伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)

全国で約3万ある稲荷神社の総本社。
2007年の初詣者数全国4位。
正式名称は、伏見稲荷大社だが、だれもみな「お稲荷さん」としかいわない。

 

外国人に人気の日本の観光スポット第2位。1位広島平和資料記念館、3位東大寺、厳島神社、金閣寺、清水寺、地獄谷野猿公苑、新宿御苑、成田山新勝寺、築地場外市場。

 

2014年度にナンバーワンになった。理由はインスタ映えスポットのため。2017年には周辺は基準地価の商業地上昇率においてナンバーワンになった。
 

外国人と日本人では、記念写真を撮る角度が異なる。日本人は鳥居に書いてある文字が写らないように撮る。外国人は漢字が写るように撮る。漢字がクールらしい。人気のあるのは「株」という字。

伊勢屋稲荷に犬の糞:どこにでもあるありふれたもののたとえ。徳川家康が江戸幕府を設けると、伊勢の国(今の三重県)出身の商人が陸続と移住してきて、それぞれ伊勢屋ののれんをかかげ、商売の神である稲荷を祭り、新開地で物騒だから犬を飼うので、道端に犬の糞も多かった。当時の情景をイ音でいった語呂合わせのことば。

◆1990年代後半、神社の周辺で何度もぼやが起こってニュースになった。その犯人はカラスだった。ろうそくや石けんに含まれている油分を食べることのあるカラスは、神社にそえられたロウソクも取ることもある。まだ火のついたままのロウソク持ち去って、枯れ草などの中に隠したことが原因だった。カラスは余った食べ物や余分に得た食べ物を「貯食」する習性がある。

多くの鳥居があるのは、願い事が「通る」或いは「通った」御礼の意味から、鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がった結果。現在は約5000基の鳥居がお山の参道全体に並んで立っている。 正確には千本鳥居ではなく、五千基鳥居。
鳥居は、順番待ちではあるが、個人で奉納できる。奉納できるのは木造。15年程度で朽ちてくるので、朽ちて古くなった鳥居は撤去され(捨てるのではなくお焚き上げで燃やされる)、新しく寄進された鳥居がその場所に補われるようになっている。寄進料は、20万円程度。場所と大きさによって値段に差があり、大きくかつ稲荷山の上方になるほど高く、百数十万円まで。
小型の鳥居も販売されている。用途は立小便除けのおまじない。
外拝殿の吊り灯篭の図柄は、黄道の十二星座、十二宮を模した。
おみくじは細かく分類されており、全部で15種類近くあるらしい。「大大吉」「凶後吉」

稲荷といえば、狛犬の変わりにキツネがあるように、キツネと関連がある。稲は春先に種をまき、秋に収穫する。狐は春先に子供を産み、秋に子供が親離れする。稲に関連のある季節に頻繁に狐を見かけたことから、稲の神の使いと信じられるようになった。
稲の穂と狐の尾が似ているからという説も。
また農家では、狐は狩場や収穫時期を教えてくれる神聖な生き物として崇められていた。
境内にあるキツネ像は、稲荷神を守護する眷属(けんぞく)といわれ、口にくわえた玉は稲荷神の霊徳の象徴といわれ、カギは農業と関係のある食糧倉庫の鍵であるとするなど、諸説がある。江戸時代の両国の花火屋は、稲荷神を厚く信仰しており、狐が鍵をくわえていることから屋号を鍵屋とし、他の花火屋は狐が玉をくわえたいたことから屋号を玉屋としたと伝えられ、以来花火大会では「玉屋~、鍵屋~」の掛け声がかけられるようになった。
口にくわえた黄色の稲穂は、外国人からみるとバナナに見えるらしい。
油揚げというとキツネも好きとなっているが、これは神様の使いとされたキツネ様に大好物のネズミなどを捧げていたモノの簡易版として、形の似ている油揚げを捧げた事がキッカケ。キツネは別に油揚げを好きではない。
お山めぐりの途中、熊鷹社そばの新池は「こだまが池」と呼ばれ、池に向かって手を打ち、こだまがかえってきた方向に探している人の手がかりがあるという言い伝えが。
稲荷山233メートルの山頂は上社。(船岡山112 + 吉田山121 =233 偶然とは思えない)
お山めぐり 7つの神蹟
御膳谷:毎日朝夕に神様に食事を供するところ。
 傘杉社:参拝者に富裕を授けるといわれている杉が目印。手水には鯉のモチーフが。
 薬力社:病気に関する神様が多い。健康ゾーンといわれる。薬力亭:九つの矢(やく・厄)を払うお相撲さんがトレードマーク。役者名の暖簾。
長者社:別名は御剣社。刀の手水。
一ノ峰:末広大神。何事も末広く。稲荷山の頂上。標高233メートル。
二ノ峰:台座の石は富士山の溶岩。獅子は鞠。狛犬は子犬を。
三ノ峰:白菊大神はお稽古事の神様。
間ノ宮荷田社:にわとりの像。ぬね鳥居。
荒神峰:
ねあがりの松:松の形が膝に似ていることから。「ひざ松さま」と言われている。くぐりぬけるとご利益あり。

