二条城(にじょうじょう)

 

四つの二条城

足利義昭(信長が義昭のために。天下の名石と呼ばれる藤戸石も運び込まれた)→織田信長→豊臣秀吉(妙顕寺城)→徳川家康(現在)

それぞれ場所が異なる。

 

徳川家光時の行幸:後水尾天皇、東福門院和子(入内する際に、かずこ→まさこへ。濁点を取った)

伏見城で将軍宣下:家康、秀忠、家光

江戸城に勅使を迎え将軍宣下式:家綱~家茂

二条城:慶喜のみ

 

◆地図を見てもわかるように、城の位置が3度ずれている。平安京は北極星をもとに町割りをし道路を造営した。現在の城は磁石を用いて方位を決定した。磁石の指し示す方位は、毎年周期的に多少変化する(偏角)。あえて方位磁針を用いたのは、当時の最先端技術を使うことによって、幕府の権威を示したい必要があったからと推測される。当時は偏角のことが知られていなかったで、3度ずれてしまった。

ちなみに現在は西に7度傾いている。

東南隅櫓

◆兜をかぶった人の顔に見えなくもない。

◆家臣が将軍の住む二の丸御殿を見下ろすことができないよに、櫓の城内側の壁に窓は無い。

 

◆城外の広場は、戦後は進駐軍の簡易飛行場になり、米軍の小型飛行機やヘリコプターが発着した。当初は京都御所に飛行場を造る予定だったが、さすがに反対が多く交渉の結果、二条城に作られた。

◆東大手門前の堀川通りの西岸には、木の柵が建てられて、橋のたもとには門と板書があった。東海道五十三次の上がりは三条大橋だが、京都から山陰、山陽などの西国へは、二条堀川橋が起点になっていた。

◆石垣は低く堀も狭い理由として、その昔、家康は家臣に堀を二間程広げてはどうかと進言されたが、幅が狭ければ槍も振り回されないし、船の自由もきかない。又、寄せ手への鉄砲の命中も良いのだと言ったと伝えられている。 逆に、すぐに攻め落とされるのなら、すぐに取り戻すこともできる。

◆警報装置として、お堀には鳥が放たれた。夜間、敵が攻めてきたときに鳥がさわいでいち早く敵の襲来を知ることができる。

◆城が攻められたときに逃げられるように徳川家の菩提寺である知恩院の瓜生石まで地下道が通っているといわれている。

◆入場するときは、入城料を払う。

 

東大手門

◆櫓の白壁が両隣の塀の白壁とつながって、三段の白壁を持つ堂々とした門構え。

◆東大手門:階上の櫓に衛士が詰めており、武者窓が開けられる。武者窓の左右に開けられた窓は石落とし。1626年後水尾天皇行幸に際して、天皇が潜る門の階上に人がいる形式の門を避け、その後再び現在の楼門に戻された。

◆向かって右側の隅っこには、一羽だけ千鳥の装飾がある。二条城の隠れキャラ。

◆母に捨てられた北大路魯山人は、寂しさから毎日のように二条城に通い、乳房の形をした門の金具を吸っていた。

◆阿吽の鯱

◆門は外から侵入してくる敵兵を扉で押し戻すことができるように、内開きになっている。

扉の帯鉄は縦に打ち付けてある。縦にうちつけることによって、雨水が帯鉄にたまらず、下に流れ落ちていく。              

◆表側の石垣は、毎朝東山から登る太陽のひかりで焼かれて石本来の色が失われているが、弱い西日の当たる内側の石には石本来の色が比較的良好に残っている。

 

唐門

◆唐門には菊の御紋が47個も飾られている。

◆唐門には龍と虎がいるが、中国とは逆に東に白虎、西に青龍が配されている。完成したものは後は崩れていくしかなく、どこか未完のままに留めておこうとした意図がみえる。あらゆる彫刻が陰陽でできている。すべてが阿吽。お互いににらみ合って、激突するエネルギーで城を守っている。

