天龍寺(てんりゅうじ)
そうだ京都行こう『長い争いの時代をかえたい、と植えられた桜でした』2002春

「天龍」は足利尊氏の弟の直義が見た大堰川に金色の龍が立ち昇る夢に由来するという。
初めは暦応資聖禅寺と号したが、延暦寺が年号を寺号にすることに反対して抗議したため、幕府は天龍資聖禅寺と改めた。
創立は1339年。この年は後醍醐天皇が吉野で崩御された年で、対立軸にあった足利尊氏は、帝の菩提を弔うため(怨霊を鎮めるため)に建立したという。
足利尊氏と後醍醐天皇の対立により、朝廷は北朝(京都)と南朝(吉野)の二つに分かれ、南北朝時代となった。その後、暦応元(1338)年に足利尊氏が征夷大将軍となって名実ともに室町幕府を開いたが、その翌年、後醍醐天皇は吉野で崩御した。
寺を造る費用を得るため、貿易船「天竜寺船」を使って元と貿易をした。
夢窓国師は朝廷からも武士からも尊敬されていた人物。国で一番偉い僧侶に与えられる「国師」という称号を、生前に夢窓国師・正覚国師・心宗国師、死後に普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり歴代天皇から賜与され、七朝帝師とも称される。金閣寺や銀閣寺では、疎石はすでに亡くなっていたにも関わらず、開山(初代住職)として扱われている。

歴代天皇の陵墓で、正面が北を面しているのは、後醍醐天皇陵だけで、吉野から稜線を延ばすと天龍寺に行き当たるという。
かつて150を超えた塔頭子院は現在9院となった。幕末の蛤御門の変では、長州藩屯所であったために焼き討ちされ、伽藍のほとんどを失った。

八幡社の東手前の飛雲観音:宗派を超えて空の安全を祈るべく、左手に十字架を刻んだ火炎宝珠が。

諸堂参拝受付の入口右側には、浴室がある。
玄関を入ると見える「脚下照顧」の文字は禅宗の玄関に置かれる特有のもので、玄関の門をくぐる前に自分の足元を見て反省し、覚悟して仏門の関を越えなさいと自省を促すもの。
達磨大師図:達磨は洞窟にこもり9年間も岸壁と向かい合って座禅を組み、悟りを開いたものの手足が腐って落ちてしまったというエピソードがある。だるま人形は、この「手も足もない」達磨の姿を模したもの。「起き上がり」「七転八起」と言う特性から、次第に縁起物とされるようになった。
だるまから派生したもの:だるま落とし、だるまさんがころんだ、、にらめっこ「だるまさんだるまさん、にらめっこしましょ」、雪だるま
天龍寺には、目が出るダルマお守りがある。お目出度いということで。
庫裏に入ると、燕の巣がある。
龍門亭:篩月(しげつ)の精進料理がいただける。店名は、竹やぶを通して見る月があたかも篩(ふるい)にかけたように見えたことから。250人まで利用可能。人気店なので満席になる日も少なくない。ミシュランガイドのビブグルマンにも選ばれている。ヴィーガン料理。

放生池:捕らえられた生物を放すための仏教の池のこと。
曹源池庭園:曹源とは、真実の禅を意味する「曹源一滴」(すべての物の根元を表す言葉)に由来する。禅宗の庭は本来修行の場で、「夜坐」といって、毎夜修行僧が庭の周りで座禅を組む。平らな石は座禅石。池には、日本最古と伝える石橋がある。

方丈からみた曹源池中央正面には2枚の巨岩を立て龍門の滝とする。龍門の滝とは中国の登龍門の故事になぞらえたもので、鯉魚石を配するが、通常の鯉魚石が滝の下に置かれているのに対し、この石は滝の流れの横に置かれており、龍と化す途中の姿を現す珍しい姿をしている。
池の汀(みぎわ)線のカーブの美しさに注目。
池には、五つの石が並び、中央の石は水面ぎりぎりに組まれてる。方丈で歩きながら見ると、5つの石が動き出す。
庭の遠近法:左から右へ、水際が手前に水際が向こうに、嵐山が近くに嵐山が遠くに

