松尾大社(まつのおたいしゃ)
注連縄が注連縄ではなく「勧請縄」。勧請縄とは魔物や疫神が入ることを阻止する結界。

霊亀の滝には、天狗の面に見える岩がある。有料エリア。
上古の庭:全国で200余り存在する重森三玲の庭園で三本の指に入るといわれる。吉野川流域で採取された緑泥片岩で、神々の姿を表した。これだけ立派な緑泥片岩は貴重なもので、現地の石材店は頑なに売り渋ったが、「この石は、神様になるんや」の一言で快諾したという。
亀の井:
松尾大社の神使(神の使い)は「」と「」であり、境内には多数の像が点在している。
これは神社文書における「松尾神は大堰川を遡り丹波地方を開拓するにあたって、急流では鯉に、緩流では亀に乗った」という記述に由来する。

 

萬福寺(まんぷくじ)
そうだ京都行こう『スイカ、蓮根、精進揚げ、けんちん汁、インゲン豆。そしてダイニングテーブルに椅子。そうか一家団欒は、隠元さんが持ち込んだってワケだ。全部中国から来た隠元禅師のお土産。万福寺のマンプクになるお話でした』2000夏

中国風で、異国情緒にあふれている。昔のジャッキー・チェンの映画みたい。

萬福寺の伽藍はそのすべてが屋根つきの回廊で結ばれており、雨天の際でも問題なく法式を執り行うことができるようになっている。
魔除けのためか、コウモリの形をした窓がある。

 

総門

総門の敷居が高いのは、昔はお寺の周辺で豚を飼っているところが多く、その豚の進入を防ぐため。

総門の屋根には、シャチホコではなく、ガンジス河の神獣マカラが。門をくぐり振り返ってみると白虎鏡という丸いモチーフが。風水的な意味があるらしい。

中央上部裏面には円相が型取られています。これは風水的モチーフの一つ、「白虎鏡」です。

総門をまっすぐ中へ進むと「影壁」という魔除けの壁があり、その手前で道を曲がることになる。「邪鬼が壁に跳ね返される」という意味がある。邪悪な心を持った邪鬼が入ってくると、まっしぐらに突進して影壁にぶつかって、思いっきり跳ね返されて反対側の白虎鏡にぶつかる仕組み。

総門を入ってつきあたりに影壁と呼ばれる魔除けの壁があります。隠元禅師が請来された孟宗竹(もうそうちく)の藪を「隠元藪」と称しています。

 

天王殿

お腹の大きな布袋尊で有名だが、そこから満腹寺となったわけではない。貫禄のあるお腹の事を「どてっ腹」と呼ぶが、この「どて」は「布袋:ほてい」が語源。布袋様のようなお腹を「布袋腹」と呼んでいたのが変化した。
布袋尊の背中側には、韋駄天像が。涼やかな目元のイケメン仏と女性から人気を集めている。食堂で祀られていることが多い。

その理由は走るのが速い韋駄天は、料理を準備するために方々を駆け巡って食材を集めた。「ご馳走」という言葉はそのことに由来する。「ごちそうさま」というのは、韋駄天様に感謝するということ。

 

大雄宝殿
大雄宝殿の正面の入り口は「桃戸」と呼ばれ、桃の実の彫刻が施されている。これには魔除けの意味がある。桃は邪気を払うといわれている。朝夕の勤行の際は、この外開きの桃戸を勢いよく開き、邪気を払う。
建物の左右に円窓が設けられ、廊下の天井は蛇腹式になっている。

卍(まんじ)くずしの勾欄はヴィシュヌ神という神様の胸毛の形を表している。

大雄宝殿の前庭中央に梵壇石という一枚の石がポツンと置かれているが、これは戒律を犯した僧をここに座らせて、無言の罰を与える場所。

羅漢像:虎がいる羅漢は動物を操る神通力があるとも考えられいる。こちらの「虎」は、本物の虎を一度も目にした事のない日本人が想像して彫ったのではないかと言われている。
 

