、天狗と出会う。 京都のミステリーゾーンへ、ようこそ』1996夏

「暗部(くらぶ)」が転訛してクラマの地名ができた。魔王尊の別名でもある「サナート・クマラ」が転じたとも。義経の少年期の別名は遮那王(サナシャナ)。
秘仏である魔王尊が御開帳されるのは60年に一度。丙寅(ひのえとら)の年のみで2046年に予定。
開基した鑑禎(鑑真和上の弟子)が見た悪夢に、鞍に宝を背負った白馬が現れた。それが寺名の由来となっている。
清少納言『枕草子』は「近うて遠きもの」の例として鞍馬寺の九十九(つづら)折りの参道を挙げている。大した坂でもないのに妙に疲れる。「遠くて近きは男女の仲」

鞍馬寺は、鞍馬寺への輸送機関としてケーブルカーを運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者ともなっている。
現在唯一の運賃が無料の鉄道であるが、運賃ではなくお布施として100円を払う。「運賃」扱いだと宗教法人といえども課税されるが、「寄付金」だと非課税扱いになるため。
営業距離数が直線で200メートル、走行時間は2分間と、日本一短い鉄道としても知られている。
作務衣が駅員・乗務員の制服。

「牛若丸」と名付けられている。

寺院関係者は、建物の中に入ってきたムカデを殺さない。ご本尊がもともとは毘沙門天で、ムカデは古来から毘沙門天のお使いとされているので。
毘沙門天は商売繁盛の仏像として祀られているのは、ムカデから。昔からお金のことを「おあし」という。客足。

毘沙門天像の周りには女性と子供の像が。これは毘沙門天ファミリー。妻の吉祥天、子の善膩師童子(ぜんにしどうじ)。

 


木の根道:鞍馬の山は岩盤が地表近くにあるので、土中深く根を張ることができない。それでもなんとかして養分を得ようと、根は地表を縦横無尽に這い回る。
戦国時代には、鬼一法眼兵法虎巻之法を本尊の絵像とともに各地に配っていた。そのため武田信玄の寺宛の礼状がある。
「虎の巻」、源義経が陰陽師・鬼一法眼(きいちほうげん)のもとから失敬したという逸話も残っている

川上地蔵堂の傍にある供養塔がある場所は、義経の住居跡。
魔王殿傍にある石は、兵法石と呼ばれ義経が刀で切りつけた痕といわれる。
鞍馬弘教の開祖である信楽香雲は女性であり、与謝野晶子の弟子だったと伝えられている。そのつながりで、鞍馬寺の境内には与謝野晶子ゆかりの茶室が移築されている。尼寺でもないのに女性が貫主だというのは大変珍しい。

聖観音菩薩立像:その美しさから「山の乙女」とも。

★本殿の向かって右から入ってすぐに地下に降りる階段があり、



由岐神社
矢を入れて背に負う「ゆぎ」を祀っている。
鞍馬の山の中で、火祭りが行われるようになったのは、由岐神社はもともと京都御所に祀られていたのだが、大地震が襲ったり、平将門の乱が起きて情勢が不安定になったため、御所の北側にあたる鞍馬の地へ移され、北方を守護することになった。その遷宮の際、道々にはかがり火がともされ、手に松明を持った行列は1キロにも及んだという。その一大行事を目にした鞍馬の人々は大感激。この儀式と由岐大明神の霊験を伝え残すために、今日まで火祭りが続けられてきた。

子供を抱いている日本唯一の狛犬。

 

蹴上(けあげ)

義経がこの場所で、関原与一(平家方?)という人物とその従者10人に出会った。その従者が誤ってこの峠の水を蹴って、義経の衣を汚してしまった。義経はその無礼を怒って、従者10人を斬り捨て、与一の耳鼻を削いで追い払った。義経はこれを、東へ行く門出の吉兆だと喜んだ。
別説:蹴上の南の九条山にはかつて処刑場があった。刑に処される罪人がこの山に登るのをいやがったため、役人が後ろから蹴り上げて登らせたことから。

源光庵(げんこうあん)

卍山道白(まんざんどうはく)が再興した。道白は、宗統復古(各地の寺を転任するたびに、師を替えることを戒める)に力を注いだ。ゆえにこの寺を復古禅林ともいう。

「四角い迷いの窓」「丸い悟りの窓」、なぜ四角が迷いで、丸が悟りなのか。丸を描くのは簡単だが、四角を描くのは難しい。四角は直線は曲がってしまうし、直角にするのも難しい。つまり、丸は簡単に描けて心が落ち着くが、四角はなかなか描けないから心が乱れる。
迷いの窓は、人生の曲がり角(ターニングポイント)である苦労や病気を表しているとも。
丸の順にみるのがいいとか。

