青蓮院(しょうれんいん)

 

◆応仁の乱を逃れたという、親鸞聖人お手植えと伝えられるクスノキの大木が目印。樹齢800年。

◆青蓮院前の道路には、葵の群生がある。

◆出入り口の右上方には、木製の電柱がある。景観に配慮してあえてコンクリート製にしていないが、現在は撤去されている。

◆出入り口付近から、遠くに見える青龍殿を見ることができる。葉の少ない冬期のみだが。

 

◆第3世門主は、「愚管抄」で著名な慈円。歌の才能は後鳥羽上皇も認めるほどで、「新古今和歌集」には歌人として最高の92首が採用されている。親鸞聖人の出家の際、その得度も行う。明治期の小学校唱歌「越天楽今様」(春のやよい)の作詞者。

◆東本願寺の得度式は、朝、御影堂の戸を閉ざし、蝋燭の灯りの中で行われる。親鸞聖人の得度が深夜であったことに由来する。

◆青蓮とは、如来の眼の美しさを表現する仏教語「青蓮」からきている。

◆ご本尊は、熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。この仏は毛穴から光炎を流出し、日月星宿などの諸天を折伏して、一切の難儀を消滅する利益をもたらす。

 

◆お土産売り場には、百年茶がある。親にプレゼントすると喜ばれるかも。

◆青不動明王:右目は天を、左目は地をそれぞれ睨み(天地眼)、眼球の両側は忿怒による充血で、目頭と目尻を赤く強調されている。また、右上唇を噛んで牙を上方に出し、左下唇からは牙を下方に向けて出しており(牙上下出)、こちらも左右非対称に表現されている。

◆本尊に向かって右側には、腰を引き、上目遣いで合掌する「矜迦羅童子(こんがらどうじ)」が描かれている。一方の左下には棒を構え力を誇示する「制叱迦童子(せいたかどうじ)」が描かれている。この二人には従順さと反抗的態度という侍者の二面性がうかがえる。不動尊と二童子は、安定した三角形構図を築いており、ここには三者三様の性格の違いが表出されている。

◆ 目を凝らせば「火の鳥(迦楼羅・かるら)」を見つけることができる。これは三毒(貧欲・瞋恚・愚痴)を喰らい尽くす鳥であり、やはり不動十九観に基づいて描かれている。図中には七羽の迦楼羅が、翼を広げて躍動感に満ちあふれて舞う姿が表出されている。迦楼羅の数は必ず奇数。煩悩を焼き尽くす。

 

 

◆足利義満の子、義円(義教)も、門主となり天台座主を務めたが男系が絶えたために幕府から還俗を求められ、室町幕府第六代将軍となった。

◆足利義教は、室町幕府第6代将軍。当初出家しており「義円」と呼ばれていたが、家督を継ぐにあたり還俗し「義宣(よしのぶ)」と称したものの、「世を偲ぶ」につながることから改名を決意し「義教」と名乗った。

◆石清水八幡宮で行われたくじ引きで複数の候補者の中から、「青蓮院」と書かれたクジが引かれて将軍に選ばれることになった。このことから、6代将軍に就任した義教は、籤引き将軍と呼ばれるようになった。

 

◆華頂殿の蓮の襖絵(60面)は、淡色の部屋は現世を、隣の5色の蓮は極楽を表している。アオガエル、シオカラトンボ、泥亀の親子が描かれている。畳に座ったときの視線に合わせ、低く描かれている。伝統の画材では無く、アクリル絵の具を使った色彩が大胆な構図を引き立てている。

◆華頂殿には、蚊帳をつく金具が部屋の四隅にある。「華頂と蚊帳」の駄洒落ではないと思うが。

◆華頂殿の前に植えられた芝のDNAを調べたところ、日本古来の芝であることがわかった。そして昔からここに植えられていたことがわかった。今では手に入らない貴重な種類の芝なので、とても大切に管理されている。

◆寄書き帳には、青いボールペンがあることも。

◆芥川龍之介は『青蓮院の庭』という随筆の中で、「古庭はよいものである。殊にこの青蓮院の庭はなつかしい」と綴っている。

◆司馬遼太郎は、学生時代にやってきて、よく寝転びながら読書をしていた。

 

◆青い絨毯

 

◆縁先にある長さ2mほどの一文字型手水鉢は、秀吉が寄進したと伝えられる名品。ここの紅梅は、3月から4月にかけて、美しく咲き誇り、それが手水鉢の水面に写り見事なものであるという。霧島の庭には、同じく秀吉寄進と伝える神輿形燈籠がある。

 

◆小御所の上段の間は、縁の下から槍で突かれても貫かない様に、床と畳の間に鉄板が入れてある。

◆松と2段の瀑布図。長刀鉾と山鉾。紅白菊図。小禽図。

 

◆本堂といえば、誰しも最も大きな堂宇を連想すするが、青蓮院の本堂は小堂。厨子の向かって左側には兜跋毘沙門天立像が、右脇壇上には不動明王座像および二童子像が安置されている。

◆裏堂:向かって右脇壇上には薬師如来坐像、日光・月光菩薩立像、さらにその左右に十二神将が安置されている。左脇壇上には厨子内に歓喜天像が安置されている。

◆熾盛光如来:熾盛とは「はげしく、さかん」という意味。

 