境内全体で龍を表している。真っ直ぐに伸びる大雄宝殿への敷石は龍の背をイメージしている。駒の蹄影之碑の両側にあった井戸が龍の目、その間に生えている松が髭、碑の向こうにある堀が口。

 

法堂

獅子吼(ししく)釈迦の説法を、獣中の王である獅子が一度咆哮すれば、百獣すべてが従うことにたとえ、獅子吼といわれています。

 

廊下の灯をみてみると、葵の家紋。徳川家綱などのおかげで寺地を得たという事で。「威徳殿」には徳川家の歴代の霊牌が祀られていて、毎年5月8日には徳川家綱公祥当忌が執り行われてる。


黄檗宗の禅寺だが、黄檗とはキハダのことで、キハダとはミカン科の木で樹皮から胃薬や染料を採る。
普茶料理が食べられる。普(あまね)くお茶を差し上げるという意味。「普茶」をさかさまに「ちゃぶ」とし、卓袱台(ちゃぶだい)といわれるようになったとの説がある。唐(とう)揚げも普茶料理の一つ。
隠元が中国から伝えたもの:インゲン豆(43日は、隠元の命日にちなんでインゲン豆振興の記念日)、スイカ、レンコン、普茶料理、煎茶、孟宗竹、明朝体、木魚、寒天と名付け。
魚板が口にくわえている丸いものは、人間の煩悩を表している。これを叩くことによってあらゆる欲望を外に吐き出し、心身ともに清浄になる。鯉。不眠不休。

原稿用紙の起源とされているのは、鉄眼道光禅師によって開刻せられた黄檗版鉄眼一切経である。

駒蹄影園跡(こまあしかげえんあと):宇治の里人たちは、茶の木をどのくらいの間隔で植えたらいいかわからなかった。明恵は畑の中に馬を乗り入れ「栂山の尾上の茶の木分け植えてあとぞ生うべし駒の足影」の一首を示して、この馬のヒヅメの跡に従って植えるようにと教えた。総門の前には、その歌を刻んだ大きな自然石の碑が明恵の徳を称えている。

 

舞妓(まいこ)

舞妓は、1520歳くらいの修行中の身の上。芸妓は舞妓を卒業した人のことをいう。東京ではそれぞれ「半玉(はんぎょく)」「芸者」という。舞妓を数年つとめたあとは、芸妓になるか、この世界に別れを告げなければならない。結婚すると花街にはいられなくなるのが昔からのしきたりなので、年頃になると芸妓になるか結婚するか悩む子が増えることになる。修行が厳しいこともあって、現在の芸妓と舞妓は250人ほど。
「舞妓と芸妓」の違い:「地毛(先発するのは週一回)、カツラ」「おこぼ、下駄」「だらりの帯、帯」。

舞妓の名刺を財布に入れると、お金がまいこむ縁起物といわれている。
かつては「舞子」と書き、912歳でお座敷に上がっていたが、現在は児童福祉法と労働基準法の改正によって中学卒業後でないとなれない。
舞妓体験できるお店もあるので、街中で舞妓を見かけることも多い。本物か偽者か見分けるのは、まず祗園など花街以外を歩いている舞妓は偽者。逆に言うと、偽者は花街を歩けない。それと簪(かんざし)は季節ごとに変わるので、季節と違う簪をつけているのは偽者。だらりの帯に紋が入っているかどうかでもわかる。体験で街中を散策できるコースがあるが、ぽっくりの下駄で歩くのは疲れるので、写真撮影だけの方がよい。かつらをつけるため、額が小さいのも偽者。
おこぼは、子供だった舞妓を大きく見せるためにハイヒールになっている。
赤い口紅を付けるのは、白塗りなので幽霊と仲間だと思われないようにするため。
1月松竹梅、 2月梅、 3月菜の花・桃、4月桜、5月藤・あやめ、6月柳・アジサイ、7月祇園団扇、8月すすき・朝顔、 9月桔梗、10月菊、11月紅葉・銀杏、12月南座のまねき。
1・1から1・15までは、松竹梅に稲穂が添えられる。稲穂は今年一年、実る稲穂のように頭を下げるという気持ちを表している。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