◆龍、虎、鶴、亀、松、梅、薔薇などの彫刻。「長春歌」と呼ばれる薔薇は「永遠の春」をあらわし、徳川家による天下太平の世がいつまでも続くことを祈っている。

◆唐門を通り過ぎ振り返ってみると、大きな亀にのった黄安仙人がこちらを見つめている。この亀は3000年に一回だけ、甲羅の中から頭を出すと言われている。黄安仙人は亀が頭を出すところを5回みているので、15,000年以上も長生きしている仙人。仙人の両側にはめでたいときにあらわれる瑞鳥。

阿吽。

 

二の丸御殿

◆大政奉還が行われ、明治政府の手に渡り、建物に付けられた葵の御紋を全て代えられなかったので、菊のご紋(=皇室)と葵の紋(=徳川家)が至るところで見られる。

 

◆当たり前の話だが、この重量感のある巨大な建物は、すべて木造建築であることに驚かされる。

◆二の丸御殿は、それぞれの部屋が斜めにずれながら配される「雁行」(雁が群れを成して飛ぶような)配置をもつ。どの部屋からも庭園が鑑賞できるよう設計されたいる。がんもどき。観覧する距離は約450m。

◆雁行形は、各書院の日当たりを考慮したものであり、また、他の建物に視界を遮られることなく、どの部屋からも庭園などの眺望が得られるための工夫でもある。

◆廊下は鶯張り(ナイチンゲール・フロア)になっている。現在でいうところの不法侵入者に対する防犯装置。城の周りを回るときは、縁の下をみてみましょう。鶯の鳴き声が 「 法 ( ホー ) 聞けよ ( ケキョ ) 」 と聞こえる ことから、仏法を説く寺院(知恩院など)でも鴬張りの廊下となってる。

◆廊下は将軍が通るため、天井は格天井で各部屋の障子の紙は廊下側を表にして張られている。

◆狩野探幽の生まれた時期は、ちょっと前に関ヶ原があり、天下がどちらに転ぶかわからない不安定な時期だった。美術史家は「三面作戦」といい、狩野派は豊臣方と徳川方と朝廷方と三方位に一族を配していた。

 

車寄せ

◆美しい欄間彫刻は表裏のデザインが異なる。牛車にのったまま玄関まで入ることができる。

◆入母屋造りの屋根の軒先に軒唐破風がついているので、屋根に降った雨は真下には落ちずに左右に流れている。

◆鸞鳥(らんちょう):君主が折り目正しいときに現れるとされる想像上の鳥。阿吽。

遠侍(虎の間)

三の間

◆乳を与える母虎と三匹の子供:「虎の子を3匹産むと、1匹はヒョウである」という中国の故事に基づく絵を参考にしているものと思われる。

二の間

◆水飲みの虎。虎とヒョウ。

一の間

◆一の間の一番左奥にみえる虎は、物悲しいげな虎にみえるが、実は笹の葉がさらさらとなる静かな竹林で、背中を丸くして眠っている状態。

◆遠侍の間(虎の間):家康は、豊臣秀頼(秀吉の子)をこの間に招き、もうすでに遠侍であることを植え付けさせた。秀頼は身長196センチ、体重161キロ。家康は見事に成長した秀頼の姿をみたときに、豊臣家を潰すことを決意した。豊臣家の運命が決した瞬間といえる。

◆虎は想像で描かれている。動物園がない当時は、毛皮でしか想像することができなかった。当時は、虎はオス、豹はメスと描かれており、二頭はカップルということになる。

天井には、金地に描かれたぶどうのつるが前面に広がる。格天井の縦横に組まれた格縁をぶどう棚に見立てた機知に富む構成。

◆外様大名の間は、いかめしい松の絵があり、これは外様大名に圧力を与えるためのものと思われる。松の巨木が壁や長押を突き抜けて壁面全体に描かれる。松は不変の繁栄と権威の象徴で将軍の威光を示す。

 

式台の間

◆式台の間:式台とは、「色代」を表す。参上した大名が老中職とあいさつを交わし、将軍への献上品はこの部屋で取次がされた。

◆松は一年中枯れることなく常に青々と茂り、徳川家の以前の名前「松平」にも通じ、徳川家の繁栄と政権の永続性をあらわしている。

 