伏見神宝神社:竹取物語ゆかりの地。竹でできた鳥居がある。隼人の盾と呼ばれるお守りが人気。

参道の名物はスズメ焼き。なぜスズメの焼き鳥があるかというと、伏見大社の御神功に五穀豊穣があり、稲を荒らすスズメを退治する意味から。
串にささった焼き鳥は、庶民の食文化の中から発生した。現代のやきとりのルーツとも言えるこのスタイルのひとつが、伏見稲荷の焼き鳥である。客は立ったまま、歩きながら食べることになるので、必然的に、串にささっていて食べやすいこのスタイルが普及していった。
祢ざめ家:裏参道にあり、スズメ焼きが食べられる。店名は、豊臣秀吉が伏見稲荷神社に早朝に詣でたとき、開いていた茶店がここだけで、立ち寄った礼に北政所の名前の一部を賜って祢ざめ(寝覚め)家と名乗るのを許されたことによる。今でも毎月1日は朝4時開店。
門前にある都麗美庵(とれびあん)は、美味しいアンパンで有名。
いなり寿司が俵型ではなく三角形なのは、狐の耳を表現しているから。

商売繁盛の神様だが、昔は「農業の神様」として信仰を集めた。「稲荷山の土を持って帰り、自分の田畑に施せば五穀豊穣になる」という『稲荷の土地に対する霊力信仰』があり、参拝者は土を持ち帰る習わしがあった。しかし、それはあまりに大変なので、時代と共に稲荷山の土で作った土人形を手土産として買って帰り、家に祀るようになった。「饅頭食い」が有名。
西国の大名は、参勤交代時に諸藩の朝廷への接触を避けるため、京都を避け、伏見山科大津へ抜けるコースをたどった。その際に大名によって求められ、全国に運ばれた。
西村和彦:実家は伏見稲荷大社の境内(稲荷山山腹)にあり、現在も両親と兄が経営する四ツ辻茶屋『仁志むら亭』である。高校まで山の上から通学していた。

東丸神社:江戸時代の国学者、荷田春満がご祭神。春満公には多くの著作があったが、研究途上にあるものを残せばかえって災いを招くといい、臨終に際し手近なものは焼かせたといわれる。赤穂浪士の討ち入りの際には、側面から支援したといわれる。

二ノ峰と三ノ峰の間の荷田社(かだしゃ)には、石造の奴彌鳥居(ぬねとりい)がある。日本に2つしかない。もうひとつは、錦天満宮の摂社の日ノ出稲荷神社。

 

平安神宮(へいあんじんぐう)
そうだ京都行こう『「あぁ、わたしは春を、一年間待っていたんだなぁ」と気づいた瞬間でした』2004春

明治28(1895)年に平安遷都1100年目を記念してつくられた勧業博覧会のパビリオン。本来は前年の1894年に行われる予定であったが、日清戦争が勃発したため、戦勝に勝利した翌年に変更された。
桓武天皇と明治天皇を祭神とし、京都市民の氏神とした。
京都市民にとっては、神社というよりも公共施設に近い。京都最大の結婚式場のため。
時代祭が10月22日に開催されるのは、桓武天皇が平安京に入った日と伝えられている。陰陽道でいう革命の日で、古代中国の思想に基づいて遷都を敢行した。
◆2007年の時代祭から、室町時代列が参加できるようになった。足利尊氏は逆賊とされていた。未だに参加を許されていないのは、京都守護職の会津藩と新撰組。いわゆる幕府方の逆賊なので。京の街で暴れまくった新撰組は京都の人からは、実は迷惑な記憶が強かったよう。
開運厄除け桃守:古代より厄を祓うとされる桃がモチーフ。桃の字の「兆」の部分から、「兆しをもつ木」として気運を高めるともいわれる。桃の種の数珠。桃源郷。鬼(門)を退治する桃太郎。
桜の時期限定の「桜みくじ」がある。つぼみ、つぼみふくらむ、咲き初め、三分咲き、五分咲き、八分咲き、満開の七段階で運勢が占える。桜色のおみくじを木に結ぶと、まるで桜が咲いているようにみえる。