舞妓さんと記念写真を撮りたいときは、新幹線京都駅待合室前の人形と撮りましょう。
浮世離れした話で、祗園甲部では、おたふく風邪は祗園郵便局で、頬にスタンプを押してもらうと治ると信じられていた。
「どすぇ~」という言葉は、新米舞妓のお国言葉を隠すために使うようになった。今も昔も、舞妓は京都出身者以外のものも多い。
時代祭の綺麗どころは、芸舞妓が扮することが多い。
2008年2月9日放映、牧瀬里穂主演 『祇園芸妓VS京都女優 京都花嫁衣装殺人事件女の嫉妬が亡霊を呼ぶ 白骨化した手首の謎』長いっ!
舞妓は携帯の所持禁止。
祇園甲部歌舞練場は、姫路城をモチーフにして建てられた。隣の弥栄会館は、かつては風船爆弾の製造工場だった。12メートルもある会館の天井の高さが好都合だった。
都をどりの「を」は、踊っている姿を現しているとも。
舞妓さん御用達のお店は、井澤屋。

ポチ袋:舞妓に与えていた祝儀袋のこと。「ポチ」には「小さな(これっぽち)という意味があり、「少ないですが」という謙虚な気持ちで与えたのが始まり。

 

円山公園(まるやまこうえん)

そうだ京都行こう『「ありがとう」桜を見上げて言ったのは初めてな気がする』
以前は安養寺(あんようじ)というお寺があった。寺名『慈円山安養寺』の慈円山(じえんさん)より円山(まるやま)という地名で呼ばれるようになり、明治から公園として造園され、現在は夜桜の名所として広く親しまれている。

わが恋は松を時雨の染めかねて 真葛ケ原に風さわぐなり私の恋は、松を時雨が紅葉させることが出来ないでいるように、思う人をなびかせることが出来ず、真葛が原に、葛の葉の裏を白々と見せながら風が騒いでいるように、私はそれを恨んで心が乱れている。松を時雨の染めかねて=松は常緑木で時雨も染めて紅葉出来ない「松」に、なびかせることの出来ない恋人を暗示し「時雨」を自分に暗示。真葛=真は美称の語、葛はマメ科の植物で裏は白っぽい。風が吹いて葛が白っぽい裏を見せるので、恨み(裏見)で心の落ち着かない状態を暗示。
池の水は琵琶湖から。
龍馬・慎太郎像の題字は、吉田茂。坂本龍馬の隣で膝をついた中岡慎太郎という構図は、当時としては大柄だった龍馬と、平均的な身長だった慎太郎の身長差を隠すためだといわれている。

曼殊院(まんしゅいん)
そうだ京都行こう『一年なんてアッという間に過ぎていく。それじゃいけない。ホーッ、京都の紅葉が、ゆっくりとため息をつかせてくれました』2006秋

曼殊とは、サンスクリット語の響きからで、妙吉祥・妙徳・妙楽などの意味で、「すぐれた楽しみ方」。
受験シーズンには、北野天満宮から移された十一面観音に合格祈願をする人が多い。歴代門主が菅原家の出身であったため、天満宮とも関係が深く、歴代門主は明治維新まで同宮の別当職を歴任していた

庫裏には「媚竃(びそう)」の文字が。「かまどにこびよ」と書かれているわけだが、その意味は、多くの人は権力に媚びるが、我々が日々活動できるのは竈で炊いた食べ物のおかげであるのだから、竈やそこで働く人に感謝せよという意味。別の意味では、徳川幕府に媚びざるを得ない法親王良尚その人が、自虐的に自分を言い表している。
庫裏には大黒天が祀られている。大黒天は火を巧みに操り、大きな袋を持っていることから、食材に困らないというイメージが発展、台所の神として祀られる事になった考えられる。