大広間

◆将軍一人が座る一の間の畳の数は48枚。一方たくさんの大名が控える二の間の畳の数は、4枚少ない44枚。

◆将軍は帳台構えから入室する。将軍が万が一襲われても、とっさに帳台の間に逃げこめば、中に隠れている家来が守ってくれるので、「武者隠し」という俗称がある。

◆一の間正面松は、根元が岩に食い込んだ老松。まるで将軍の頭の上に大きな傘を差しかけているような見事な枝振りが、将軍の威光を高めている。

三の間

◆探幽が描いた「松に孔雀図」:L字型の変形した画面でも松全体が収まるように計算された構図で描かれている。松の周囲には十分に大きな余白が取られて、区間の広がりが感じられる。松の根元にりんとして佇む一羽の孔雀が描かれている。右上の欄間の孔雀も、探幽の孔雀と呼応している。

二の間(下段の間)

一の間(上段の間)

◆畳の向きが横方向に敷かれており、前にすすめない。(黒書院や白書院の一の間は縦に敷かれて、進めるようになっている。)

◆一の間は、日本一大きくて豪壮な書院造りの部屋。

◆床の間の板は長さ5.5m、幅1m、厚さ16cmのケヤキの一枚板。

◆床の間には三幅の掛け軸がかけられていた。今でも掛け軸をかける金具が3つ残されている。

◆一の間は、大政奉還が行われた場所。日本人らしく、話し合いによる政権交代だった。並べられた人形の大名がつけている紋付の紋が一つずつ違っているところが、芸が細かい。諸大名は、殿中袴という長い袴をはかなければならなかった。用心のため動きを鈍くさせるためといわれている。

◆大政奉還のために登城した藩50人の大半は代理人だった。藩の幹部は6人のみ。儀式も無く家老が書面を配るだけで淡々としたものだった。慶喜もまた将軍職を辞してなお権力を保持するつもりだったため、悲壮感もなく開放的な心境だったという。

◆ただし、大政奉還の場面ではなく、将軍と大名の謁見の再現。

◆床の間の松が将軍の頭上を覆い、威光を演出する仕掛け。松がやや小ぶりに描かれているのは、遠近法により手に届けない存在と思わせるため。

◆脇差を腰に差しているのにも注目。最高支配者のいる城内で武器をつけたままでいられるのは、日本だけ。武士はアメリカの開拓時代のカウボーイと同じように、武器を持つことは武士としてとして当然の権利としていた。その代わり、城内で刀を抜くようなことがあれば、切腹しなければならないというルールがあった。それが忠臣蔵の有名な発端。

◆人形師は、祇園祭の稚児人形を作った人物と同一人物。代々伊東庄五郎を名乗る。

 

蘇鉄の間

◆蘇鉄の間:二の丸庭園の蘇鉄を眺めることから名付けられた。障子の隙間からちら見することができることもある。

◆日本よりはるかに遠い南国の植物である蘇鉄は江戸時代には大変珍しく、富と力の象徴として時の権力者に好まれた。

◆後水尾天皇の行幸に際して、外様大名の鍋島藩(佐賀藩)から蘇鉄が1本献上された。九州まで支配する徳川家の力を象徴するものだった。最大で15本あった時もある。

 

黒書院

三の間

二の間

◆黒書院の二の間の長押には、幕を張り渡す金具が転々とつけられて、大坂夏の陣へ出陣する前の作戦会議では、幕を張り巡らした中で行われた。

一の間

◆黒書院の松は、親しい人々が集まる和むよう、少し雪化粧をした早春の松。

◆松につもる雪は、胡粉(貝殻を焼いて作った白い顔料)を盛り上げるように厚く塗って立体的に表現されている。

◆松の根元の柴垣には、冬枯れの蔦の葉(銀が酸化して黒くみえている)がからみ、松の背後には紅梅がちらほらと咲いている。松の太い幹には、つがいのカスケがとまり、紅梅の細い枝には、シマヒヨドリ一羽とまっている。

画面の左下端に、笹の葉を数枚かくことによって、全体で松竹梅の絵柄になっている。

◆絵の右上の四角い黒点は掛け軸を掛けるための金具。

◆黒書院は、襖絵が日本の国花である桜と国鳥である雉の絵が。襖の桜は向かって左から咲き、満開となり、散っている。

 

