鱧(はも)

アゴが細長く、歯が非常に発達しているので、そこから「食む」あるいは「歯持ち」が転じてその名がついたとか、形状がヘビに似ているのでヘビの古称である「ハミ」から転化したものといわれる。ウワバミ
瀬戸内海で揚がった鱧は京都まで運ばれても鮮度が落ちない。とくに夏場、脂ののった魚を入手することが難しかった京都の人々は、生命力の強い鱧に目を付けた。
その生命力の理由は、ほとんどの魚がエラ呼吸だけなのに対し、鱧は皮膚呼吸もするから。鱗の代わりともいえるヌメリが秘密兵器。
祗園祭は鱧祭とも言われる。「梅雨の雨を飲んで美味しくなる」といわれる鱧は、祗園祭の時期に最も骨が柔らかくなり、脂がのる。
日本で水揚げされる鱧の70パーセントが京都で消費される。
調理時には、一寸(3センチ)の間に、24回包丁を入れることが理想とされる。

 

番組小学校(ばんぐみしょうがっこう)

町衆が造った日本最初の小学校。教育機関としての役割だけではなく、番組の自治機能の中心としての町組合所の役割だった。つまり教育と地域コミュニティセンターの機能を併せ持っていた。学校の中には役所、交番、消防署、保健所などの機能も併設され、望火楼(火の見櫓)が設置され、時報も告げられた。当事の望火楼が唯一現存し、京阪三条駅や三条大橋からその姿を見ることができる。

明治時代の番組小学校の特徴は美術に関する授業が多かったことです。
京都の地場産業には「西陣織」、「友禅染」、「清水焼」、「京蒔絵」などの伝統産業が多く、美術の素養のある人材が求められたのです。

 

東本願寺(ひがしほんがんじ)  西本願寺も参照
御影堂は、世界最大級の木造建築。一般信徒のための外陣だけでも、706畳ある。瓦の枚数は、17万枚を超える。
畳縁には、九条家の紋をベースとした東本願寺固有の「豆小紋」を使い、縁幅も普通より細い独特のもの。972枚敷かれ、藁だけで作られた伝統的な畳床が用いられ、通気性に優れ弾力の富み、正座時の足の痛みを軽減してくれる。
御影堂はの広縁は、年月に磨きこまれて黒光りしている。阿吽の鶴亀の燭台。
大虹梁(だいこうりょう):御影堂の左右の柱に架け渡された梁で、御影堂で使用されている木材の中で最大級。

御影堂門:門に敷居がないのが特徴で、すべての衆生が分け隔て無く浄土の教えに触れてほしいという願いが表現されている。

御影堂門:10本の柱の根巻きに全部で32体の獅子があしらわれている。うち一番左側の手前に、眠り獅子が1体いる。

第26代門主は、日本生まれのブラジル人。科学者。



何度も火事にあっているため、「火出し本願寺」といわれることもある。現在の建物は明治時代に再建された新しいものばかり。そのため世界文化遺産の選定からももれた。
かつては日光東照宮の分院もあったが消失した。
京都駅からまっすぐ北に道路が伸びているが、これは以前に市電が通っていたところで、東本願寺門前を迂回するような形になっている。これはお寺の前を市電が通らないように遠慮したためである。「真宗勢力、鉄をも曲げる」といわれた。
寺前の噴水は、武田五一によって建築されたもので、専用管で琵琶湖の水を引いている。疎水のある蹴上と、東本願寺の高低差50Mを利用し防火用水とした。渉成園にも流れている。まわりにある花壇は、御影堂の修復工事で 廃材となった瓦を再利用したもの。2008年に停水された。
親鸞上人は、門徒はみな同朋として平等でなければならないと、繰り返し説いた。やがて親鸞の教えに帰依する門徒たちは御同朋と呼ばれるようになる。境内に同朋会館があるのは、親鸞のこの精神を継承している。
お土産売り場には、「お東さんのお干菓子」なるものが売られている。お守りやお札は販売されていない。「お守りが問題を解決してくれるわけではない。お守りを持たないということは、善し悪しを超えて現実と向き合っていこうとする生き方の表れ」という教えに従っているため。

11月28日に行われる報恩講では、僧侶が身体を激しく揺すって念仏を唱和する坂東節がある。東本願寺独特の勤行で、越後に流された親鸞聖人が荒波に揺れる船中で念仏を唱えたという故事にちなむ。