庭園:東側が薬師の世界(過去)で、庭園の主となる滝石があり、前には石橋を架け、滝から白砂の水が流れ出て、滝の前の水分石からひろがり、亀島に、蓬莱山が浮ぶ。
中央が釈迦の世界(現在)で、鶴島(宝船)があり、樹齢400年の五葉の松が西(西方極楽浄土)に向いている。 根元にキリシタン灯籠がある。(良尚法親王の母がクリスチャンのため)上部を外して上から覗き込むと十字架のデザインに。
西側が阿弥陀の世界(西方極楽浄土)で、樹齢320年と云われる霧島つつじ(4月中旬~5月上旬が見頃)が植えてある。宝船が西向きに、最も美しい霧島つつじを西側だけに植え込んであるのは、真っ赤な夕日の浄土「阿弥陀の世界・未来」に迎えられる人生表現とも云える。
鶴島には、鶴の羽をかたどった松が見事。
曼殊院は庭を楽しむために建てられた建物で、これらの建物を何百年も残したいという要求はなかった。そのためヒノキ材はほとんど使われていない。ヒノキは硬質で耐久性が強いが、御殿御殿した重苦しさがつきまとう。この点、杉はやわらかく風化しやすいが、なんともいえない軽みと無常の美しさがある。
竹の間には、300年を経た竹の唐紙をはった襖が日本最古の唐紙として残っている。日本最古の版画。

孔雀の間:襖に人の一生になぞらえた孔雀と松が描かれている。
滝の間の板戸の引き手は、瓢箪や扇形の意匠が施されている。これらは桂離宮の影響を受けているといわれる。
小書院入り口の梟の手水鉢は、下の台石は亀、傍らの石は鶴をかたどっている。中秋の名月のころ月の光をここに反射させ、部屋の天井に第二の月を宿らすという趣向があった。フクロウは夜目が利くので、「暗闇の迷いの世界でも衆生を導いてくれる」という意味がある。
小書院の縁の欄干は、屋形舟を思わせるようにかたどられている。煩悩の多い世界から舟にのり悟りの彼岸に向かって、枯山水の庭を航海して渡るという趣きを表している。天井も船底のような意匠。
廊下部分の屋根が延びて縁を覆い、室内の屋根が別で、二重屋根。日のさす角度が考えられている。
違棚は、約十種の寄木で造られた曼殊院棚。曼殊院棚を分析してみると、複雑な黄金分割によって各部が決定されていることがわかる。
富士の間の欄間の表菊と裏菊の使い分けが見事。欄間下の釘隠しは富士山にかたどられている。そのひとつひとつが、富士にかかる雲の位置が微妙に異なっている。
富士の間に掲げられた「閑静亭」の額は、松花堂昭乗の筆による。

黄昏の間から返り見すれば、右手に梟の手水鉢がある。床の間を背負い大窓を額縁に見立てて庭を見るのが、小書院の楽しみ方らしい。
小書院の造形:手前の富士の間、黄昏の間、上段の間と奥へ並んでいるが、それぞれの奥行き方向の柱と柱の間の長さを調べると、2間、1.5間、1間と等差数列の規則によって徐々に減ぜられていることに気づく。その結果、遠近法を感じることができる。しかも一番奥の上段の間が一段高くなっている上、斜め隅に片寄っているため、ここに座る法親王をアイポイントとすると先細りとなり、遠近法をさらに強調する仕組みになっていることがわかる。さらに、小書院の縁側の手すりの高さを見ると、小書院の遠近法に合わせて徐々に低くなっており、遠近法を強調する仕掛けが施されているのに気づく。
小書院の造形:壁には、イカ墨が塗ってあり、独特の暗さがある。イカ墨は壁の防腐にも役立っている。これは庭の楓の緑や赤を、より美しく楽しむための仕掛け。
菊の欄間は、庭の白砂の反射光により、天井に花模様を映し出す。
宿直の間:護衛の者の部屋。法親王に何かあったときはここで切腹するという。床の間に対して、竿縁(さおぶち)天井が直角に交わるのは、切腹のイメージがあり「切腹の間」を表すという。床の間には国宝・絹本著色(けんぽんちゃくしょく)不動明王像(黄不動)の模写。