◆宸殿には歴代天皇のご尊牌が。昭和天皇のものも。

◆「お得度の間」本願寺の法主は明治までは青蓮院で得度しなければ公に認められなかった。

◆右近の橘、左近の桜がある。随所に菊の紋章があることからも、皇室ゆかりの寺院であることがわかる。

◆浜松図:全面に金箔を貼り込め、水辺を群青で塗り、林立する瀟洒な常盤の松林を緑青で描く。作者については狩野永徳の孫で27歳で夭逝した貞信の筆になるとされる。

 

◆細池の中央には巨大な石がそえられている。この石がまるで龍の背中が水面に出ているかのように見えるので龍心池と呼ばれ、龍の住む地として表現されている。池に架かる美しい橋(2枚の石で造られた反りの美しい橋)も龍を跨ぐという意味で跨龍橋と呼ばれている。

 

◆小御所と池を隔てた所には「立田山の楓」、華頂殿の東南角には「宮城野の萩」が植えられているが、どちらも西行法師の贈り物とされている。

 

◆叢華殿(そうかでん)二階では、尊融親王と志士の会合に使われた。志士の意は、親王によって天皇に伝えられた。

 

◆御輿型燈籠:伝豊臣秀吉奉納。好文亭の庭先に置かれた六角燈籠。宝珠を頂き、笠の下り棟を帯状に造り出し、火袋は二面を穿ち、残る四面に文様を浮き出す。中台を勾欄造りとし、竿は二条の中筋、基礎に笹目模様を浮き出す。豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に持ち帰り青蓮院に奉納したと伝えられる。

 

◆好文亭:富士山形手水鉢と蓮華寺形灯籠。

◆京都寺社等同時放火事件:青蓮院、仁和寺、三千院、田中神社。天皇の沖縄行幸が、また6月には皇太子御成婚式典が予定されていた。新左翼各派は日本各地で皇室を標的としたテロ事件、反皇室闘争を続発させていた。

◆好文木:梅の異名。晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に由来する。

◆好文亭にある石は、ハリボテ。

 

◆日吉社:もと鞘堂があったことが礎石によって察せられる。

 

◆親鸞聖人は、9歳のとき慈円により得度(僧になる式)を受けられた。親鸞得度の時に、馬をつないだと伝えられる古松があった場所に童形像が立っている。

◆「明日有りと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかわ」(明日桜を見ようとしても、夜に嵐が来て、桜は散ってしまうかも知れない、桜の運命と同様、明日の事は私達人間には分らないのですから、今、得度させて下さい) 9歳のときに詠んだといわれる。

 

◆歎異鈔(たんにしょう):悪人正機説:「善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」とある。善人(自力作善の人)は自己の能力で悟りを開こうとし,仏に頼ろうとする気持が薄いが,煩悩にとらわれた凡夫(悪人)は仏の救済に頼るしかないとの気持が強いため,阿弥陀仏に救われるとした。すべては阿弥陀仏の本願によるとの絶対他力の思想につながる。

◆植髪堂:教会のステンドグラスは、文字の読めない人にも内容を伝える役割がある。

◆京都市内で最もバック誘導するのが難しい駐車場。手前に大きな楠があり、駐車場に段差もあるためで、楠に枝に触れないよう、段差に乗り上げよう、上下に目を配って誘導しなければならない。その後舗装された。

◆京都市京焼の名工・青木木米を顕彰した「粟田陶隠木米記念碑」は富岡鉄斎の筆。

 

◆坂本龍馬の妻お龍は、楢崎将作の娘。楢崎将作はお龍の養父で、青蓮院の侍医をしていたが安政の大獄で刑死した。

◆父の関係からか、龍馬とお龍の結婚式は、青蓮院塔頭・金蔵院で催された。場所は東山ユースホステル前で案内文がある。

 

◆青龍殿の国宝「不動明王二童子像」は、気温20度、湿度6パーセントに保たれている。

◆北野天満宮近辺にあった元武道場である平安道場を移設したので、床に釘が打たれていない。

◆青龍殿の建物は、かつては武徳殿という武道場だった。日本の武道の中心的存在で、「東の講道館、西の武徳殿」と評された時代もあり、天井の高い独特の造りも注目ポイント。

 

白川(しらかわ)

川名は、源流一帯に花崗岩を多く産出し、川が白くにごって見えたため。
白河夜船:実際には見ないのに、見たふりをすること。京を見たふりをした者が、京の白川のことを問われ、川の名と思って、夜船で通ったから知らないと答えたことから。

行者橋(正しくは古川町橋):幅67センチ。長さ12メートル。比叡山の千日回峰行者は京都大廻りという荒行をこなすが、京都市内をめぐるときは必ずこの橋を渡る。だから行者橋という。行者は橋から比叡山を遥拝する。比叡山から見れば、白川は聖域と俗界をわける結界になっている。地元の小学生は、自転車に乗ったままこの橋が渡れば1人前と認められる。左右の石の板が中心に向かってわずかに傾いているため、幅が狭い割には安定感がある。一休さんのように、この橋渡るべからず?
北白川は、都と鄙の接合点である。白川女は、仏前にそえる花を売るために、白川を下った。白川女と出会うのが出町柳という地名の由来とも言われている。
三条通白川橋には、京都最古の道標が立つ。車の激突により折られ、修復された跡がある。「為二世安楽」と、建てた人の名前は記されていないものの、現世と来世(二世)の安楽を願うという、その心が示されている。