白書院

二の間

◆西湖図

◆部屋の中央に座ると、湖上に浮かんだ船に乗って岸辺を眺めているような気分になれる。

一の間

◆将軍の寝室なので、四隅の柱には、蚊帳を吊る金具がついている。

◆白書院の一の間は、淡い色彩の山水画描かれ、逆に天井には意表を衝くようにの濃彩による四季の草花が散りばめられている。床について見上げたときの効果を考慮した見上げ図で、将軍の寝所にふさわしい構成。

 

三の間

◆薪を運びながらも読書をして、苦学の末に出世した朱買臣

◆白書院は、襖絵が水墨画で急速の場所にふさわしい落ち着いた雰囲気が。中国の名勝である「西湖」を描いたものと伝えられおり、しっかりとした筆づかいと執拗なまでに打ち込まれた点苔(小さな植物や苔を示す点々)が特徴的。

四の間

◆見学コース外

◆竹梅に雀図:眠り雀

 

折り返し

大広間

四の間

◆大広間四の間(槍の間):将軍の上洛にあわせて、武器庫の役目を担った。その役目にふさわしく、襖絵に老いた松に眼光するどく鷹がニラミをきかせている。

◆右側から、イヌワシ→クマタカ→オオタカ(松の根元の獲物をするどい目つきで狙っている)

老中の間

◆老中が忙しい仕事の合間に、ふと絵を見たときに心が安まるようにと、絵は老中の目の高さに合わせて描かれている。

◆一の間:春夏。足の生い茂る水辺で遊ぶ雁。

◆二の間:秋。刈り入れの終わった田んぼでエサをついばむ雁。

◆三の間:冬。雪が降り積もった冬枯れの柳と白鷺。

 

勅使の間

◆譜代大名の間は桜や菊の優しい絵が描かれている。勅使を迎える間はさらに気品をまぶした、ふわふわの檜や楓が描かれている。

◆天皇の勅使が通される勅使の間は、芙蓉の花が描かれ貴族的だが、勅使が上台に座ると南ではなく、西を向くようになっており、ただではひれ伏さぬ幕府の意図が見え隠れしている。

◆下段からみると、天皇がおられる御所の方角(東)になるので、言い訳の準備はできている。

 

若松の間

柳の間

 

◆鐘:動乱期の幕末に、京都所司代との連絡に使われたもので、何か変事があると違いに打ち鳴らされた。

◆二条城の開城工事中は、作業の開始、休憩、終了を鐘の音で伝えていた。近隣の寺には間際らしいので鐘を鳴らさないようお達しがされた。鐘の音で時刻を知っていた近隣住民にとっては迷惑だった。

二の丸庭園

◆水辺の近くには、蓬莱島に不老不死の霊薬をとりにいく舟石が浮かんでいる。この船はまだ荷物を積んでいないので、海面より高く浮かんでいる。

◆二の丸庭園:向かって左から鶴島、蓬莱島、亀島。小堀遠州の作といわれ、別名を「八陣の庭」とよばれる。中国の三国志に登場する諸葛孔明の館は、四方八方どこも守りが堅く、簡単に攻められないことから「八陣の館」とよばれていたが、この庭もどの角度から見ても裏が無いという四方正面の美しさなので、八陣の館の名前をもらい八陣の庭と名づけられた。

◆松は御所透かしという技法で剪定されている。御所透かしは懐を広く開けて、枝を長くのばし枝先に葉を残す透かし方。広い御所は一般の方がいつでも出入りされるので、パトロールしやすいように、裾が切られている。遠くまで見渡す事が出来て、安全管理に役立っているとのこと。

 

本丸櫓門

◆本丸櫓門:少し白色の部分が多く違和感があるのには理由がある。現在の橋の上に二の丸から本櫓門に通じる橋廊下があったため。

橋の左右の袂には、かつて橋廊下の柱を支えていた直方体の礎石が今も残っている。

◆四方から攻撃できるように、内枡形になっている。

本丸御殿

◆本丸御殿:武家の館であった二の丸御殿に対し、江戸時代の宮家であった桂宮家の建物。3階部分に展望ができるような座敷を備えるなど、質素ながら公家らしい豊かな生活の工夫が見られ、屋根瓦のむくりに注目。むくりは日本独自のデザインで威厳を表す「反り屋根」に対して低姿勢を表し、工商人の町家に好まれた。丸みを帯びた美しいデザインが公家にも好まれた。