三嶋亭(みしまてい)
店名は、創業者の名前「三嶋てい」から。
明治時代の面影を残すガス燈。昔より商いを営むお店の目印として、また看板として、行灯(ガス燈)が用いた。
店頭の高所にある筆書きは、京都府第2代知事・槙村正直の書。
最後の晩餐に何を食べたいかと京都人に尋ねると、三嶋亭と答える人が必ず1人はいる。
店頭でもお肉が販売されているが、庶民には手が出ない値段である。

 

南座(みなみざ)
日本最古の劇場
建物の西側に歌舞伎発祥の地の碑が立っている。
もともと「かぶく(傾く)」とは「自由気ままにする」という意味で、「かぶき者」とはそういう人々を指した言葉だった。
師走の風物詩と言えば、『顔見世』興行。南座正面には、歌舞伎役者の名札「まねき」が掲げられ、勘亭流という書体で、隙間のない太い文字で興行の満員大入りを願い、文字の撥ね(はね)を全て内向きに撥ねてお客さんが会場に入ることを願っている。
まねきは、ヒノキの一枚板で、長さ1.8メートル。翌年はまた表面を削り、出演役者の名を書き改めて、5年間は同じ板を使う。
墨にはお祝いの意味合いと、文字に照りを出すために清酒を混ぜる。
徳川幕府公認の印として七つの芝居小屋に櫓を掲げることを認めた。今も南座の大屋根に往時の面影を残す櫓が上がる。

レストラン菊水:南座の向かいにある。中央高塔部分の二連窓が、内部の階段に沿って上下にずれているのはヘタウマか?

 

壬生寺(みぶでら)
昔は湿地帯だった。水生(みぶ)が壬生になった。
京野菜の壬生菜もこの地でさかんに栽培された。

 

三宅安兵衛(みやけやすべえ)

三宅安兵衛依遺志碑:大正末年から昭和初年にかけて、西陣帯地卸商、三宅清治郎が建設した石碑群の呼称。この事業は父安兵衛の遺命にもとづいて行われ、ほとんどの石碑の裏面に「京都三宅安兵衛依遺志建之」(京都三宅安兵衛の遺志により、これを建つ)といった記載がある。
今の価値に換算して、約1億円投入したことになる。そのすべてを自ら支払った清治郎が石碑に刻んだ名前、それは自分ではなく父・安兵衛の名前だった。石碑に残された文字には、親子の強い絆がしっかりと刻まれている。
詩仙堂、祗王寺、三十三間堂、厭離庵、落柿舎、大覚寺、法輪寺、西行庵の前など。京都府内に400以上ある。
南禅寺金地院:第2号。南禅寺金地院の東照宮前に建てられている。当院は三宅安兵衛の墓所なので、建立者清治郎にとって特に思い入れがある寺の1つである。

 

妙心寺(みょうしんじ)
京童からは、算盤面と揶揄された。塔頭、末寺を含めると、臨済宗でも一番の大所帯であったため、まとめるためには経営的手法が必要であった。ちなみに、臨済宗の中では、唯一学校法人を経営している。中学から大学院まである。

妙心寺法堂、屋根の4隅の鬼瓦の特徴。①北東=五芒星、②南西=六芒星、③北西=小槌、④南東=龍瓦
勅使門は新住職を迎えるときのみ開かれる。

開山堂唐門には、南北朝の内乱の矢じりの跡が残っている。
明智風呂:明智光秀は、本能寺で織田信長を討った直後に妙心寺に逃げ込み、切腹しようとしたが僧侶にたしなめられて思いとどまったという。寺を出るときにお礼に残した金で風呂が造られたといわれる。
当時の風呂は、サウナ風呂で、約20分ほど座禅で入っていた。
鐘は昭和48年まではゆく年くる年に使われていた。鐘銘があるものとしては日本最古の鐘。ドレミでいうとラの音に近い。十字の撞座の位置が高ければ高いほど古いもの。