渉成園
拝観料は500円ではなく、500円以上である。
園の名称は、中国六朝時代の詩人陶淵明の「園日渉而成趣」の詞にちなむ。
周囲に枳殻(カラタチ)が植えてあったことから、一般に枳殻邸(きこくてい)とも通称される。
園内を流れる水は、琵琶湖の水。
かつては門前をチンチン列車が走っていた。西・北側の街路が広くなっているのはそのため。
ユニークな形の石垣「高石垣」は、崩すと「宝」文字になるという。「宝=高」
「カラタチ」を崩すと、「宝地」。
傍花閣(ほうかかく)の形は、「宝」の文字に似ている。下側柱の左右にある丸い石を屋根の上に置くとより一層。

 

 

毘沙門堂

◆赤穂事件の際、将軍綱吉が浪士の処遇を聞いた人がいます。その人は、若年ながら毘沙門堂の門跡を務める公弁法親王です。
法親王は切腹させると言う意見を出して、綱吉も意を決める事に。山科義士祭でスタートが毘沙門堂になっているのは、そんな由縁です。

 

東山三十六峰

布団を着て寝た姿にたとえられる。
◆36という数字には独特の意味がある。同種のものが数多くあり、それらがすべて優れているとき、この数字の出番となる。例「三十六歌仙」。このルーツは兵法の「三十六計逃げるに如かず」(兵法には36の代表的な計略があるが、それよりもさらに逃げるのが得策)。日本にも「逃げるが勝ち」ということわざがある。
清少納言が『枕草子』の中で、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」と記したのが東山。

 

雛人形

「天子南面」という言葉がある。天子を守る「北面の武士」(平清盛の同い年の西行などが出身)も存在した。
南に向いたときに日の出の方角が上座、反対に日没の方角が下座とされてきた。雛人形も、左(向かって右)に男雛を、右(向かって左)に女雛を配置していた。その並び方でないと、万が一の場合 男性は左腰に差した太刀を抜いて女性を守れないので。また、女性にはすべてを最後まで見届ける役目があるという中国からの思想もあった。
ところが明治の文明開化で日本も洋化し、国際マナーからも、天皇が西洋式に右に立った。それ以降から皇室の伝統になり、それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。京都では伝統を重んじ、現代でも向かって右に置く家庭が多い。

平安京が左京が栄え、右京が廃れた理由は、右京が湿地帯だったこともあるが、左優位の思想から左京が栄えた可能性もある。

多くの国では「右」が優位になってる。例えば、オリンピックの表彰台は金メダルの右に銀メダルが立つ。
京都盆地は、南から北にかけて高くなっている。天子が高地から南を見下ろせる絶好の地形でもある。地図では、左側が右京区、右側が左京区となっている。これは天子から見たからである。

常に南を意識するのが天子の義務。南の方向を指し示す臣下が指役。
一番わかりやすいのが明治天皇桃山御陵。南向きで、それを守るかの如く乃木神社は北を向いています。

古代中国において天子は全天で唯一不動の星である北極星に例えられました。それゆえ天子の宮殿は都の北端に築かれ、その玉座は北極星を背にしておかれます。「右」とは「水極」つまり水が「み」な「ぎ」る様子、そして「左」は「火足」つまり「火」が「足り」ている状態、ともされます。中国の思想を借りてくる以前から、日本でもやはり左が火(日・陽)、つまり太陽と関わりが深いことがわかります。

古事記で、イザナギの左目から太陽神のアマテラスが、右目から月神のツクヨミが生まれたとされている

天皇より身分の高い人がいる。天皇が譲位して「上皇」、上皇が出家して「法皇」。また「院」は、上皇・法皇の政務機関「院庁」(院政)の通称。
京都府庁と京都市役所は南向きに建っているが、「天子南面」とは何の関係もない。
作家・小松左京のペンネームの由来は、「左がかった京大生」という意味。

なお西洋ではというか、世界的にはやはり右が上位でした。英語の「ライト」には、右という意味以上に正しいという意味もあります。

 

日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)
紅葉の隠れた名所ということだが、登り坂なので結構きつい。
裏山の天岩戸をくぐるのを忘れないように。
社のご神体は、神明山で、頂上付近に伊勢神宮遥拝所がある。山中の鳥居は遥か伊勢神宮を向いている。伊勢神宮鳥居平安神宮大鳥居御所の清和門へ至る「見えない直線」が地図上に引かれる。