桃瓦:中国では古来、桃は魔除けの力があるとされ縁起物だった。書院の大屋根や多宝塔に至る渡り廊下にある。水分を多く含むので、火災よけの意味もある。桃の節句により邪気や身の穢れを祓う。
後醍醐天皇を祀る多宝殿の前には、立派な枝垂れ桜があるが、かつて、吉野で憤死した後醍醐天皇の霊を慰めるために、吉野から多くの桜が嵐山一体(かつての天龍寺境内)に移植された。
硯石:鈴木松年が雲龍図を描いたことによる祈念。現在は加山又造による。

宝厳院:襖絵は田村能里子による。タムラレッドといわれる独特の色彩で、33人の老若男女が描かれている。
      :庭園の中には独特の枯山水が。須弥山を表す築山が作られ、その前に、人生を表した苦界がある。海の中には、此岸から彼岸へ渡るための舟石があり、彼岸には三尊石が組まれている。向かって左奥は登龍門の龍門の瀧で、滝つぼの位置には鯉魚石が置かれ、修行の厳しさを表している。
獅子吼の庭:獅子吼とは釈迦の説法を表し、中央に三尊石を配し、舟形の石は苦界を渡る人間が乗る舟、周りには十二支に見立てた獣石が置かれて舟石を囲む。十二支に含まれない猫の石もある。猫は人間に近く、親しい存在であるためにおかれた。

臨川寺:開山堂は夢窓国師を祀る御堂で、床下に国師のご遺体を安置する。

弘源寺:本堂の柱にある刀傷は蛤御門の変に際して、本陣を置いた長州藩士が試し切りを行った跡。毘沙門堂の正面扁額は、弘法大師の直筆。

松巌寺:坂本龍馬像や船中八策の記念碑がある。
   

渡月橋(とげつきょう)

名は、亀山上皇が「くまなき月の渡るに似る」から命名した。全長155m。
かつて橋の周辺は、丹波から筏を組んで流してきた木材が覆いつくしていたといわれる。その筏流しの名残りが、今見られる保津川下りの遊船である。船は高瀬舟である。
上桂川桂川(園部)大堰川(亀岡市)保津川(保津峡)大堰川桂川(渡月橋の下流)
大根のむき方で、桂むきというものがあるが、これは桂女(かつらめ)からきている。桂女は「桂包み・桂巻き」といわれる白い長い布で頭をすっぽりと包み覆い、前で桂結びをしていた。
渡月橋上流には、秦氏が造った大堰の名残がある。堰によって上流は水深のある緩流となり、宮廷人が舟遊びに興じた。
夜になると欄干の足元に設けられた灯が点灯するようになっている。この電力は、桂川の水を利用したミニ水力発電所による。日本で初めて一級河川に小型の水力発電システムを設置した。嵐山花灯路でも活用されている。発電機の設置場所は渡月橋の上流、保津川ライン下りの終点のすぐ下流にあり、誰でも見ることができる。設置費用は約五千万円。電気を売ることによって維持管理費をまかなっている。
可動式止水壁:増水時に上昇される全国初の可動式止水壁の運用が始まった。治水と警官の両立を求める地元の意向。最大で高さ1.5メートルの壁になる。約10億円。

小督塚(こごうづか)・琴きき橋:小督は高倉天皇の寵愛を受けた。彼女は中宮・建礼門院徳子の父平清盛ににらまれ、宮中をでて嵯峨野のほとりに身を隠す。帝の命を受けて小督を探す源仲国が渡月橋近くまで来た時、聞こえてきた琴の調べはまぎれもなく小督の弾く『想夫恋(そうふれん)』であった。こうして再び帝の元に戻った小督だったが、結局、清盛は彼女を尼にして追い出し、やがて帝は21歳の若さで崩御。小督はその菩提を弔って暮らしたという。九州には想夫恋という焼きそばチェーンがある。
一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の駒
小督が出家したのが、清閑寺。近くに高倉天皇陵があり、小督の墓と伝わる石塔が立っている。

嵐山:桜や楓が嵐のように舞うことからきている。ちなみに、長渕剛のデビュー曲は『雨の嵐山』。全く売れなかった。
季節に合わせて化粧をする嵐山界隈は、いつ行っても美しい。。  