 

四派の松(しはのまつ):三門と仏殿の間に、竹垣に囲まれた4本の松が植えられている。妙心寺は4つの派があるが、その派を4本の松で表している

 

 

庫裏の裏から北総門まで続く石畳の道は、左右に塔頭寺院が並び、門の向こうに衣笠山がみえる妙心寺の隠れた絶景。

退蔵院:『飄鮎図』で有名。境内のいたるところにナマズモチーフがある。『飄鮎図』のテーマは「瓢箪で鮎を取り押さえることができるか」。それに対する多くの禅僧の回答が絵の上部に制作経緯とともに書かれている。回答例として、「瓢箪に油を塗ってさらにツルツルにしてみてはどうだろう」「砂利ごとすくってみよう」など。境内には瓦や石燈籠などさまざまな場所でナマズの彫刻を見ることができる。図を見た宮本武蔵が、刀剣の鍔に「ひょうたんと鯰」を描いた話は有名。
:名のいわれは、「退」は退くのではなく、「人に知られないように良い行いをする」という「陰徳」の意味で、「陰徳を蔵のように内に秘めながらたくさん積み重ねられるように修行する寺」を現している。
:元信の庭の他に、余香苑という庭園が。足立美術館の作庭でも知られる中根金作による。一番奥にはひょうたん型の池があり本物のなまずが住んでいるが、夜行性の拝観者がみることはできない。
:玄関は袴腰造りと呼ばれるもので、破風の曲線が直線になっている。
:庭の石組みは圧迫感がなく、すべて低い位置に作られている。ここは、建物の中から座って眺める庭。枯滝石組も座ったときの視点に合わせてあるので、低い位置に作られている。ここで使われている石は平たく、横長のものが多い。これは見る人の視線が横に動くように考えた視覚の工夫。狭い空間をワイドに見せる効果を石が担っている。

・山門は、親柱2本、控え柱2本からなる高貴な薬医門。



大法院:幕末の思想家・佐久間象山のお墓がある。
玉鳳院2つあるうちの東側にある門は、応仁の乱のときにできた矢の跡がある。将来的には国宝になるといわれている。西側にある門とは唐破風の向きが異なる。堂内はススで真っ黒。24時間お香や蝋燭を絶やさないため。

大徳寺と茶の湯はとても縁が深いので、どの塔頭にも茶室があり、名跡といわれるものも多い。しかし妙心寺では禅の修行の妨げになるということから、茶の湯が厳しく禁止された時代もあった。桂春院の茶室は例外とされたが、それでも一見して茶室とわからないように工夫がされていて茶室へ続く路地も、目立たないように作られている。

 

妙法院門跡(みょうほういんもんぜき)

庫裡:国宝。国宝の庫裏は、二棟のみ。もう一棟は、松島の瑞厳寺。内部は天井が吹き抜けの状態になっており、豪快な骨法をみることができる。板の間は黒い光沢を放っている。屋根の反り具合もみもの。
庫裡の中央に掲げられている円い額には、「得此生」(此の生を得るために)と書かれており、庫裏だけに鍋蓋で作られている。

特別拝観時を除けば拝観はできないが、外部から庫裏の内部をみることができるので、豪快な吹き抜けは見ておいたほうが良い。

七卿落ち:1863年長州藩及び尊攘派を京都から一掃する政変劇が起きた。会津・薩摩連合軍に抑えられた長州藩士と一部の公卿は、妙法院に集まり、一戦を交えるべきか話し合った。しかし、翌日早暁に、雨が降る中を三条実美ら7人の公卿は、長州へと落ちていった。
西国に下る直前、長州藩士久坂玄瑞は塀にもたれ、「いつしかくらき雲霧を、はらひつくして」と起死回生を念じたという。
七卿西竄紀念碑(しちきょうせいざんきねんひ):「竄」は、逃げ隠れる、追放されるという意味。改竄。