 

平等院(びょうどういん)
そうだ京都行こう『過ごす時間を選ぶだけで、人はそうとう幸せになれるもんだ』2003夏
「仏による救済を平等に」
童歌で、「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまへ」とうたわれた。
◆10円玉。記念写真を撮るときは、10円玉を持って撮るのがおすすめ。東を向いているので、午前中が良い。午後だと逆光になるので注意。
羽田空港の通称「ビッグバード」。その意味は「鳳:オオトリ」で、羽田空港のデザインが宇治平等院鳳凰堂を模していることから。 と言われている。

扇の芝:頼政がこの地に扇を開いて敷き、その上で自刃したことによる。史上初の切腹で、のちに武士の誉れとされた。

「以仁王の挙兵」:1180年、源頼政と共謀して平家追討の「令旨」を全国に雌伏する源氏に発し、平家打倒の挙兵、武装蜂起をうながした。しかしただちに平家に露見し、奈良興福寺に逃れようとする途中で討ち取られた。「いずれあやめかかきつばた」という表現は頼政の歌から生まれた言い回し。何人もいる美女の中から、あやめの前という美女が誰か当ててみよという投げかけに困り、歌を返した。

庭園の藤が有名。藤は藤原氏の象徴とされ、藤原氏の家紋も藤。
藤という植物は、他物にからみつく植物で、からみつくための他物がないと生きられない。あくまで他物を主とし、自らは従となる。決して天皇にはならず、あくまで天皇家に対する寄生虫の立場を守るという行動原理を、藤というシンボルは見事に体言している。
藤原道長:「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(『小右記』)。贅沢病といわれる糖尿病に最初にかかった日本人が藤原道長。『小右記』に「のどが渇いて水をよく飲む」「目がみえにくくなる」と書かれている。国際糖尿病学会の記念切手の絵柄には、ふくよか顔の道長が採用されている。
同時代の建造物に羅城門がある。ボロボロの羅城門に立派な平等院。藤原氏がいかに富んでいたかがわかる。

鳳凰堂の天井には66個もの銅製鏡がはめ込まれ、須弥壇や天蓋などには、ふんだんに螺鈿が使われており、わずかな光で堂内が明るく照らされるよう意図されている。
阿弥陀如来像の耳には、ピアスの穴が。城を出て修行の道に入るとき、はずしたピアスの穴。

瞳を伏し目がちに閉じかけた「半眼」には、半分は外部の世界を見て、残りの半分で己の心を見つめるという意味がある。
阿弥陀如来像は、和風の仏像の基本形で、定朝作。これに倣って、その後数々の像が造られた。一本造りではなく、寄木造りによる。寄木造りは、日本で生まれた独自の手法。 宇治で製作されたものではなく、定朝が完成させた寄木造の手法により京都で作られ、10時間もかかって運ばれてきた。定朝は、仏師21人、小仏師105人を抱える仏所の長でもあったため、分業が可能であった。
鳳凰堂を正面から見ると、鳳凰が羽を広げているようにみえる。
鳳凰堂は、中堂以外は機能をもたず、翼廊の2階にいたっては階高が低すぎて人が入ることすらできない。これらは建築によって地上に極楽浄土を再現しようとする意図のもと、池の対岸から眺められることを十分に意識して付加されたデザインである。
対岸から鳳凰堂を眺めるのが正しい見方とされる。池のこちら側が此岸(しがん、俗世)、鳳凰堂のある側は彼岸(来世)という設定によるもの。鳳凰堂そのものが、極楽浄土という見立てである。
仏殿前に灯籠が1基あるのは、仏を供養し照らすための古い形式。10円玉には描かれていない。火袋の火口が両方に開いており、平等院型灯籠と称される。
創建時の州浜が修復され、鳳凰堂が雲の上に立つかのようで、極楽浄土のイメージがふくらんだ。
阿字池:阿とは梵語で「不生不滅」を意味する。阿字池は永遠の象徴。すなわち極楽浄土の池という意味。
建立者の藤原頼通は臨終に際し、自分の指と阿弥陀如来の指を糸で結んで、間違いなく浄土に行けるよう願ったという。
正面の格子戸の円窓が、まん丸でないのは、蓮の形を現しているため。円窓と阿弥陀如来の顔がずれているのは、室町時代に1メートル土を持ったため。しゃがんでみるとお顔が良く見える。