鳥居は日本最大級だが、人が通ることを前提にしていない。潜り抜けるには車道を通らなければならない。昭和3年、昭和天皇の即位の記念事業として造営された。高さは日本で7位。

応天門:「弘法も筆の誤り」のことわざ。弘法大師は門に掲げる額を書いたが「応」の点を忘れてしまった。そこで筆を投げて1画目の点を入れた。
応天門:歴史上名高い放火疑惑事件応天門の変でも有名。実在した門の8分の5サイズ。
応天門の変:応天門が放火され、大納言伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言で無罪となった。その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による他氏排斥事件のひとつ。
大伴氏は、淳和天皇(大伴親王)と同じ氏では恐れ多いということで、伴(とも)と氏を改めた。大内裏にある門の名前はそれぞれの門を管理する豪族や貴族の名前が付けられていて、その門を氏を象徴する「氏の門」として信仰的に考えていた。応天門はもともとは「大伴門」と言って「大伴門」「応天門」となった。つまり「応天門」は「大伴氏(伴氏)が守っていた門」で、その大事な門を大伴氏(伴氏)が放火することは考えにくい。
大極殿 (だいごくでん)の前庭に、高低差 1m ( 階段 4段 ) の 段差 がある。平安神宮 は、平安京の朝堂院を忠実に再現した建築 となっており、前庭の段差の上は 「龍尾壇」(りゅうびだん)と呼ばれている。平安時代、この龍尾壇に上がって大極殿に近づくことを許された のは、殿上人と呼ばれる、位階の高い一部の貴族のみだった。
大黒柱:朝堂院の正殿である大極殿(だいこくでん)の柱を「大極殿柱」ということから、「大極柱」になったとする説がある。
他説では、昔の日本の家屋では地震対策のため、台所の近くに太い柱を配置していた。台所の神様が「大黒天」であったことから、家を支える柱=大黒柱となった。
碧瓦は、かつては国家の重要な建造物のみに許された。
境内に敷き詰められた白砂は何を表現しているかというと、色の対比で、赤、青、碧などの建物の色を引き立てるためであったり、清めの砂ともいえる。

神苑入口すぐの紅枝垂桜の開花時の絢爛豪華さは、谷崎潤一郎「細雪」や川端康成「古都」にも描写されて有名。
チンチン電車:平安神宮の創建と同じ明治28年、平安遷都1100年を記念して京都市内に敷設された、日本で初めての電車。時速9.4キロで、事故防止のため露払いの少年がその前を通ったというエピソードがほほえましい。市電の一部は現在広島で利用されている。
神苑の「臥龍橋」という飛び石の橋は、かつての三条、五条大橋の橋脚を利用したもの。これは、この飛び石の橋を渡る人には「龍の背にのって池に映る空の雲間を舞うかのような気分を味わっていただく」ことを意図して設けられた。よく落ちる人がいるが、神宮の方で着替えが用意できているらしい。
この臥龍橋に使われている円柱形の飛び石は、天正年間(157392年)に豊臣秀吉が造営した三条大橋と五条大橋の橋脚が用いられている。
神苑は、西中東へと辿るが、最初は樹木が生い茂り、暗く鬱蒼としている。そして、少しずつ明るく、広々としていき、最後に広大な東神苑が待ち受けている。「陰」「陽」へという仕掛け。

参道と境内の中の庭園には、松が植えられている。参道の方は雄の松で、庭の松は雌で、子孫繁栄を表現している。松ぼっくりがつくのは雌。

氷川丸の船名は、大宮氷川神社に由来する。ブリッジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され、保存船となった後も氷川神社を祀っている。姉妹船には2隻(日枝丸、平安丸)があり、「日枝丸」は東京千代田区日枝神社を、「平安丸」は平安神宮を祀った。なお本級3隻は頭文字『H』で統一されている。


 

