化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)
千灯供養で有名。地蔵盆の時期、82324日に行なわれる。
京都市内の町々で地蔵盆が行われるが、古くからの町はいいとして、新しい住宅地にはお地蔵様がいない。そこで念仏寺は、この日だけお地蔵様を貸し出している。
「あだし」とははかない、むなしいとの意で、「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往来する願いなどを意図している。

 

厭離庵(えんりあん)

庵名は、「欣求浄土・厭離穢土」(汚れたこの世を厭い離れて、浄土を喜び求める)から。
尼寺
藤原定家の小倉山荘跡で、定家が百人一首を撰したところ。

 

小倉山(おぐらやま)

小倉とは、「小暗い(おぐらい)」を意味する言葉だった。
小倉あんパン、小倉ようかん、小倉アイスなど、小豆の粒が入っているあんのことを「小倉」という。なぜ粒あんのことを「小倉」と呼ぶのかというと、その起源は、嵯峨野の小倉山にある。小倉山とは、「小倉山峰のもみぢば心あらば今ひとたびのみゆきまたなむ」と、平安時代から和歌にも詠まれている紅葉の名所で、その小倉山に赤い紅葉が鹿の子のように点在している様子が、小豆がブツブツしているのに似ているので、小豆あんのことを「小倉」と呼ぶようになった。
二尊院に、由来を伝える石碑がある。
ちなみに鹿肉のことを紅葉(もみじ)という。猪肉はボタン。馬肉は桜。
小倉百人一首:藤原定家が、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものであり、京都嵯峨野の別荘、小倉山荘の襖色紙に載せるために依頼を受けたのがそのきっかけ。男性79人(僧侶15人)、女性21人の歌が入っている。

愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)
通常は「あたご」と読まれるが、「仇子(あだこ)」に通じるので、「おたぎ」にしたといわれている。
中にはハーフ顔の石仏もいる。
本尊の千手観音は、その御面の眼差しが左右対称ではなく、厳しさと優しさという仏の慈悲の二面性を、顔の左面右面にわけて表現されているということから「慈面悲面の千手観音」と称される。

 

祇王寺(ぎおうじ)
そうだ京都行こう『なにしろ日本でいちばん四季にうるさい町の紅葉ですから。この辺にあるといいな、と思うところに、ちゃんと紅葉があるんです。京都では』1994秋
そうだ京都行こう『古くからあるのに古くない。毎年新しい生命力を 緑からもらうようにできていました』2010初夏

清盛の寵愛を受けた祇王が落ちぶれたのは、 平家物語の盛者必衰の表現ととらえることもできる。
寺には、祇王、祇女、刀自、仏御前の像が残されているが、それぞれ出家したときの年齢で作られていて、祇王21、祇女19、仏御前17歳と、その年齢にふさわしい愛らしい顔をしている。面白いことに、祇王の横には小さな清盛の像が置かれている。清盛像のところには窓が開けられていないため、正面からは見えないが、隙間からのぞいて初めてその像があることに気づく。かつて清盛の寵愛を受けた祇王は、本人はもとより家族も裕福な暮らしができ、都の人々から羨ましがられていたが、やがて清盛によって地に落とされた。祇王にとって、清盛は恩ある相手でもあり、恨みの対象でもあるわけで、清盛に対する祇王の微妙な感情をその像が置かれている場所が表しているようでもある。
祇王の幸福にあやかろうとする白拍子たちは、祇一、祇二、祇福などと祇の字を名に付けた。
白拍子とは、白い水干に立烏帽子という男装をして、当時流行していた今様を歌いながら、舞を舞う女性。今で言うなら宝塚のようなもの。
白い猫がいる。まろみちゃんというらしい。まるで祇王みたい?
仏御前は、既に清盛の子を宿していた。尼寺では産めないので故郷の加賀国に帰るが、途中山中で死産したといわれる。故郷では「清盛の白拍子」と村の男にちやほやされるが、嫉妬に狂った村の女たちに嬲り殺しにされたという悲話も伝わる。
庵主は智照尼という人だった。智照尼は元芸妓、39歳で出家。瀬戸内寂聴「女徳」のモデルとなった人物。
「いま清盛公に愛されて有頂天になっているあなたも、捨てられてしまった私も、清盛さまからみれば同じ女、そのあたりに生えている同じ草にすぎません。いつかあなたも私の気持ちがわかるときがくるでしょう」

仏教では完全な円は完成した悟りの姿を示すといわれていますが、「吉野窓」は窓の下部が切れて直線となっています。吉野太夫はこの吉野窓に完全ではない自分の姿を映し、自らを戒めていたそうです。

俳句の世界では、2月14日は祇王忌とされ、春の季語になっている。

 

車折神社(くるまざきじんじゃ)
神社に祀られているのは、清原頼業(よりなり)。
「よりなりさん」と親しまれ、売掛金、未収金の回収にご利益があるという。
「頼」は金が「寄り」、「業」は事が「成り」だとして、商売繁盛の神様とも。
芸能神社がある。
画家・富岡鉄斎が一時当社の宮司を務めていた。