建築家

前川國男:京都会館、東京文化会館(上野)、東京都美術館、紀伊国屋書店新宿店、埼玉県立博物館
辰野金吾:日本銀行本店、東京駅、京都文化博物館別館。辰野が得意とした赤煉瓦に白い石を帯状にめぐらせるデザインは、ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、「辰野式」とも称される
武田五一:京都市役所、国会議事堂、関西電力京都支店(京都駅前)、順正・清水店、賀茂大橋
片山東熊:京都国立博物館、奈良国立博物館、表慶館(上野)、九条山浄水場ポンプ場
山田守:京都タワー、日本武道館、聖橋(お茶の水)
伊東忠太:祗園閣、西本願寺門前にある伝道院、平安神宮、東京の明治神宮、豊臣秀吉の豊国廟、

「建築」という言葉を造った。明治初期は「造家(ぞうか)」と言われていた。
 

建仁寺(けんにんじ)
寺名に年号が使われている。京都五山の第三位。地元では「けんねんさん」とよばれる。
北門近くの鐘の堂は、平安時代のもので、当初は源融の六条院にあった。栄西が鴨川のほとりに沈んでいたこの鐘を哀れみ、ここまで運んだ。力自慢の人が鐘を引き上げようとするが鐘を微動だにしない。そこで栄西は「私の名を称えよ」という。「エーサイ、エーサイ」と大声で師の名を称えた。すると鐘はたちまち動いて、無事建仁寺に納まった。この掛け声が今言う「エッサ、エッサ」の語源。

鎌倉幕府二代将軍源頼家が開基となり、「喫茶養生記」は、三代将軍源実朝の二日酔いを治すために献上されたものと伝わる。

受付のある本坊入口は、正式な入口ではなく、元はかまどがあった台所。入口を上がって右の壁には、禅寺の台所の守り神「韋駄天さん」が祀られている。ご馳走。

◆玄関入口には・・ 興禅護国論:仏道を追究して悟りを得ることのできる人の心の広大さを称える一文「大いなるかな、心(こころ)哉(や)」で始まる。
◆○△□の庭:世の中のすべては○△□から成り立っている、という禅の教えから。ちなみに漢字の「命」は○△□から成り立つ。
潮音庭(三連の庭):北斗七星を表す石の延長上が北を示している。
本堂の前庭:右端の供養塔は、信長を供養したもので、約300年間地中に隠されていたものを徳川政権が弱体化してから掘り起こされたもの。最初は十三重塔だった。徳川の時代に入り、織田信長を弔うものを置くのは問題があると、土の中に埋めて隠した。そして二百六十年の時が経過し、徳川の時代が終わり、明治になった時、再び土の中から掘り返した。すると笠の何枚かが割れており、無事だったものを組み合わせて作ったら七重塔になった。

法堂:ねん華堂とよばれる。ねん華とは、仏法でいう真理を伝えること。龍は阿吽の龍。

風神雷神図屏風:風を吹かせる風神は横へ(風袋の元はマント)、雷神は下へ目線を向けている。縦と横の動きを同時に表現することで、絵全体に躍動感が生まれている。モデルは三十三間堂の像。広大な金色空間は、三十三間堂に並ぶ1001体もの千手観音を象徴していると解釈できる。

風神雷神図」は、従来は六曲一双(6枚×2)が標準であった屏風絵を二曲一双で描いた。新しい画期的な描き方だといえる。

◆法堂天井には畳108毎分の大双龍図。

東陽房の西側には建仁寺垣が設けられている。烏帽子岩も。
伽藍の周囲に巡らされているのは、茶の木の生垣。

勅使門:矢根門
三門:別名・望闕楼といい、「御所を望む楼閣」という意味がある。
いくつかの門を町中に開くために、八方抜けの建仁寺の言葉とおり、禁止の制札を無視して通る車に門を壊される被害も珍しくない。

開山堂(非公開):栄西の墓所でもあり、庭の菩提樹は栄西の手植えだという。

禅居庵摩利支尊天堂:狛猪のあ形は、かすかに覗く舌がかわいい。


両足院

開基は龍山徳見。帰国の際に追随する形で来た林浄因が、日本で初めて饅頭を作った人物であることから、「饅頭始祖の寺」とよばれる。建仁寺の開基がお茶を伝えた栄西なので、饅頭とお茶の愛称の良いペアである。林浄因の子孫が帰化し、塩瀬と名前を変え、饅頭で有名な塩瀬総本家を立ちあげた。
「半夏生(半化粧)の寺」。6月初旬~7月初旬まで庭を公開している。
寺名は、仏陀の別名「両足尊」にちなんだもの。知恵と慈悲の両方が足りているという意味。