宝鏡寺(ほうきょうじ)
人形寺
境内の傍らに流れる小川は、応仁の乱で東西陣営の境になったものといわれている。
尼僧が寄進した観音像が、伊勢二見浦で漁網にかかって発見されたとき手に宝鏡を持っていたという話が寺名の由来。
人形塚:「人形よ誰がつくりしか誰に愛されしか知らねども愛された事実こそ汝が成仏の誠なれ」武者小路実篤
庭の手前には四角の石が据えてある。これは「お輿寄の石」と呼ばれるもので、姫君を乗せたお輿を置く場所。お姫様を歩かなくても良いように配慮されたもの。
人庭の左隅の木陰にある「御物見」と呼ばれる小さな建物は、自由に外出できない姫君が、お祭りの神輿が通るときなどに、ここから覗いて一緒に楽しんだもの。お姫様も庶民の生活に興味があって、そっと中から眺めていた。

 

方広寺(ほうこうじ)

豊臣家の氏寺として建立された。
「方広」という寺号は、大方広仏華厳経という経典のタイトルから取られており、「大いに広く発展した、大乗仏教及び経典」という意味がある。秀吉は、大仏を中心とした仏教界の統合あるいは統制という役目を大仏に持たせた。
大仏殿建立のために、釘やかすがいを要するという口実で刀狩が行われた。
大仏は、「地震、雷、火事」という怖いもの三条件によって崩壊してしまった。
壊れた大仏は江戸に送られ、銅銭として寛永通宝というお金に変えられてしまった。この銅銭は物を計る単位としての役割も果たした。足袋や靴の文数は、この銅銭の一文の直径の長さを表している。
大仏は現存しないが、大仏前郵便局、大仏前交番という名が残る。正面通の名は、大仏の正面という意味。

「国家安康君臣豊楽」という鐘の銘に、金地院崇伝が「家康の2字を二つに離し、豊臣の2字を続けてあるのは、徳川家に対する謀反心からだ」と言いがかりをつけ、それを口実に大坂の陣勃発の直接原因となった。文字がチョークで目印されているので、柵の外からでも見える。
鐘の文字は、12000字ある。その中から探す執念が恐ろしい。
鐘の文字が消されるでもなく、未だに残っているということは、豊臣家を滅ぼすための言いがかりのために利用されたことを物語っている。
鐘の内側には、白い雲状の染みがあり、あたかも人の立ち姿に見える。これは淀君の怨みが幽霊となって浮かび上がったものといわれている。
寺の南には、後白河法皇と平清盛にゆかりの蓮華王院(三十三間堂)があり、北の六波羅には鎌倉幕府の六波羅探題があった。王者と覇者の歴史の積み重なりを思い出させる。
銘文の起草者は、南禅寺の僧だった。当時の南禅寺の住持は金地院崇伝であることからも、はじめから仕組まれた政治的策略くさい。
鐘楼の中にある鉄の輪は、大仏殿の柱。

石垣:国指定史跡。当初は石垣上に築地塀が廻らされていた。
石は、各大名の普請であるが、都の人夫の賃金が高くて各大名は泣いたという。特に一番大きい西北端の石垣は前田家の普請と云われ、「泣き石」と呼ばれ白い涙の跡がある。
大黒天堂の大黒天像は、桓武天皇の勅命により、最澄が彫刻した。

耳塚:文禄・慶長の役の朝鮮、明兵の戦死者の耳、鼻を弔った塚。当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、低いものは鼻(耳)でその数を証した。「取」という漢字は、耳と又を組み合わせた形で、又は手の形を表す。戦場で殺した敵兵の左耳を討ち取った証拠として手で切り取ることを「取」という。

周囲の石柵は大正4に正面は、歌舞伎役者 片岡仁左衛門他、左側は、浪曲師 桃中軒雲右衛門他、 俳優 川上音二郎他、右側は、義太夫 豊竹古靭太夫他、をはじめとする当時の著名芸人達の寄付によって建立された物で、発起人は京都の侠客「伏見の勇山」小畑岩次郎。周囲の石柵は大正4に正面は、歌舞伎役者 片岡仁左衛門他、左側は、浪曲師 桃中軒雲右衛門他、 俳優 川上音二郎他、右側は、義太夫 豊竹古靭太夫他、をはじめとする当時の著名芸人達の寄付によって建立された物で、発起人は京都の侠客「伏見の勇山」小畑岩次郎。