 

山陰本線

京都駅から嵯峨野方面に行くには、山陰本線(嵯峨野線)を利用するが、朝はとても混む。順番待ちしないと座れない。ホームからできるだけ離れたところの方が空いている。遠回りになるが、渡月橋を渡れる、地下鉄と阪急線を使ったほうがよい。阪急線に乗るときは先頭車両に。電車でGO気分を味わえる。

 

直指庵(じきしあん)
山門、本堂、道場の屋根は琵琶湖畔に生える茅で葺かれている。
「想い出草」というノートには、訪れた人の様々な心のうちが綴られ5000冊以上に上る。

 

常寂光寺(じょうじゃくこうじ)
そうだ京都行こう『暑い夏を乗り切った私に、この町が「おつかれさま」と言ってくれました。』2007初秋

静寂の常寂光土を思わせることからこの名がついた。
藤原定家の「忍ばれむ物ともなしに小倉山 軒端の松ぞ なれてひさしき」にちなみ、軒端寺とよばれる。
「わたしは小倉山のこの家の軒端の松よ。こうして立っているのにあの人に思い慕われることもないまま、ずうっとひとり待ち続けて久しいわ。」
方広寺を築いた秀吉は大仏開眼に際し、八宗の僧侶に出仕を求めた。日蓮宗本国寺の日禛は不受布施(法華を信じない者の施しを受けず、また施さないこと)の伝統を守って出仕を拒否。寺に咎めが及ぶことを恐れた日禛は寺を去って小倉山に隠棲した。これが寺の起こり。
土地は角蔵了以が、本堂は小早川秀秋が伏見城の客殿を寄進した。

運が良ければ、拝観受付の窓口でくつろぐ看板猫のくろべえに会えるかも。

仁王像は、運慶作。仁王門像は目と足腰の病にご利益があるとされ、近在の檀信徒がわらじを奉納して病気平癒を祈願されている。
展望の良いところから東面を眺めると、三つの丘が見られる。総称して双ガ丘と呼ばれる。二ノ丘に吉田兼好が居を構えていたといわれる。
寺内には塀がない。境内全体が小倉山に溶け込んでいるようにみえる。

時雨亭跡:常寂光寺を創建する時に、定家卿の祠よりも上に寺の庫裏を建てるのは恐れ多いと現在の場所に遷座された。歌遷祠の扁額は、富岡鐡齋の作。

女の碑:「女ひとり生き ここに平和を希(ねが)う」と刻まれたこの碑は、参議院議員であった市川房枝の名の下に建てられた。第二次世界大戦で200万人を超える男性が戦死し、その半分が未婚のままという陰で、独身のまま生きることを余儀なくされた女性も多数いた。「女の碑」の後方には、彼女たちの共同納骨堂である「志縁廟」が建てられており、「女の碑の会」の会員は「血の縁」ではなく「志の縁」のもとに建てられた墓に共に眠ることになっている。世間の冷ややかな目もあって、女性独りで生きて行くことがまだまだ難しい時代において、懸命に自らの手で人生を切り開いてきた彼女たちは、独身者の切実な悩みである終の住処もまた自分達の手で用意したのである。

人力車(じんりきしゃ)

人力車は1台160万円ほどする。

清涼寺(せいりょうじ)
通称は嵯峨の釈迦堂といわれる。
本尊の釈迦如来立像は、両耳には水晶玉がはめ込まれている。これは、多くの衆生の声に耳を傾けるためという。胎内からは、衣で作った五臓六腑が発見されている。この仏には傷跡が多く見られる。江戸時代、出開帳したときにお賽銭が当たった傷だといわれている。のどには声を象徴する鈴が入れられている。手の指は爪を長く伸ばし、手のひらには手相まで彫られている。
鎌倉時代には、この美しい像の特徴を備えた模造仏が多くつくられた。そのため、日本各地にあるそれらの像は、「清涼寺式釈迦如来」と呼ばれるようになった。
梵鐘には、文明16年(1484)11月の日付と寄進者の足利義政、日野富子を中心とする数百人の僧侶らの法名や俗名が多数彫り込まれている。
仁王門は、2007年に飲酒運転の車により扉が突き破られるという信じられない出来事があった。

嵯峨野のちょうど真ん中に位置し、すくっと立つ姿は「嵯峨野の顔」とも称されます。
江戸時代初期、清涼寺の裏に乞食同然の政友という山師が住んでおり、彼はいつもお釈迦様を深く信心していました。ある時、お釈迦様が西南の方角を指し示され、これを自分に対するお告げであると信じた政友は、西南へ旅立ちます。難波から瀬戸内海を西へ・・・辿り着いた所が今の愛媛県別子銅山です。そこでおびただしい量の銅が産出され、政友から二代目の泉屋吉左衛門の時、事業は大成功します。三代目からは、名の政友を改め、「住友」と名乗るようになりました。