毘沙門堂には、阿吽のトラの像。
 

光悦寺(こうえつじ)

家康は、光悦に鷹峯の土地を支配権を与えた。若狭と京を結ぶ交通の要所ながら、盗賊の出没する人家の少ない地に村を拓かせることで、市中の治安を守ろうとした意図があるといわれている。
本阿弥光悦『舟橋蒔絵硯箱』の名前の由来は、源等の和歌「東路の佐野の舟橋かけてのみ 思ひわたるを知る人ぞなき」が、蓋に記されているため。
芸術村には、アート以外に、本阿弥一族の信仰の根幹だった法華経のユートピアという側面もある。
鷹峰はクルム伊達の出身地。花札の8月の絵は、鷹峰がモデルといわれている。

アメリカ人蒐集家・チャールズ・ラング・フリーア(1854-1919)の記念碑。日本だけでなく、アジアの芸術品、工芸品などをスミソニアン博物館に寄贈した人。

 

高山寺(こうざんじ)

そうだ京都行こう『大きな夏休みが、小さなお寺でみつかる。それがうれしい』2004夏
石水院にある「日出先照高山之寺」の額は後鳥羽上皇から贈られたもので「朝日が昇って真っ先に照らされるのは高い山の頂だ」との意味が。この言葉は華厳経からとられたもので、ここから高山寺と名づけられた。
石水院の拝所の床には、屋久杉が使われている。
「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」:床の間脇に掛けられた板額は、明恵上人の教えの真骨頂を示すとされる遺訓で、僧侶は僧侶のあるべきよう、俗人は俗人のあるべきようにとの簡潔にして深遠な教えが示されている。
ウサギ・カエル・サルなどを擬人化して描かれた鳥獣戯画が有名。日本最初の漫画で、当時の世相を風刺したものといわれている。パプリカの動画で話題になった。
鳥獣戯画は、長寿と読み替えられるので、めでたい図案。蛙(かわず)が河津掛けにより、相撲に勝って喜んでいる。
明恵上人像をよくみていると、リスや鳥がいる。右耳。
8歳で父母を失った明恵は、生涯、釈迦を父、仏眼仏母を母として慕った。24歳の明恵は、「形をやつして人間を辞し、志を堅して如来のあとをふまむ」とまで思い詰め、仏眼像の前で自ら右耳を切り落とす。「无耳法師」とはその意味である。

◆寺号である栂尾山に名前のとおり、境内には栂(つが)が植えられている。書院の前にも立派な栂がある。もともと周辺の山には栂が多く自生していた。

あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月明るいなあ、ほんとに明るいなあ、ほんとにほんとに明るいなあ…お月さま。

格子(こうし)

糸屋格子:糸屋、紐屋、呉服屋の格子。糸が見やすいように上部が開いた採光に適した構造。
仕舞屋格子(しもたや):以前は商売をしていたが止めた(仕舞った)町家に見られる。上と下の部分が分かれていて、上部分は欄間のような粗い格子に。
麩屋格子:麩、湯葉、豆腐、コンニャクなど水を使う商店の格子。商事は水にぬれても大丈夫なように、油紙が使われていた。
酒屋格子:酒樽がぶつかってもいいくらい丈夫な格子。黒っぽい紅色の塗料であるベンガラで塗ってある。
米屋格子:米俵がぶつかってもいいくらい丈夫な格子。ベンガラで塗られていない格子。米俵を積み上げるので、土台の貫を二重にしている。
炭屋格子:スノコのような格子。家屋の外に炭の粉が飛ばないように、格子の開きを狭くし、工夫されている。

 

興聖寺(こうしょうじ)宇治市

曹洞宗の開祖、道元が最初に建てた寺。
琴坂:楼門へと続く200mの坂道。川の瀬音が琴の音のように聞こえるので。
琴「琴坂の紅葉ふみ行く老の杖」高浜虚子
楼門:竜宮造り。漆喰塗り。ここから琴坂を眺めると、額の中に紅葉が収まったような風雅な景色。

鐘楼には、林羅山の自選自筆の銘がある銅鐘がかかる。 そのために戦時中は潰されずにすんだ。
鶴亀の庭園。3層の樹木は、現在過去未来を表現している。
法堂縁側の天井材は慶長5(1600)に落城した伏見城の遺構が使われていて、血の手形や足跡がかすかに見られる。