「勇山事小畑岩次郎」銘は観智院の南にもある。

・秀吉が方広寺の門前に耳塚を築かせたのは、参詣者に巨大な耳塚を見せつけ、朝鮮出兵の戦果誇示を図る狙いがあったのではないかとしている
 

豊国神社(とよくにじんじゃ)
唐門:上部に見られる鶴(コウノトリ?)の彫刻は飛び立たないように目を入れてないといわれる。登龍門の彫刻も。伏見城から移築したとも。一部に金箔の跡が残っている。鯉の彫刻は阿吽。
瓢箪は秀吉の馬印で、戦に勝つたびに小さな瓢箪を一つずつ足していき千個に達したという「千なり瓢箪」。
信長の草履を温めたのがきっかけで出世したというエピソードにちなんだ草履形のお守りもある。
豊臣氏が滅亡した後は、徳川幕府の命により廃祀。復興されたのは、明治時代に入ってから。明治天皇が「天下を統一しながら幕府を開かなかったのは尊皇の功臣である」と秀吉をたたえ、神社再興を命じた。
豊臣秀吉没後の七回忌にあたり、盛大に催された祭礼の模様を描く「豊国祭礼図」には、足場を組んで石垣の上に桟敷をつくり、上層階級が、門前で舞う豊国踊りの群集を見物する様子が描かれている。石垣は、観覧席の基礎になり、今の大和大路は群舞の舞台になった。今も観客席と広場という舞台設定を想像することができる。なぜ七回忌にお祭りが行われたかというと、秀吉が神様であるため。
「豊国祭礼図」をよく見てみると、「たけのこの衣装に身を包むコスプレ男」「ジャグラー」「腕相撲に興じる男」「酔っ払っている男」などが描かれ面白い。

大正14年に開館した宝物館は、当時としては最新鋭の鉄筋コンクリート製。館内の展示ケースのガラスは貴重な「大正硝子」。
宝物館に展示されていた秀吉の歯は、某鑑定番組で7000万円の価値が認められた。
馬塚:宝物館の裏手にある五輪塔。阿弥陀ケ峯の旧豊国社が徳川氏により取り壊され、その参道を塞がれた後、秀吉公を慕う人々が代拝所として同峯から移霊したものだが、時の徳川氏の権勢を恐れて、

腕白:江戸時代に晩年の豊臣秀吉の独裁者ぶりに例えて、わがままで威張っている人を「関白」と呼ぶようになり(亭主関白など)、そこから訛って「わんぱく」となり腕白の字を当てた。

かつて境内にあった陶製の秀吉像が24年ぶりに復活。1995年の阪神大震災で台座が壊れて以来、長く蔵の中で保管されてきたが、5月1日の新天皇即位に合わせる形で境内で再び公開されることになった。

かつ参道に敷かれている石材は、方広寺大仏殿の基壇上に敷かれていた床石材を転用したもの。

 

法金剛院

「長からむ 心もしらず 黒髪の みだれてけさは 物をこそ思へ」

(昨夜契りを結んだ)あなたは、末永く心変わりはしないとおっしゃっいましたが、どこまでが本心か心をはかりかねて、お別れした今朝はこの黒髪のように心乱れて、いろいろ物思いにふけってしまうのです。

 

放生院(ほうじょういん)

通称、橋寺。
宇治橋断碑:断碑とは切断している石碑の意味。
日本三古碑:多胡碑、多賀城碑
大化2年(646年)僧道登によって初めて宇治橋が架けられたいきさつを、格調高い六朝風名文で刻まれた石碑。江戸時代に寺の境内から上部3分の1が発見された。残りの3分の2は発見されなかったが、後に補充した。
断碑の文字は中国・六朝時代(3~6世紀)の書体。これが日本に伝わった7世紀前半に書かれた可能性が高い。

 

宝泉院(ほうせんいん)
そうだ京都行こう『この国もますますグローバル化するようですね。あちこちがデジタル化なんだそうですね。21世紀がもうすぐだそうですね。京都は「関係ない」って言っているようでした』1999夏
額縁庭園で人気がでてきている。
庭名を「盤桓園(ばんかんえん)」。盤桓とは、立ち去りがたいという意味。
出されるお菓子の名前は、「ひととき」。

◆額縁には「和顔愛語」

 

法然院(ほうねんいん)
そうだ京都行こう『会議室でエンエン議論、データとにらめっこの効率計算。どうですか?いいアイデアでましたか。その辺をプラッとして、「紅葉」なんか試してみませんか』1999秋
そうだ京都行こう『生まれたばかりの季節の匂いがしました。「人と緑のいい関係」が、ここにはありました』2009初夏