◆本堂には江戸時代に黄檗宗を開いた隠元禅師が揮毫した「栴檀瑞像」(釈迦如来立像の材)の額が飾られている。

◆豊臣秀頼公の首塚:大阪城から発見された秀頼と思われる頭蓋骨を納めた首塚。秀頼が清涼寺再興に努力した縁で建てられた。
 

大覚寺(だいかくじ)
そうだ京都いこう『美しい景色は人がつくり上げるものです。この当たり前のことに1000年たった今、ドキリとするのはどうしてだろう。』2007年 盛秋 

南北朝時代には大覚寺統(南朝)として持明院統(北朝)と対立し、南北朝講和の際には、南朝後亀山天皇が北朝後小松天皇に三種の神器を譲り渡して隠棲された場所。
嵯峨御所と呼ばれるのは、後宇多天皇がここで院政を執ったことによる。

庭には、右近の梅、左近の橘があるが、これは2隊列が整列する場所を表したものである。よって、皇室関係に所縁があることがわかる。平安神宮・青蓮院にもある。
建築群を結んでいる「村雨」(柱を雨に見立てた)といわれる渡り廊下がある。廊下の両側に高欄が設けられ、床はうぐいす張りで、天井が低く作られている。また、折れ曲がり、段差もつけられていることから「稲妻の廊下」ともいう。これは侵入者を防ぎ、刀などの武器を使いにくくするための工夫である。
かつては、欄干は外せるようになっていて、敵と戦う場合の武器にもなった。
美しい白砂も、うぐいす張りと同じ理由で敷かれている。
正宸殿には武者隠しの「剣璽の間」。剣璽(けんじ)とは、三種の神器のうちの剣と勾玉のこと。黒塗りの蔀度(しとみど)の留め金には蝉の装飾が。

虎豹図(こひょうず):古来、豹は虎の雌と考えられていた。
野兎図(のうさぎず) :どれもみな愛くるしいまでの表情やポーズで描かれており、観る者の心を和ませずにはおかない。幼くして仏門に入ることになった寛深門主を慰めるために制作された。卯年生まれで、12歳で入寺した。

大沢池は、名月三大鑑賞池の一つ。他は、広沢池(京都)、 猿沢池(奈良)。 日本最古の人口湖。また、時代劇のロケーションの池で有名。水戸黄門にはよく出会う。

離宮は現在の寺院の場所とは違い大沢池の北に位置して「名古曽」の滝が在った所にあった。「勿来・なこそ」は来てはならない意味で、「侵さざる場所」「神聖な場所」であった事を示している。溜池が一転して天皇の離宮という特別な地に変身していったことをこの名は伝えている。
の音は えて久しく りぬれど こそ流れて ほ聞こえけれ」(藤原公任)瀧の音は(水が涸れたため)絶えて久しくなったけれども、高い評判は流れ伝わって今でもやはり聞こえてくることだ・・・・。
1,2句の頭には「タ」の音を、3句以降は「ナ」の音を配した技巧的な歌。滝の代わりに言葉が流れる美しさがある。

この歌にあるように平安時代中期にはすでに水が涸れていたことがわかる。

嵯峨御流の総司所がある。嵯峨御流は、嵯峨天皇が離宮の大沢池の菊ケ島に咲く菊を花瓶に挿したところ、それが見事に美しい姿を備えていたことに始まる。毎年、嵯峨天皇の命日の4月15日には、遺徳をしのび華道祭が行われる。

応仁の乱後、吉田宗忠という人物が、幕府の再生の一端を委託された形で土倉(どそう)と呼ばれる高利貸業を営んだ。大覚寺の門前に店をおき、「門前の隅(角)の土倉」ということから、「角倉」が屋号になった。角倉了以はその三代目。
清水寺の本堂に奉納された絵馬に、三百数十人もの人を乗せ、貿易ために安南国(ヴェトナム)との間を往復した角倉船の姿をしのぶことができる。

滝口寺(たきぐちでら)

「平家物語」の滝口入道こと斎藤時頼と、建礼門院に仕えた雑仕の横笛の悲恋の地として知られる。身分違いの横笛を好きになってしまった滝口入道は、許されない恋に悩み、出家してしまう。高山樗牛「滝口入道」でも有名。
滝口とは清涼殿の北東にあって、内裏で使った水が流れてきて集まるところ。滝口に詰めて警護や使役をするのが滝口の武士。
祇王寺とともに「平家物語」ゆかりの寺であるが、なぜか滝口寺を尋ねる人が少ない。横笛を捨てて出家した滝口入道の心情を理解する人が少ないのかもしれない。
本堂には、二人の木像が並んでおり、手を合わせる横笛像が印象に残る。

奈良にある法華寺には紙で作られた横笛像がある。法華寺の尼にその苦しみ悲しみの思いを書き送った。その気持ちを哀れんで手紙で作った像。