一区画だけ、屋根の色が異なる古い瓦の部分がある。これは平安時代に造られたまだ使える瓦を集めたもの。

六角堂:使用されている木材は明治の翼廊の解体修理に際して廃材となった古材。差込のほぞ穴などを意匠として巧く利用している。天井の格天井も古材をそのまま使用し重厚感をだしている。

鳳翔館:宗教法人としては初の登録博物館。自然光を巧みに取り入れ、日本最大のガラスウォールケースも導入。設計は栗生(くりゅう)明、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館も設計。景観に配慮して、大半が地下に配されているため、境内から見えないように設計されている。
鐘楼:梵鐘は60円切っての図案として採用されていた。
地蔵菩薩像:ケヤキの一本造りで、右方向に体をかしげる珍しい姿をしている。素材であるケヤキが傾いており、それに従って彫られたもの。
鳳凰は、聖天子の出現を待って表れるという伝説上の鳥で、鱗で覆われた鹿の体を持ち、背中は亀、首は蛇、あごは燕、くちばしは鶏の姿をしている。
◆1万円札の鳳凰は、金閣寺のものではなく平等院のもの。どちかの鳳凰が描かれているかは、胸の筋肉の違いで判断できる。

雲中供養菩薩52体のうち51体が国宝に指定されている。指定外の1体は、国宝指定後に堂外から発見されたもの。
雲中供養菩薩は、来世を楽しく見せるために、楽器を持っているものが多い。
雲中供養菩薩の数が52体ということで、お土産グッズとして、トランプがある。ジョーカーは鳳凰像。
最高傑作といわれるのは、北25号。左手に蓮華を持っている。一番かわいいのは、南21号?
最雲のなびき方が進行方法を示し、左へなびくもの26体、右21体、左右両方5体。
「南24号像」は、右腕の肘から先がなく、手にもっていたであろう持物もない。現在、鳳凰堂のなかで唯一欠損している菩薩。背中に墨書で「愛」という文字が記されている金剛愛菩薩。調査により、失われた右手には矢を、左手には弓をもっていたことが分った。ローマ神話では愛の神とされるキューピッドだった。世界の文化はこのような形で連関している。
いずれも智慧や慈悲を象徴する頭光(輪光)を負い、雲の上の蓮華座に乗っている。

彫刻師のこだわりは、足の指に表れている。


『九品来迎図』は、幾重にも重なる山並みの風景から阿弥陀如来が、聖衆とともに少しずつ大移動してくる扉絵は、連作ならではのストーリー性にあふれている。

平等院でのギャグネタは、「ちょっと寄り道(頼道)していかない?」。

宇治は、貴族が死を迎えるまで、晩年をやすらかに過ごす場所であった。なぜならこの地が都からみて、宇治川の対岸、西側に位置することから、宇治川=三途の川とされ、宇治橋を渡った宇治の地は、西にあるというあの世、西方浄土に例えられたのである。近郊の木幡の地が、藤原一門の埋葬地であったことも関係している。
浄土院:船乗観音
浄土院(浄土宗)は、最勝院(天台宗)と毎年交代で平等院の管理を行っている。もともと平等院は天台宗に所属していたが、天台宗の勢力が弱まり、新興勢力であった浄土宗が、平等院の中に浄土院などの子院を建て始める。江戸時代、天台宗の勢力が盛り返し、寺社奉行の裁定により平等院は単立寺院とされ、共同管理下に入ることになった。

養林庵書院:浄土院にある塔頭。寛永の三筆のひとり松花堂昭乗の扁額がかかる。

平野神社
自分の親に「平野さんに産んでしもて悪かったなぁ」と言われたらショックである。平野さんとは平野神社のことで、北野天満宮の先にあることから「北野を越えて」=「汚のう肥えて」とかけて不細工な人を意味する京言葉なので。
妹背桜:平野神社が原木地。妹背桜お守りは、妹背(仲の良い恋人)のように花柄の先に二つのかわいい実が寄り添うようについている。
桜の開花予想日を知らせる桜前線はソメイヨシノを基準とした全国的なもの。京都には平野神社の魁桜が咲いたら花見の準備をするという基準がある。

◆リスを神の使いとしており、「リスのお告げ」というリスの人形がついたおみくじがある。手には神社の名物である桜の花を抱えている。

◆拝殿:釘をまったく使っていないことから「接ぎ木の拝殿」の撫で知られる。内部には三十六歌仙絵が。海北友雪による。

 

