八坂庚申堂(やさかこうしんどう)
◆くくり猿が、手足をくくられて動けない姿をしているのは、「欲」のままに行動する猿を動けない姿にすることで、欲を我慢することの大切さを人間に教えている。
◆申年には、当然に参拝者が多くなる。赤い下着をつけて、お参りしましょう。
◆吊るされている猿の数により願う意味が異なる。5個で五猿→ご縁。9個で九猿→苦が去る。
◆入口の門の上には、見ざる聞かざる言わざるが。
八坂神社(やさかじんじゃ)
◆八坂という名は、平安時代よりこの地に渡来人の八坂造(やさかのみやつこ)という一族が住んでいたことに由来する。
◆明治政府は神仏分離令をだした。通達の中には午頭天王を神仏習合の悪例と名指ししたものがあった。さらに政府は、それまでの「天子」や「みかど」という呼び方を「天皇」と改めたため、牛頭天王は天皇の名をかたる不敬の輩になった。牛頭天王を本尊とする社は、すべてスサオウノミコトを祭神とする神社に変えさせられた。祇園感神院は寺院部分を取り壊されて円山公園となり、祇園社部分だけを八坂神社と改称した。
◆女性に人気のあるのが美御前社で、美容の神様として知られる。
◆力水:竜宮に通じる水脈から涌き出るとされている。この水を飲み美御前社にお参りすると美人になる。
◆社殿は、本殿と拝殿を一つの屋根で覆ったユニークな社殿で祗園造と呼ばれ、他には例がない。
◆舞殿の南に門があり、その先に立つ鳥居は、現存する石鳥居のうちで日本最大。
◆南楼門が八坂神社の正門であり、神事の行列や神輿、婚礼などもこの門を通って行われる。
◆本殿、拝殿、西楼門で三位一体を表し、南楼門は少し高くなっている。
◆月下氷人石:迷子の告知板。紙を貼って利用した。左側側面に「教方」右側に「尋方」。このような石柱は、人出の多い社寺の境内に良く見かける。「月下氷人」とは、仲人のことで男女の仲を取り持つ人をいう。 月下老と氷上人という縁結びの神を合わせて作った言葉。北野天満宮、誓願寺にもある。
◆かるた始め:祭神であるスサノオノミコトが和歌の祖神とされていることから、毎年正月三日、日本かるた院が開いている行事。
◆スサノオノミコトが日本最古の三十一文字の和歌を詠んだ。
「八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」(雲が何重にも立ちのぼる――雲が湧き出るという名の出雲の国に、八重垣を巡らすように、雲が立ちのぼる。妻を籠らすために、俺は宮殿に何重もの垣を作ったけど、ちょうどその八重垣を巡らしたようになあ。)
◆常磐新殿喫茶室では「厄除けぜんざい」なるものが頂ける。
◆喫茶カトレア:かつて疫神社があったところという。店内には八坂神社の御神水と同じ霊水が湧き出る井戸がある。メニューに、霊水コーヒー。
◆疫神社の鳥居には額がなく、直接鳥居に彫り込められている。
◆厳島社:祭神は「イチキシマヒメノミコト(市杵島比売命)」 広島の厳島神社の社名ははこの女神の名にちなむ。
◆日吉社:延暦寺は朝廷に訴訟を起こし、その訴えを通すために神輿を担いで御所に練り込み暴れた。延暦寺は朝廷に無理の要求をしては鎮守社である日吉大社の神輿を暴れさせた。これを「神輿振り」という。願いが叶わぬ時は神輿を捨てておいてゆく。その捨てられた神輿を「捨山王」という。日吉社はその名残で、社殿には覆いがあり、ガラス越しにしか拝することができないが真正面に担ぎ棒がみえる。
◆平家物語「祗園精舎の鐘の声~」の祗園とは、インドの祗園精舎ではなく、八坂神社のことである。祗園社は明治の廃仏捨釈までは、梵鐘があった。この鐘は、祗園閣のある大雲院にある。祗園精舎とは、ブッダが悟りを開いた後、もっとも多く説法をした場所。
◆ 境内には狛犬がたくさんあるので、見比べてみるのも楽しい。玄武・青龍・朱雀・白虎の四神が浮彫りされた台座に載っているものもある。
◆ 西楼門近くには市川雷蔵寄進の石灯篭がある。
◆南門前前にある中村楼は、懐石料理店で、明治維新には志士たちの会合の場となり、大津事件の前日にロシア皇太子はここを訪れ、また坂本龍馬は襲われたとき中村楼の印のある下駄を履いていたというエピソードを持つ。
◆有名なのは山鉾巡行(やまほこじゅんこう)で知られる祇園祭。