嵯峨野:地名の由来については坂あるいは険し(さがし)などの地形に由来するという説がある。

そうだ京都行こう『ここに、こういう橋を持ってくるところが、京都なんだな。平安の貴族たち公認の避暑地に、おじゃましています。』

ニ尊院(にそんいん)
発遣(ほつけん)(使者などを送り出すこと)の釈迦如来と、来迎(浄土に招き迎えること)の阿弥陀如来の2体の本尊を祭るところから、ニ尊院といわれている。
釈迦如来は、人が誕生し人生の旅路に出発するときに送り出してくれる「発遣の釈迦」といい、阿弥陀如来は、その人が寿命をまっとうした時に極楽浄土にお迎えてくれる。これを「来迎の阿弥陀」という。
二像の違いは、手の構え、衣文、表情。

参道は桜ともみじが交互に植えられ、春には桜が、秋にはもみじが見事なことで知られる。
門前近くには、西行法師庵の跡
南北朝の頃より明治維新まで、「黒戸四ヶ院」(皇室の仏事を行う特別に選ばれた4寺院 他には廬山寺など)の一寺として京都御所御内仏殿をお守りしていた関係上、旧宮家である鷹司家・二条家・三条家・四条家・三条西家・嵯峨家、そして江戸時代初期の豪商である角倉了以の一族、江戸時代の儒教学者である伊藤仁斎の一族などの墓所があります。

嵯峨三名跡 他には天龍寺、大覚寺。

田村正和の父・板東妻三郎のお墓がある。田村正和は嵯峨小学校の出身。林与一と同級生だった。
忍ばれむ 物ともなしに 小倉山 軒端の松ぞ なれてひさしき (藤原定家)「(私は小倉山の家の軒端の松です。あの人に恋い慕われることもなく、ずっと待ち続けています」

本尊の両側の部屋にある襖絵は逆遠近法を用いた絵画。
本堂の前庭は「竜神遊行の庭」とよばれ、門前の池に棲む竜女が、法然の高弟である 湛空の説法で天へ昇ったという故事にちなんでいる。
もしかすると向井去来は、如来と如去という二つの働きを象徴させて、去来という俳号をつけたのかもしれない。


 

野宮神社(ののみやじんじゃ)
野宮とは、未婚の内親王が伊勢神宮に奉仕する前に一年間身を清めるためにこもるところで、その場所はそのつど、宮城外の清浄の地を定め、一定していない。ゆえにこの地がいつの野宮であるかは不明といえる。
斎王:本来は天皇自身が天照大御神に奉仕しなければならないのだが、それができないから、代わりに斎宮を建てる。伊勢の斎宮御所での暮らしは閉ざされた日々であった。ほとんど閉じこもっていて、ひたすらに精進潔斎するのみである。

源氏物語『賢木』で光源氏と六条御息所の美しい別れが描かれた舞台でもある。
鳥居の用材にカンナをかけず、木肌を付けたままにした手を加えていない柱を黒木の鳥居と呼んだ。臨時の造営であることを強調して、「黒木の鳥居」の表現が生まれた。
神社の人気を不動のものにしたのが、秋篠宮と紀子さまの参詣。そして二人が手を合わせた大山弁財天は、願いの叶う子宝の神様として広く知られるようになった。
縁結びの神でもあり、指輪御守がある。

斎宮の忌み詞:仏教語と不浄語とを忌むために、代わりに用いたことば。「仏」を「なかご」、「経」を「そめがみ」、「僧」を「髪長」、「血」を「汗」といった類。

じゅうたん苔の庭:一面に生い茂った苔で嵐山を表現したとされる、小石の部分で桂川を、その上の小さな橋が渡月橋を表している。

神社そばの竹林は、日本の音風景100選に選ばれた小路。
野宮竹で知られ、竹細工に最適で、昔は天皇の即位式である大嘗祭にも使用された。

 

宝筺院(ほうきょういん)
南北朝時代に戦った楠木正行と足利義詮が並んで眠る寺。
寺名は、2代将軍義詮の院号にちなんで。
楠木正行:父は楠木正成
足利義詮:父は尊氏、3代将軍義満の父
墓前の石灯篭には冨岡鉄斎の書による「精忠」、「碎徳」(一片の徳即ち敵将を褒めたたえその傍らに自分の骨を埋めさせたのは、徳のある行いだが徳全体からみれば小片にすぎないという意味で、義詮の心の大きさを誉めた言葉)。
左側が義詮の宝筐印塔、右側が正行の首塚。墓前の扉には、それぞれの家紋が刻まれている。