◆玄関:以前は牛車仕様であったため、車寄せは正面のみが開けられていたが、移築に際して馬車仕様に応じるべく左右の壁が取り除かれた。

◆阪神淡路大震災の影響で、玄関の裏側は倒壊してしまったため、丸木で支えられている。

◆本丸の周囲に配された横長い石段は非常時に備えて左右、中央どこからでも一気に駆け上がることができるもので、このような石段を岩岐(がんき)という。

◆世界文化遺産に選ばれた理由は。唯一武家作りと公家作りの建物が同じ敷地内にあるため。

 

◆二条城といわれる建物は、それ以前にもいくつか存在した。そのうち遺構が見られるのが織田信長が足利義昭のために完成させた城の石垣。本丸御殿を出た庭園の西の端にあるトイレの近くという目立たない場所にある。70日あまりで急造したため、石仏まで石垣に使ったとされる。

◆西門は、かつては将軍専用の出入り口だった。大政奉還により、最後に徳川家と城の縁が切れたのを見届けたのはこの門だった。江戸時代の落書きあり。

 

本丸西門

◆枡形により、4回直角に曲がらないと、本丸に侵入できない構造になっている。

 

天守台

◆天守台最上段の石をみれば、所々石が扇状に切り込まれてできた石狭間がみられる。

 

米倉

◆建物の入り口が二カ所あるが、中は一つの部屋。内部の壁には床には板がはられ、天井は屋根裏がむき出しになって、湿気がこもりにくい構造になっている。

 

北中締切門

◆門の屋根は前が短く、後ろが長いので、横から見ると、手招きをするようなヘの字形で「招き造」とよばれている。

◆門の正面は防備を高めるために、全面に帯金が打ち付けられているが、門の裏面には帯金はつけられていない。

清流園

◆和洋折衷庭園。中根金作が設計。

◆清流園:第二次世界大戦後に、GHQの意向で、テニスコート9面が作られたことがある。ライオン石有り。加茂七石の一つ紅加茂石は、赤石に白い筋が入った石で別名肉石と呼ばれる。

◆昭和40年角倉了以の屋敷から譲り受けた建物と庭石などを用いて、庭園に作り替えられた。

 

◆帰り道は、左側は石垣を楽しめるコース(家光の時代に突貫工事で造られた石垣は粗い所がある)、右側は庭園を楽しめるコース。8の字で帰るのがおすすめ。

◆桜の季節の庭園は素晴らしい。かつて公家たちが競って珍しい品種を京都に持ってきて楽しんでいたが、急な明治の東京遷都で置き去りになり、その桜が城内に集められた。

◆北大手門へ向かう道の角にある大きな桜の木は、京都気象台(二条城から西へ1キロ)の桜の標準木。標準木は気象台から近くて周辺の環境が変わりにくい場所にある木が選ばれる。

 

◆現在休憩所が建っているあたりには、江戸時代には大きな馬小屋があった。

 

 

若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)

熊野参詣の起点。法皇や上皇はここで身を清め、城南宮で休息し、伏見から船で淀川を下って熊野へと向かった。
後白河法皇が、毎年一度行っていた熊野詣が戦乱などでできないときに、熊野三山の代用として詣るために建てられた。熊野の身代わりであることから、創建当時は土砂木石にいたるまで、すべて熊野から移された。境内脇の道を登った先に、那智の滝に見立てられた滝があるが、しょぼい。
熊野を象徴するナギの木が神木として祭られている。ナギは暖地に自生する常緑高木で、京都では珍しい。悪いものをナギ倒すという意味もある。鎧の中に葉を入れて戦えば死なないという。
ナギの葉脈は、付け根から先端までつながっているので、夫婦が分かれないことの象徴とされている。葉は横には簡単に切れるが、縦に割くことが難しく、それゆえ縁が切れないようにとの願いをこめて、鏡の裏にナギの葉を入れる習慣があった。葉の表裏が見分けにくいことから、裏表の無い夫婦生活が送れるなどともいわれた。またナギは凪にも通じることから、航海の無事を祈ったり、家庭に波風が立たないように円満を願ったりもした。