 

無鄰庵(むりんあん)
山県有朋が建てた別荘。結婚式場で有名な東京の椿山荘も。
日露開戦を決めた無鄰庵会議が開かれた。元老山県有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎
名は、有朋が長州(山口県)に建てた草庵が隣家のない閑静な場所であったことから名づけられた。
1本1草1石に至るまで山縣がデザインした。モミの木は山縣が苗木から植えるように支持した記録が残るが、日本庭園で苗木から植えるのは明治以前も今もありえない手法。長州藩では萩往還沿いで幕末期にモミの木の植林が盛んに行われており、行き来した山縣がこれを実際に見た可能性が高い。そこでモミの苗木の植栽という発想を得たとも考えられる。屋敷に故郷の山河を再現することで、安らぎを得ようとしたかもしれない。

庭園は明治時代のもので、従来の宗教・仏教や和歌の影響を受けた定型的な庭ではなく、自然そのものをそのまま取り入れるよう作庭された。
苔ではなく芝生、池だけでなく川。東山の借景、ゆったり流れる小川、醍醐寺三宝院の滝を模した三段の滝。明治を代表する名庭園で小川植治出世作のといえる。

開園してから月日が経過したことにより、木々が高くなって借景を楽しめなくなってしまったので、「東山」がみえるように、木々が伐採された。
庭園は橋はなく、沢とびと呼ばれる石を渡る。川を渡る人がそっと足を止めるように、わざと水面からすれすれになるよう、配置されている。瀬音も楽しみたい。

飛び石に、臼石が使われているところがある。臼石が打たれていることにより、渡る人は「オヤッ、何だろうか」と足を止める。それは同時に流れを真上から見ることであり、水への親しみが一層強いものとなる。
建物を出たところすぎに、丸い石がある。この場所から見る庭が一番よい。その前の石数個をわざとずらし歩きにくいようにして、視線を下に向けさせるような仕組み。

北の一角に、醍醐山中から牛24頭で引かれてきた圧倒的な存在感がある大石がある。
庭には、山縣有朋が自ら醍醐の山で見つけたお気に入りの石が三つ、庭園の北側の端、池の端、茶室のすぐ横に据えられている。これらは豊臣秀吉が大坂城を作るときに切り出した石切場に残されていた石。このうち二つの石には、秀吉の頃の石工が石を割ろうとしてつけた「矢穴」と呼ばれる跡が残っている。

水を琵琶湖疏水から引いていることに、庭園の近代たる所以がある。京都の近代化事業のひとつである琵琶湖疎水が完成したのが、明治23年。天皇を迎えて竣工式を行ったときの総理大臣が山県であったことは、決して偶然ではない。個人の庭園に疎水の水を引くという手法は、山県の構想と共にこの無鄰庵から始まる。
水音は場所により異なるので、ぜひ耳を澄まして聞いてみたい。
庭を造るにあたって「暗い庭は性にあわん。とにかくパッとした明るい庭を造ってくれ」と七代目小川治兵衛に指示をした。苔の代わりに芝生が植えられたことも画期的。

三段の水落石を流れる水の姿が美しい。明治時代の作庭家・植治が醍醐寺三宝院庭園の滝石組を模して築いたもの。

入り口近くには京都最恐のいけず石が。

2006年・日本庭園ランキング4位
1位 足立美術館(島根県)
2位 桂離宮
3位 山本亭(東京都)
4位 無鄰菴
5位 栗林公園(香川県)
6位 清流園(二条城) 庭園 京都府
7位 摩訶耶寺(静岡県)
8位 二の丸庭園(二条城)