現在京阪電車「天満橋駅」北側の大川沿いに、「小楠公義戦之跡碑」があり、「正平2年1126日、楠木正行は渡辺橋で山名時氏、細川顕氏軍と合戦し快勝。橋から大川に落ちた敵兵五百数十人を救出、寒天に凍りつくのを温め、衣食と薬を与えた。恩に感謝した敵兵は帰順し、翌年正月5日、正行が四条畷で戦死するとき全員共に討死する。正行は真に忠孝、友愛、仁義の人だ。まさに日本精神の化身である。明治の初めわが国が赤十字に加盟するおり欧米人はこの話を聞いて感動し、容易に加盟が認められた」。

 

法輪寺(ほうりんじ)
元明天皇の勅願により、行基が創建。
◆18647月蛤御門の変の際、長州藩の浪士が渡月橋を挟んで対岸の天龍寺に集結、19日の戦闘で法輪寺の建物はことごとく灰燼に帰した。

十三参りで有名。京都では七五三よりも十三詣りの風習を大切にする。4月13日、13歳になった子供は、虚空蔵菩薩に智恵と福徳を授かりに行く。寺に詣でた後に、境内を後にして渡月橋を渡る際、渡り切る前に後ろを振り返るとせっかく授けられた智恵を本堂に返してしまうので決して振り返ってはいけないとされている。
子供が大成しなかった場合「渡月橋で振り向いてしまったから」と京都の人は冗談で使う。
十三参りの日から、京童は京女になる。
虚空蔵菩薩は知恵と福徳の仏として知られ、十三番目に生まれた菩薩であることから、十三のつく日に十三歳になった子供がお参りし、知恵と福徳を授かろうという風習が生まれた。本尊は秘仏。お前立は、前田利家の寄進による。
虚空蔵菩薩は古くから丑・寅年生れの守本尊としても厚く信仰されており、本堂の前に丑(牛)と寅(虎)の石像が安置されている。お使いは未。虚空蔵菩薩を背に乗せるために伏せたヒツジ像が祀られている。撫でると頭が良くなる伝わる。
「難波より 十三まゐり 十三里 もらひにのほる 智恵もさまざま」の歌で知られるように、江戸時代の中頃から京都のみならず近畿一円からのお参りが一般に広まった。
◆13歳という年齢が元服の時期と合致するため、一種の通過儀礼として伝承された。振り返らずに、意志の強さを実践し自覚できたことで、大人への第一歩を感じた。
針供養も行われている。針をコンニャクに刺し、休んでもらう。アパレル関係者や、刺青の彫り師、畳屋も来る。昔はレコード針を刺しにきた業者も。
「法」は「水が去る」という水難除けの意味もある。
6/6は「ひつじ」の日。メリーチョコレートカムパニーと手芸用品店のユザワヤが、羊をキャラクターにしていることから、コラボレーション企画として2010年に制定。

理由は6が羊の巻いた角の形に見えることから。
階段の段数は、煩悩と同じ108段。

電電宮:ヘルツとエジソンのレリーフが。広く電気・電波の発展に貢献した功労者の霊をなぐさめる
ため建立された。携帯電話のお守りもある。小惑星探査機はやぶさの研究室にも電電宮のお守りがあった。
蛤御門の変で焼失し、再建されないままになっていた明星社が雷や雨など自然現象に関する信仰を集めていたことから、一般家庭にも電気製品が普及し始めたのをきっかけに、1956年電力会社や放送局などが建てた。
智恵のお守り「智恵のくるみ」:二つ一組のくるみを手のひらの中で回転させると血行が良くなり頭もすっきりしてイライラも解消されるそう。
展望台からの眺めが想像以上に良い。上ルと高くなることを実感できる。平安京のすべての範囲が眼下に広がる。

空海はある修行をして、絶大な記憶力を得たと伝えられています。その修行とは虚空蔵菩薩の真言を、一日一万回×100日=百万回お唱えし心身を鍛える「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」です。達成した者には無限の記憶力が与えられ、見聞きしたことは忘れなくなるとされます。

 

御髪神社(みかみじんじゃ)
小倉池畔にある。
理容・美容関係の参拝者が多い。髪の毛を増やしたい人は、髪の髪様にお願いしましょう。
玉垣には、かつらメーカーなどの会社名が。
髪の毛にご利益がある由来は、ある公家が生活の糧を得るために髪を結って家計を助けたことによると伝えられている。
神紋は、菊紋の中央に「髪」が描かれたもの。 

房がたくさんついた房々守なるものがある。

 