通常非公開だが、毎年4月1日~7日、11月1日~7日の年2回、伽藍内部の一般公開を行っている。できれば法話の時間と合わせて拝観したい。
山門前に「不許葷辛酒肉入山門」の字がある。「葷」はニオウで、「辛」はカライで、そういう酒や肉を口にして入ることは許さないという意味。
この石碑は、「しらふの石碑」「愛想のない石碑」と呼ばれた。その心は、建前とは裏腹にお寺にはよく葷酒が出入りしていることに対する皮肉が込められている。
参道の両脇には文様が描かれた砂盛があり、砂盛の文様は水の流れを表し、その間を通って心身を清めて境内に入ることになる。

本堂の本尊前には、極楽往生の阿弥陀仏に付き従ってくる二十五菩薩を象徴して、毎朝25輪の生花が並べられる。床が花の水分を吸って、はげている。春は桜、梅雨時期は水の波紋、秋はカエデ、信念には寿の文字が描かれることも。
「一に掃除、二に勤行、三に学問」という伝統があり、境内の隅々まで掃除が行き届いている。
山門手前、山側に文人や学者のお墓があり、谷崎潤一郎もここに眠っている。
谷崎は自分の墓に、「寂」と「空」の字を彫らせた。 「足首型」の自然石は、自身が足フェチであり、美しい女性の足に踏まれて墓の下に眠りたいという老人のマゾヒズムを想像して墓を見ると、なかなか興味深い。「瘋癲老人日記」 河上肇「貧乏物語」

 

先斗町(ぽんとちょう)

名の由来は、諸説があるが、ポントとはポルトガル語の「先」「尖端」という意味があり、そこに由来しているといわれる。南蛮寺があった影響があるかも。「先き斗り(さきばかり)」からきているとも。鴨川と高瀬川(革と革)に挟まれており、堤(鼓)を連想させることからとも。瑞泉寺に秀次一族が埋葬されているのを「首=先ばかり」と批判強調したものとも。」

先斗町歌舞練場の蘭陵王の仮面には、鼓が置かれている。

路地の第14番の抜け道は、ウスの路地と呼ばれている。隠れ耶蘇が幕府の目から遁れるため、デウス神のデを略して「ウス」の路地としたとも。

2021年に電柱が地中化された。全長490メートルを6年かけて整備し、総事業費は12億円超。通常1キロを無電柱化するには、7~9億円かかる。

先斗町には、御茶屋さんと料理屋さんが混在している。両者を区別するのは軒先の提灯で、赤提灯は料理屋、白提灯はお茶屋さんとのこと。

 

本能寺(ほんのうじ)
本能寺の変で有名。現在の場所は当時とは異なる。豊臣秀吉の都市計画によって移転した。
創建以来何度も火災にあっているので、それを嫌って正式寺名は右の作りが「ヒ」ではなく「去」。「ヒを重ねる」から、「ヒが去」と変えている。
境内にある信長の墓には、信長愛用の太刀が収められている。
法華宗(日蓮宗)は、種子島まで布教しており、そのため種子島に伝来した鉄砲や火薬の入手について戦国大名との関係が深かった様子が、本山である本能寺文書からうかがうことができる。
「広辞苑」の編者新村出(しんむらいずる)博士の墓がある。
信長が茶道を取り入れた理由の一つに、アルコールアレルギー、下戸だったことがある。

 

本法寺(ほんぽうじ)

桃山時代の芸術家・本阿弥光悦の菩提寺。
本堂に掲げてある扁額は、寛永の三筆である光悦の筆による。
巴の庭:半円を2個組み合わせた円形石は「日」を表している。十角形に縁取られた蓮池は「蓮」を表し、宗祖・日蓮を表している。
書院南側にある光悦作の手水鉢。よく見ると蓮の花弁模様が薄彫りしてあることがわかる。
十の庭(つなしのにわ):宝物館の前庭にある「十の庭」は、10の石を設えてあるためそう呼ばれているが、実際には石は9つしかない。残りの一つは見る者の心の中にあるという。
長谷川等伯筆の涅槃図の中央下部にはコリー犬が描かれている。堺の商人とも付き合いがあり、境の港で見た可能性が高い。
向かって一番左の木におでこを付けているのが、等伯自身であるといわれている。

◆庭園は枯れ炊きであるが、表面に白い筋のある石を水落石に用い、水の流れを表している。立石と伏石、斜めに立てた石を巧みに組み合わせ、華やかさと上品さを兼ね備えた、すばらしい石組み。