◆祇園祭は、町衆のための自分たちの勢いをみせるための、デモ行進と考えてもよい。鉾の上にのってコンコンチキチンを囃しているのは、金持ちの町人の旦那衆で、鉾の綱を引っ張っているのは、町人になれない貧乏な人たちだった。
◆祭りの行列の中には学生アルバイトもいる。鉾に車がつくようになったのは彼らの非力さが原因ともいわれている。
◆祗園祭は、死者の怨霊を鎮魂するためにはじまった。京都に人口が集中し衛生環境が整ってなかったことから、しばしば疾病が流行した。とくに夏場は毎年のように病気が流行って、当時の人々はその原因を非業の死をとげた人たちの怨霊の仕業と考えた。そして悪霊退散と死者の魂をなぐさめるため、鎮魂の祭りをはじめた。「御霊会」と呼ばれるのはそのため。農村部は収穫祭として秋祭りを行うところが多いが、都市部では夏祭りが多い理由はここにある。
◆鉾町の人は、山鉾を「やまほこ」という。山と鉾を総称して山鉾だが、「やまぼこ」と2文字目で濁音を読むのは、蒲鉾のように一体化したものであって、山と鉾は別物だから「やまほこ」と読むということである。山=人は乗れない。松を立ててその前に御神体の人形をおく。鉾=鉾には高い真木の先に鉾頭がつく。はやし方が上に乗る。
◆あなたの押しメンならぬ押し鉾は?
◆鉾の柱は、海外貿易が禁止になったので、不用になった貿易船の帆柱を利用したという言い伝えがある。
手遅れになることを「後の祭り」と言うが、これは祇園祭を指している。祇園祭は7月にほぼ一ヶ月間毎日行われるが、中旬に行われる山鉾巡行 が華やかで人気がある。そこで、この「山鉾が終わってから行ってつまらない」と言われるようになり、 山鉾巡行以降が「後の祭り」と言われるようになった。
◆長刀鉾:鉾頭に長刀が載せられているが、可動式になっていて、刃先が絶対に八坂神社と御所の方向に向かないように頻繁に向きを変えている。
◆鶏鉾:ケンタッキーフライドチキンからの寄付がある。
◆ユネスコの世界無形文化遺産登録申請の資料作成のため、20年7月に重力測定が実施された。一番軽い鉾は船鉾。山は占出山。どちらも安産祈願の神功皇后を祀る山。お産が軽くなるようにとの願いをこめて軽く造ったかもしれない。
山鉾に乗っている人形は汗をかくこともある。人形の材質が良い材料を使ってあるので、カンカン照りの暑い日には、中の湿気が表に出て、うっすらと額に汗をかく。
◆稚児:女性は手伝えないので、稚児に選ばれた家の父親は約二ヶ月、仕事を休まないといけない。巡行の日まで来客のために毎晩宴会。何十人と会食して飲みに行ってを全部稚児家がまかなうので、費用が約2000万円かかる。
◆祇園祭の期間中は、キュウリを食べないという慣わしがある。理由は、八坂神社の紋がキュウリの切り口に似ていることから氏子は食べない。一番キュウリが美味しい時季に、食を断つということは、祗園祭が無事に終わるための願掛けの意味合いもある。昔の人が家紋を重視していたことがわかる。
◆延床面積最大
◆また庇
八坂神社四条御旅所・冠者殿社:誓文払いの神として商工業者の信仰を集める。誓文払いとは、例祭で10月20日に行われる。かつては商売上の駆け引きを罪と考え、その罪をあがなうため。
ヤサカタクシー
◆ヤサカタクシーのトレードマークは三つ葉のクローバー。タクシーの屋根の部分についている「行灯(あんどん)」と呼ばれるランプにも、それが描かれている。1368台のうち4台だけを遊び心で、三つ葉ではなくて四つ葉が描かれている。その1台に乗ったことで、中の悪かった母親と言葉を交わすきっかけをつかんだ女性が、運転手に礼を言うため何日も車を捜したというエピソードもある。四つ葉のクローバーは幸せを呼ぶ。それ以上にレアなのが2台のみの「あふひの二葉タクシー」ナンバーはふたばにかけて2828。
◆運良く乗車できた際には、乗車記念シールをもらえる。
安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)
◆末社である天満宮の狛犬は、京都で最も古く1767年建立。
八瀬かま風呂
◆壬申の乱に勝利した大海人皇子は、”矢”を”背”にうけて傷を負い、八瀬の人たちが造ったかま風呂でキズを癒したといわれている。
◆大分県の郷土料理「やせうま」の語源は八瀬からきている。
矢田寺(やたでら)
◆赤い火炎を背に負う地蔵は、火災時にはエレベーターで地下室に収納されるという。
八ッ橋(ジャパニーズクレープ?)