同志社大学の創始者・新島襄(にいじまじょう)の墓地(徳富蘇峰も)がある。入学希望者が合格祈願に墓参をすることでも有名。ただし、紅葉の時期は、葉が赤くなって「散る」ことから避けるらしい。碑文は勝海舟の書。勝海舟が艦長として太平洋を横断した咸臨丸に新島襄が水夫として乗っていた関係で。
新島襄は父親が眠る南禅寺に埋葬されるはずだったが、南禅寺が襄がキリスト教徒であるために反対したので、それができず、南禅寺裏側の若王子山にある京都市の共同墓地に埋葬されることとなった。

 

同志社大学に入学した学生達はお墓参りをする。学生達が若王子山を登る光景は、春の東山の風物詩。

 

 

マッチのおみくじがある。先端の燃える部分が、赤なら大吉、茶なら大凶と、六段階の運勢を占うことができる。

神額に見られる八咫烏は何羽いるか?ここには多角的に物事を見るという教えが込められている。

同志社とは、「志を同じくする者が集まって創る結社」という意味。
日本最古の木製の洋風腰掛便所を作った。
新島襄の故郷である群馬県には、新島学園という高校がある。新島学園から同志社に進学する生徒も多い。
4人の女子の後に生まれた男子なので「七五三太 しめた」と名づけられた。 『ロビンソン・クルーソー』を読み、冒険心と未知への憧れから日本脱出を考え、箱館から国禁を犯して脱国した。 船でジョーと呼ばれていたので襄と改名。 アーモスト大学(クラークの母校)で理学士号を得、岩倉欧米視察の通訳もした。

 

仁和寺(にんなじ)
そうだ京都行こう『桜の開花がニュースになる国って、すてきじゃないですか』2001春
そうだ京都行こう『遅咲きの桜です。見なければ春の義理が果たせない、と京都の人はいうのです』2010春

そうだ境内の家屋「松林庵」が1泊1組100万円の高級宿坊に。御殿を1晩貸し切り、仁和寺の文化体験ができる。


宇多天皇は醍醐天皇に位を譲ったあと、上皇となり仁和寺で出家した。上皇が出家すると法皇となる。宇多天皇は道鏡を除き、法皇の第1号。天皇が出家した僧となり、1寺の住職になるということは前代未聞のことで、仏教に寄せる厚い信仰を見る。僧となった宇多天皇が住まわれたため、その住房は御室と称された。
この辺り一帯を御室(おむろ)という。ちなみに会社の「オムロン」は、旧本社がこの地あったことから、名づけられた。「ン」は「運」から。自動改札機(よく見ると改札機にオムロンの文字がある)、ATM(現金自動支払機)の創出で知られる
樹高が低い御室桜も有名。「あなた、御室の桜やなぁ」と言われたら、御室の桜は樹高が低いために花も低いところに咲くので、花と鼻をひっかけて「鼻が低い人」のことをいう。低い理由は、地盤が硬い粘土質であるゆえ、土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根を伸ばせないことが要因。欄間や軒瓦などいたるところで桜がモチーフとして使われているので、探してみるのも面白い。
花より先に葉が出る品種も多く、地元では出っ歯の人を指して「御室の桜」と言ったりする。
お守りは四つ葉のクローバーのものが一番人気。フォーリーブス・クローバーは十字架に見立てられ、幸福のシンボルとされる。二酸化炭素の少ない地域で日光のあたらない場所で多く見られる。採れる確率は10万分の1。別名シロツメクサといい、「ツメクサ」の由来は、江戸時代にオランダから輸入されたガラス器の梱包の際に詰め物として使われていたことから。
「徒然草」の吉田兼好が、隠遁して庵を結んだのは、仁和寺の敷地内にある双ケ丘。「仁和寺にある法師が~」「つれづれなるまゝに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、心に移りゆくよしなし事(ゴト)を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」 双ケ丘はしばしば歌に詠まれた名所であり、従五位下の位階を授けられた。山が位階をもらった珍しい例。