森嘉(もりか)

清涼寺近辺にある、美味しい豆腐で有名。凝固剤として、ニガリの変わりに澄まし粉(硫酸カルシウム)を使用して、やわらかい。できればすぐにお醤油なしで、味わいたい。
木綿豆腐がお勧め。散策のついでに、その場で味わうのもよい。用意周到に、醤油持参という人もいる。
戦前は豆腐は固いものだったが、今のような柔らかいイメージを持つようになったのは、森嘉が白豆腐を造ったのがきっかけ。
製造は毎日午前1時から始まり、8時から店頭販売する。その日作ったものをその日のうちに、という意味からパックに製造年月日はない。

地下50mと30mから汲み上げた地下水を使用している。井戸水は美味しい水であるとともに、常に一定の水温であることも特徴。京都は軟水で水質がよいので、「とようけ屋山本」のように水道水を使っている店も多い。
天候などで毎日味が微妙に変わって来るため、社員は毎朝豆腐の味噌汁で味を確かめる。
川端康成の小説「古都」で取り上げられたのをきっかけに、全国に名が知れ渡った。
「豆腐と芸者は固くては売れぬ」という諺がある。
森嘉の豆腐を使ったお店のお勧めは、嵐電嵐山駅前にある西山艸堂。

落柿舎(らくししゃ)
芭蕉の門人向井去来の隠居所。
庭には芭蕉(バナナ)が植えられている。
芭蕉が滞在し、『嵯峨日記』を記した。「物言えば唇寒し秋の風 (人の悪口を言えば、後味の悪い思いをするということ。また、よけいなことを言うと、そのために災いを招くということ)」
落柿舎のいわれは、商人が庭にある立木のままで柿の実の買い入れを決めて代金を置いて帰ったその夜、野分で柿の実が全て落ちてしまい破談したことから。去来は全額を返し、商人をえらく感激させたとか。
去来が当時庵にいることを知らせるためにしたように、今も門口には蓑と笠が掛けられている。
近くには去来のお墓があるが、実際は遺髪を埋めた場所。本当のお墓は真如堂にある。その通りには、杉の木に見立てた電柱が立っているので、見つけてみましょう。

去来は、長崎生まれ、若き頃は武芸を研くが、武家奉公の道には進まず、松尾芭蕉に入門して俳諧の道に専念。弟子の中でも抜きんでた存在に。京都嵯峨野の落柿舎に住む。2度滞在した芭蕉につけられたあだ名は「俳諧の鎮西奉行」。墓は真如堂にある。
落柿舎の前の畑をはさんだ向かい側に、「土佐四天王」と呼ばれた(右から)中岡慎太郎、坂本龍馬、武市瑞山、吉村寅太郎の銅像がある。
龍馬は中岡とともに長州藩の本陣となっていた天龍寺を訪れ、日本の行く末について論じた。その後、それが薩長同盟へと繋がり、世界でも類を見ない「無血革命」を成し遂げる結果となった。
落柿舎前の畑は、この景色を守るために京都市が買い取り、地元の人が耕しているもの。このあたりから、五山の送り火の鳥居型がみれる。

  

嵐電(らんでん)
京福電気鉄道が運営。福は福井のこと。
京福の社名は、鉄道事業を行っていた京都と福井それぞれの頭文字を採ったものだが、京都と福井を結ぶ鉄道計画があったわけではない。京都は祇園を始め夜間の電力需要が多く、福井は逆に織物工場が稼動する昼間の電力需要が多いため、互いの電力を融通するために「京都電燈」( 関西から北陸にかけての地域をテリトリーとした)が建設した「京福送電線」が語源となっている
「龍安寺~等持院」「蚕ノ社~嵐電天神川」間は、約200メートルで最短区間。
御室仁和寺駅:嵐電の駅の中で一番風情のある駅で、駅舎に掲げられている駅名板は旧文字で書かれており、近畿の駅百選にも選ばれている。

「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前」は日本一長い駅名。

◆山ノ内駅は日本一幅が狭く、約60㎝。

江ノ電と姉妹提携を締結したため、江ノ電カラーの江ノ電号も運行されている。

 

鹿王院(ろくおういん)

足利義満が創建、「嵯峨の金閣」と呼ばれる臨済宗の禅寺。扁額は義満自筆。
堂を建てたときに白鹿が多く現れたので鹿王院と名づけたとも。