◆なぜ京都土産といえば八ッ橋となったかというと、駅で立ち売りされていたからである。これが京土産のパイオニアになった。食品を土産物にするアイデア自体が新機軸であった。
お約束ギャグは、「なかなか良いシナモンですね」
◆「八ッ橋」の名前の由来は2説ある。
①「伊勢物語」にも登場する、三河の国・八橋の板橋に形が似ていることが由来。
②「六段の調べ」などで知られし曲「八橋流」の開祖・八橋検校の名にちなむという説。1685年に亡くなり、黒谷に葬られた検校の遺徳を忍び、参道で琴の形をかたちどった菓子を「八ッ橋」と名付けて売り出したのが始まりだそうです。検校とは盲官のこと。
◆夕子:水上勉の「五番町夕霧楼」のヒロイン名、夕子から付けられた。
◆夕霧:歌舞伎の「廓文章(くるわぶんしょう)」にちなんだもので、ヒーロー藤屋井左衛門がかぶった編笠をモチーフとし、ヒロイン夕霧太夫の名から命名した。
◆井筒八ッ橋本舗:現在の生八ッ橋の草分け。
◆聖護院八ッ橋総本店:チョコ味を作ってほしいとの要望があるが、「和菓子屋が本来使っているような変わりアン以外は決して使わない」というのが店のスタンス。会社の入社式は、吉田山の菓祖神社で行われる。
◆おたべ
◆生八っ橋は、ひらがなの「っ」。焼いた堅い八ッ橋はカタカナの「ッ」で表記されている。
養源院(ようげんいん)
◆豊臣秀吉の側室・淀殿が父浅井長政を供養したという願いにより創建されたがのちに火災で焼失、妹で徳川秀忠の正室となったお江(崇源院)が再興した。かつては豊臣方であった寺を徳川の力で再建するにあたり、お江は伏見城の戦いで家康の忠臣らが自刃し血のりが染みた床を天井に上げて供養するからと説得したという。
◆血天井のある寺の隣が日本赤十字の血液センターであるのは、偶然か?