風水(四神相応)

 

東・青龍・鴨川 春・東方の守護神 (龍)。金運を呼び込み商売繁盛をもたらす。
南・朱雀・巨椋池(おぐらいけ):干拓により今はない。湖名の由来は、巨椋神社のそばにあったことから。境内に巨大なムクの木があったので。夏・南方の守護神 (鳳凰)。その大きな翼で悪を払、い平安をもたらす。

西・白虎・山陰道 会津の白虎隊の名称はここから。秋・西方の守護神 (虎)。邪悪な気運を遠ざけ、幸せを呼び込む
北・玄武・船岡山 玄武岩は玄武に似ていることから名付けられた。冬・北方の守護神 (亀)。逆風の盾となり、繁栄と長寿をもたらす。
人生を四季に例え、若年期を「青春」、壮年期を「朱夏(しゅか)」、熟年期を「白秋」、老年期を「玄冬(今では「厳冬」の方がよく使われる)」と表現する。また、技に熟達した人をさせて玄人(くろうと)と呼ぶのも、ここから来ているといわれる。玄は、精白していない「玄米」

都市ゲートはつくば研究学園都市の東西南北の入り口にあり、風水に基づく四神を表す色の付いた柱が
道路の両側に3本ずつ立っています。北に筑波山、東に桜川、西に国道294号線、南に牛久沼

平安神宮の蒼龍楼と白虎楼は、四神相応に基づく。
相撲の土俵の屋根の四隅の房は、この四神の色。

 

藤森神社

境内にある手水鉢台石、石川五右衛門が宇治の浮島十三重石塔の上から5番目の石を盗んだもの。

 

 

伏見

地名:以前は「伏水」だった。「伏」は人に犬が寄り添うそっている意味だが、「隠れた」という意味もある。
酒:灘の男酒に対し、伏見の女酒と呼ばれる。神社(お神酒)が多く昼間に、または女性が飲む機会が多いので、口当たりの良い甘口の酒が好まれたのかもしれない。
どちらも江戸時代には「下り酒」といわれ、江戸の人々にもてはやされていた。上方から下ってきたものを「下りもの」、そうでないものを「下らないもの」と呼んでいた。

水は、鉄分が少なく、軟水に近いため、まろやかでやさしい甘みをもつ。
近鉄電車の地下鉄化の計画があったが、地下水が汚染される可能性が指摘され、中止となった。
造り酒屋で洛中に現存するのは佐々木酒造(俳優・佐々木蔵之介の実家)1軒のみ。『古都』は川端康成の揮毫。
戦時中には、練兵場や兵営などの軍事施設が置かれた。京阪電車に乗ると、深草駅と墨染駅の間で三つの橋をくぐることになるが、これらはいずれも軍道が電車よりも優先された証。東側からの兵営から、西側の練兵場への横断が電車の通過で遮断されることは許されなかった。

伏見城:豊臣秀吉が隠居所として建てた。「不死身」に通じる地名からこの地を選んだかもしれない。
「露と落ち露と消えにし我が身かな なにわの事も夢の又夢」という辞世の句を残して、この場所で秀吉は亡くなった。
「血天井」の項目を参考。
破却の際に、主な遺構は京都一円に移築された。
 天守をはじめ一部の建物は二条城、西本願寺唐門、二尊院総門、高台寺にある茶室「時雨亭」と「傘亭」、円徳院は化粧澱を移したもの、豊国神社の唐門など。
江戸時代の城によくある「伏見櫓」のいくつかは、伏見城の遺構との口碑を持っているという。

安土桃山時代:「安土」は「平安楽土」という言葉から。「桃山」は江戸時代になって廃墟となった城山に桃が植えられ、いつしかここを桃山と呼ぶようになったことから、後世になって付けられた。
◆桃山御陵は大正元年に造営されたが、この時代は日清戦争に勝利し台湾を日本の統治下に収めた後である。御陵周辺にはその当時の情勢を物語る木がある。ショウナンボク(肖楠木)というヒノキ科の樹木で台湾固有種である。1918年に台湾総督府から台湾の珍しい樹木類が献上され、この地に植栽された。この木は株元から広がった枝ぶりが非常に美しい姿をしていて、現在では陵墓産道の並木として大きく成長している。木を通してこの頃の日本と台湾の関係をみることができる。

京都生まれで京都をこよなく愛した明治天皇の遺言で城のあった場所は明治天皇陵となっている。