二王門は、浅草寺の雷門のモデルになっている。表側には金剛力士像、裏側には獅子狛犬。神仏習合の名残り。
二王門を囲む柵は、各16本ある。16という数字は忌み数の4の二乗で縁起が悪いとされた数字だが、ここでは邪悪なものを寄せ付けないための一つのまじないとして使われている。

本坊表門:薬医門形式の門で、すべてケヤキ材を使用しため極めて珍しい特徴を持つ。
勅使門の扉の繊細で美しい透かし彫りに注目。
宸殿と霊明殿を結ぶ渡り廊下は、映画「陰陽師」などの時代劇ロケにも使われた格式あるたたずまい。
白書院:本来、白木の木を用いたことから。
飛とう亭:天皇ゆかりの茶室なので、かかんで入室するような通常のにじり口ではなく、かがまない貴人口(きじんぐち)としている。
遼廓亭:霊明殿近くの渡り廊下からその見事な屋根を垣間見ることができる。
30世門跡である仁和寺宮嘉彰親王は、鳥羽伏見の戦いに際して、軍事総裁として征討大将軍に就任した。このとき霊明殿の水引を旗に仕立てて出陣した。それが「錦の御旗」。その旗の威力は絶大で、錦の御旗を押し立てた官軍は一方的に幕府軍を打ち破ることになった。

五重の塔:各層の屋根の大きさがほとんど変わらないのが特徴で、真下から見上げるとそれがよく分かる。

九所明神:参れば9つの神社に詣でたのと同じ霊験に恵まれるという。3つの織部燈籠(キリシタン灯籠)が建つ。合計すると10? 付近は、時代劇のロケ地として知られる。

 

御影堂の東側、水掛地蔵の下に「菅公腰掛石」がある。道真が太宰府左遷の際、宇多法皇に愁訴するため御室をたずね、勤行中であった法皇をこの石に腰掛けて待った。

仁和寺境内にある菅公腰掛石の傍には、北野天満宮奉納の紅白の梅一対が植樹されている。宇多天皇と菅公、そして仁和寺と当宮との深い縁を象徴するものである。

「流れ行く われはみくづと成りぬとも 君しがらみと なりてとどめよ」(大宰府に)流されていく私は水屑となるとしても、我が君よ、どうかしがらみとなってせきとめてください

 

金堂:垂木を見ると、2段ではなく3段になっている。これは三軒(みのき)と呼ばれ、格式高い建物に用いられる。
金堂は紫宸殿から移築された。正面の七級の木階やその上を覆う向背も、紫宸殿の面影を残している。

屋根には黄安千人が。4千年に一度顔を出す亀に乗っている。仙人はその亀を4~5回見たという。建物が未来永劫に続くようにとの願いを込めたもの。内部に天井がないのは、泥棒が入らぬような作りのため。

終戦秘話:昭和201、近衛文麿が仁和寺に立ち寄り、当時の門跡と密談。日本が無条件降伏の場合、連合軍より天皇の戦争責任の追求をかわすため、陛下を仁和寺にお迎えし、落飾(らくしょく)を願うというもの。寺ではひそかに陛下をお迎えする準備がすすめられたが、実現はしなかった。日本が敗戦を迎えた時に、近衛文麿が、昭和天皇を仁和寺に迎えて出家することで、占領軍との間を収拾しようという計画があったというエピソードがある。その相談に、仁和寺を訪れた近衛文麿が、霊明殿の扁額を揮毫した。
御室八十八ヶ所霊場:総距離3キロ、所要時間2時間。各霊場のお砂を持ち帰ってそれぞれのお堂の下に埋めたのがその始まり。
京焼の野々村仁清は、本名は野々村清右衛門だが、窯を開いた場所が仁和寺の門前なので、仁和寺の仁と清右衛門の清で仁清と称した。

桜の名所:原谷苑(料金は変動相場制で最高1500円)、佐野藤右衛門邸