◆参道の紅葉は、映画監督の黒澤明もこよなく愛していたそう。
◆本堂の廊下はすべて左甚五郎の造った鶯張りという。そろりと歩くほど音が出るという。
◆杉戸絵の題材となった「白象」「唐獅子」は、釈迦の脇持仏である普賢菩薩、文殊菩薩の乗り物。俵屋宗達は、「白象」「唐獅子」を描くことで、非業の死を遂げた徳川家家臣の霊をなぐさめるとともに、極楽に運び導こうとする動的でリアルな絵を完成させ、“時代を超えた絵”を残している。
◆崇源院(江)のお墓がある。普通正面にしかない梵字が四方に刻まれている。これは、浅井・豊臣・徳川・皇室四家の調和の意味があるとか。
◆崇源院と夫の2代将軍秀忠の位牌には、「菊」「葵」「桐」の3つの紋が刻まれている。3つの家紋が並ぶ位牌には、豊臣家と徳川家、徳川家と天皇家との関係の改善を願った、東福門院の切なる気持ちが現れているのかもしれない。
よーじや
◆あぶらとり紙で有名。
◆店名は、「楊枝」とよばれていた歯ブラシを商い、身近に親しまれていたことに由来する。
◆京都の名品として根付いた理由:①古くからの金箔の需要。②舞台での必要性。③舞台、花街、庶民の隔てなく、いいものを取り入れる街の性質。
◆あぶらとり紙の女性の顔は、手鏡をモチーフにしている。
◆本店は花遊小路(かゆこうじ)にある。
吉井勇(よしいいさむ)
◆かにかくに祭で知られる。「かにかくに祇園はこひしねるときも枕のしたを水のながるる」「いのち短し 恋せよおとめ~」
◆「かにかくに」とは「とにかく」の意味。
◆歌碑は、堂本印象の製作。
◆新撰組の近藤勇とは無関係なので間違えないように。
◆かにかくに祭では、吉井勇を偲ぶとともに、戦時下の空襲対策により強制撤去された祇園のお茶屋「大友」の女将・磯田多佳を偲んでいる。歌碑のそばに咲く紫陽花は、多佳が好きだった花である
吉田神社
◆吉田幼稚園の園歌の作詞者は、広辞苑の新村出。嵯峨野高校の校歌も。
善峯寺(よしみねでら)
そうだ京都行こう『ここの桜のように一年にたった一回でもいい。人をこんなにも喜ばせる仕事ができれば、なんて思いました。春に桜が必ず咲く国に生まれて、ラッキーでした』1999春
◆そうだ京都行こう『子どもは、ひと夏ごとに、大人は、ひと秋ごとに、なにか大事なものを身につけてゆくように思います』2005秋
◆阪神大震災の高架の墜落のときにぎりぎりで停止して助かったバスの運転手が善峰寺のお守りを持っていたことで、「落ちない」お守りとして受験生の人気を集めるようになった。
洛
◆平安京は中国唐の長安、洛陽をモデルにして街並みが作られた。洛陽をモデルにした左京は益々の発展を遂げたが、長安をモデルにした右京は湿地帯が多かったため住居地には適さず、衰退していった。そして、京都の別称は洛陽といわれるようになり、「上洛、洛中、洛外、洛北、洛東、洛南、洛西」などの言い方ができた。
◆東京に行くことを上京というのに対し、京都に行くことを上洛という。
龍安寺(りょうあんじ)
◆そうだ京都行こう『龍安寺のA面、知らないとマズイです。龍安寺のB面、知っているとスゴイです。』2004冬
◆「りゅうあんじ」ではなく、「りょうあんじ」。坂本龍馬と同じと覚えればよい。
◆バス停名は、なぜか「竜安寺前」。
◆三笑橋:山門をくぐった先にある橋。 慧遠(えおん)という坊さんは山奥に寺を建て、そこから決して出なかった。慧遠に会うには、彼の寺に出向かなければなりません。友人が来ると、慧遠は虎渓にある橋まで送ることがあったが、決してそこからは外に出なかった。ある日、親しい儒学者と道教の師が来た折、あまりに話しに弾んで歩いていたために、気付いた時には完全に橋を渡りこしていた。3人は思わず顔を見合わせて大笑いした。仏教・儒学・道教のいずれも別なる教えではないという「三教一致」の話。
◆弁天島には、寺なのに、弁財天と大黒天の二つの鳥居が。ここを気に入った秀吉が、勝手に置いてしまった。龍安寺に樹木が多いのは、秀吉が境内の樹木の伐採を禁止したから。
◆イギリスのエリザベス女王(勅使門を利用)やフランス人哲学者サルトルが訪れ、石庭を絶賛したことから有名になった。
◆石庭は、15個の石を巧みに配置した虎の子渡しと呼ばれる名庭 。どこから見ても、15個すべての石をみることができない。そこにはある種の哲学があり、15という数字は、東洋の思想では完全を意味する(七五三、三三九度)。つまり、石庭は十五夜の満月に結び付くといわれ、それを見る私達人間は完全ではないから15個全部を認識できないということになる。見えない石は「心眼で見抜きなさい」と。実際は15個見える場所(縁の右端の柱のそば)があるが、それを探すようなことは、慎みたい。
◆「w」の配石は、北極星に近いカシオペア座を表しているともいわれる。
◆広縁の縁は、多くの人が座ったことにより、磨り減っている。
◆近年、比叡山系の特産である白川砂の違法採取が問題となった。寺ではこの砂を50年分ほどは確保している。白砂は雲母を含んでおり雪と同じくらいの反射率がある。
◆ある人は雲海に頭を出す山岳の姿ととらえ、ある人は大海に浮かぶ島々ととらえる。
◆虎の子渡しの庭:虎が三匹の子を産むと一匹は獰猛な彪(ひょう)となって他の子を食べると言われ、虎の親子が川を渡る時は、先ず彪を対岸に渡し、次いで他の一匹を渡してから彪を連れて戻り、次に残る一匹を渡し、最後に彪を渡したと伝えられている。親虎は三匹を安全に渡すために四匹分の努力をしたことになる。この中国の故事は禅に通じ、つまり絶えざる修行と見えない努力を怠ってはならないことを示し、虎が川を渡る姿を象った石庭は見る者にその禅の教えを説いている。
◆庭に敷き詰められた白砂には、反射熱によって部屋を暖めたり、室内に光を呼びこんで明るくする効果がある。
◆庭に対して方丈が少し東にずれている。これは、寛永9年の火災の後、塔頭の西源院から方丈を移築したことによる。
◆庭の西北隅に小さな石で丸く囲まれた一画があり、糸桜(枝垂桜)の古株が残されている。かつて秀吉はこの桜を愛でた。
◆周りの油土塀は白砂からの照り返しを防ぐためにあり、手前側が高く、奥に行くにつれて80cm低くなっており、遠近法を取り入れている。瓦の数も6枚が5枚になっている。
◆油土塀の屋根には、瓦ではなく柿(こけら)を用いている。そのため重厚な感触が薄れていて、石庭の範囲を明確に示すと同時に、自然に石組に視線が向くように作られている。
◆油土塀:菜種油を入れて練った土でできている。
◆庭は排水のためにわずかに南東に傾いている。
◆庭石庭の油土塀の上から、覆い被さるようにして、枝垂れ桜の花が咲く。かつては隠れ桜と呼ばれて知る人ぞ知る存在だったが、すっかり有名になってしまった。
◆襖絵は、皐月鶴翁(さつきかくおう)による。描かれている金剛山は北朝鮮にある絶景。当時の住職がビルマ戦線で鶴翁の息子と知り合い、その縁で筆をふるうこととなった。紅い霞はサンゴ、雪の白は水晶を砕いて顔料としている。
◆知足のつくばい:”吾唯知足(われ唯足るを知る)”と彫られており、知足の者は貧しいといえども富めり、不知足の者は富めりといえども貧しいという禅の精神を示す。銭形平次ではなく、水戸黄門の徳川光圀が『大日本史』編纂にあたって、龍安寺所蔵の『太平記』を借りたので、そのお礼により、寄贈された。「知足」の額が山門に掲げられている。お土産品として、口の部分で栓を抜く栓抜きが売られている。
◆つくばい:手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。茶室に入るには身分高い者も頭を下げるの意。もともと茶道の習わしで、客人が這いつくばるように身を低くして、手を清めたのが始まり。茶事を行うための茶室という特別な空間に向かうための結界としても作用する。
◆龍安寺の「つくばい」は、「蹲踞」と二文字で書いてある。蹲踞とは「そんきょ」。両ひざを折ってうずくまり、頭を垂れて行う礼である
◆蔵六庵はリチャード・ギアのお気に入り。
◆侘助椿:侘助という人が朝鮮出兵の際に持ちかえった椿。秀吉が絶賛したと言われており、日本最古の椿と伝えられている。
◆鏡容池:おしどりの池として有名。昔は石庭よりも、有名だった。おしどり夫婦というが、実際は仲良しではない。おしどりの雄はきれいで目立つので雄鳥と雌鳥が一緒にいると、それが違うカップルであっても仲良くみえるためにいわれるようになった。実際には毎年相手を替えている。カラス、ワシ、白鳥、鶴は、一夫一妻制。
◆池は鎌倉時代の庭園の遺構。5~9月にかけて午前中には、睡蓮の花が咲き、モネの絵が思い浮かぶ
◆「真田幸村の墓、弁天島、水分石、伏虎島」
◆塔頭/大珠院に真田幸村の墓があるが非公開。
霊山(りょうぜん)
京都霊山護国神社
霊山歴史館
◆釈迦が説法したというインド摩掲国霊鷲山(まかだこくりょうじゅせん)にあやかった名。
◆10月14日(大政奉還が行われた日)には、霊山例大祭が行われる。
◆霊山歴史館の敷地内の石畳は京都市電の路面に敷かれたもの。ハートストーンがある。この位置でカメラをかまえると、ベストポジションになる。
◆霊山歴史館の坂本龍馬像は座像。立像は各地にあるが座像は日本唯一ここだけ。
◆もともとこの辺りが勤皇志士の聖地となったのは霊明神社の存在が大きい。同社は江戸初期、長州藩などの要請で神道式の葬祭を執り行うために創建された。龍馬や慎太郎もこの形式で葬られたことがわかっている。
蓮華寺(れんげじ)
◆庭園の石橋は両端をしっかりと石の橋台に固定され、その中ほどに水面から突き出た橋脚がある。この橋脚と上にかぶさる石橋との間には隙間がある。これは、石造り庭園というものが一般的に硬い印象を与えるので、これを補うために、人が渡ると石橋がたわむことを隙間で表現している。
かつては時宗の寺で、京都駅近くにあった古寺を加賀藩家老今枝近義が応仁の乱後荒廃していたこの地に再興したもの。ゆえに若狭街道の入口に位置し、京文化と金沢文化の交流を感じさせるものともいわれる。
◆庭園には舟石が。沓のような形が、庭園の典雅な風情にとけこんでいる。
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)
◆きれいに塗りなおされているので、一見新しい建物にみえるが、京都中心部にある数あるお寺の中でも応仁の乱以前に建てられた最古の建物のひとつ。
◆六波羅蜜寺では12年に一度、辰年にご本尊である国宝十一面観音像が御開帳される。次回は2024年11月から33日間?
◆阿古屋塚の台石は、古墳時代の石棺を転用したもの。
◆空也上人像:粗末な衣に、痩せ細った肢体。盛り上がった頬骨は、上人が発生する瞬間を切り取ったもの。どこから見ても歩いているように見え、骨格に無理がない。絹などの織物をまとう一般的な高僧とは異なり、庶民に寄り添う僧侶が着る皮衣を着ていたい。真後ろから見ると、横向きの皺や縦に細かく刻まれた皺から、皮の質感が表現されている。
◆作者は、鎌倉時代を代表する 仏師・運慶の四男である康勝。 空也上人が他界されてからお よそ250年後に制作されたと言 われています。肉体が滅びても 空也上人に対する人々の尊敬 の念は受け継がれました。
◆杖の先に鹿の角を 付け、皮衣のお姿を されている空也上 人。鞍馬山での修行 中に可愛がられてい た鹿が猟師に射殺さ れたことを悲しまれ、 角と皮をもらい受け生 涯身につけられていたそう。
◆つい見落としてしまうほどの小さな細 工、杖の下部に蓮の蕾が彫られていま す。「ひとたびも 南無阿弥陀仏といふ 人の 蓮の上に のぼらぬはなし」とい うお歌をいつも唱えて人々 に念仏を説かれてい た空也上人の御 教えがこの蓮の 蕾には象徴され ています。
◆弁財天がキンキラキンで、スターウォーズのC3POっぽい。
廬山寺(ろざんじ)
◆紫式部の邸宅跡として知られる。
◆本尊阿弥陀三尊像:両側の菩薩は上体を前傾させ両足をやや開いて正座し、衣が後ろになびいていて、来迎のスピード感を強調している。観音菩薩が蓮台を捧げるのに対し勢至菩薩が合掌するのではなく蓮華を持つという姿は非常に珍しい。
◆源氏物語に登場する朝顔の花は今の桔梗のこと。
◆境内には御土居跡がある。
◆元三大師堂前の石灯籠側面には建立日が「正月三日」とある。
◆鬼大師:鬼が笑っているか、怒っているか、どのように見えるかで自分の心の様子が分かる。怒っているように見える人も、像に祈りをささげれば報われる。
◆信長の比叡山焼打ちの際、信長に仕える明智光秀に正親町天皇が廬山寺は律家(戒律を守っている)寺であるから焼打ちしないようにとの女房奉書(女消息体で書いた文書)、俗に云う正親町天皇女房奉書(重要文化財)を下さり、焼打ちをのがれる。この縁で光秀の念持仏が奉納される。
六角堂(ろっかくどう)
◆正式名称は、頂法寺。
◆本堂が六角なので六角堂といわれる。気にしてみると境内の至るところに六角形のものがある。
◆本堂にある大提灯の側面に染め抜かれているのは「法輪」。本尊は如意輪観音のため。
◆いけばな発祥の地「華道家元 池坊」。
◆池の畔に塔頭の池坊があり、ここで遣隋使・小野妹子が聖徳太子の仏前に供花したといわれ、立花の始まりになる。のちに華道に発展する。
◆へそ石なるものがあり、京都の中心を表しているという。
◆境内には、人が近づいても逃げず、思わず踏んでしまいそうになるほど多い鳩が有名。お守りやおみくじのモチーフになるほど。
◆それぞれ顔の異なる素焼きの鳩がおみくじを持つ「幸福鳩みくじ」は、凶がないのでお土産にもいい。
◆小学生が通学かばんに使うランドセルの形をしたお守りがある。通学中の事故を防ぎ、学力がグングン伸びるなどのご利益が。
◆鐘は全自動撞木により鳴る。毎日6、12、17時に。人手で鐘が突かれるのは、広島と長崎の原爆投下時刻、終戦記念日、五山の送り火の日、大晦日。
◆本堂横に「一言願い地蔵」が安置されている。首を傾げているのは、願い事を叶えようかどうか、考えている姿とされている。欲張らずに一つだけ願い事をするとそれが叶えられるという。
◆柳の中に学名『ロッカクドウ』と名付けられた柳があり、その名の通り、六角堂の柳が始まりとされている。嵯峨天皇が妃を求めて六角堂へ祈願したところ、この柳の下で素敵な女性にめぐり逢えたという逸話があり、以来、六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれるという『縁結びの柳』として人々に親しまれいる。良縁を願っておみくじを引き、柳の二本の枝を一緒にして結ぶと良縁に恵まれるといわれている。一本ではダメで、たくさんの枝をまとめるのも、それはそれで面倒なことに。
◆青々と茂った枝が地面 すれすれまで伸びる姿から「地ずり柳」とも呼ばれる。
◆親鸞堂の奥の垣根には不思議な仏像が。池坊家元のお母様の仏像。
◆隣のビルは「WEST18」といい、西国十八番の札所という意味。
◆親鸞は聖徳太子に憧れ、修行中の比叡山から太子建立の六角堂に百日参籠を行い、95日目に太子の化身、救世観音が夢に現れて「極楽往生」を約束される。それを機に比叡山を離れ、浄土宗を開いた法然の元へ入門し、後に浄土真宗を開いた。
◆境内には何羽かフクロウがいる。
◆京の三町堂:六角堂(頂法寺)、革堂(行願寺)、因幡堂(平等寺)
路面電車
◆二条木屋町の交差点を見ると、木屋町通の道幅が少し広くなっていて二条通にお東西も大きくカーブをとっているのがわかる。これは明治28年京都→伏見油掛間に日本初の路面電車を開通した京電が路面を木屋町沿いに延長し、岡崎の第4回内国博覧会会場やさらに西の寺町通へと伸びて行った痕跡。
◆二条通が寺町通と交わるところに、広場がある。これも電車発着のために拡張された跡。
若宮八幡宮
◆本殿地下から発見されたハート形の石がある。
◆美の鏡お守り