天寧寺(てんねいじ)

山門は、比叡山が正面に眺められ、額縁におさめた絵画のようなので、額縁門といわれる。
境内のカヤの木は、本堂側の幹に天明の大火で焼けた痕跡が、応仁の乱の流れ矢が残した弾痕、頂部には落雷の跡が、残っている。

 

東海道五十三次

華厳経で善財童子が五十三人の善知識を歴訪して教えを受けるという故事に基づいて、五十三の宿駅がつくられたといわれている。華厳経を読むと、善財童子は五十三人目の普賢菩薩の十大願を聞いて、西方阿弥陀浄土に往生したいと願うようになる。そうすると終着の京都は阿弥陀浄土ということになる。徳川家は、天皇を生きながら死者の国・阿弥陀浄土の京都に閉じ込めてしまったことになる。つまり、天皇を「あの世」「過去」の時空間に封じ込めてしまった。

「東・現世・光」「守護神は東照大権現徳川家康」「征夷大将軍・家康の子孫が統治」「首都・江戸(穢土)」
◆→
「西・過去・闇」「守護神は天照皇大神」「天皇・アマテラスの子孫が統治」「首都・京都」

東西線

地下鉄東西線は行先別に構内に流れる発車音が異なる。
古都の朝靄(ことのあさもや)「上り醍醐・六地蔵行き」 (とばりのように京の町並みに降りてくる朝靄の印象がモチーフになってる。)
醍醐寺の鶯(だいごじのうぐいす)「下り二条行き」  (醍醐寺の梢にとまる鶯をイメージした。)

それぞれの駅には、ステーションカラーがあり、京都らしく和色の名前がついている。色は駅のイメージというよりは、グラデーションになっている。
二条(山吹色)二条城前(柿色)烏丸御池(朱色)京都市役所前(韓紅)三条京阪(牡丹色)東山(菖蒲色)蹴上(菫色)
「烏丸(からすま)」:平安時代は漢字のとおり「からすまる」とよばれていた。ある夏の暑い日、烏のように日焼けして頭を丸めたお坊さん達が通り、これが家の中にばかりいた色白の貴族達には珍しく、烏のような丸坊主ということから、烏丸になったという話もある。
初乗り運賃が210円と日本一高い。京都という土地柄ゆえにトンネルを掘る度に様々な遺跡に当たるケースが多く、埋蔵文化財の発掘調査を繰り返し行ったため、運賃の設定が高くなった。地下水を使用する豆腐業界のために、より深い井戸を掘る補償費がかかったのも高い理由。

 

等持院(とうじいん)

水上勉(みずかみつとむ)の『雁の寺(かりのてら)』で有名。
足利氏ゆかりの廟所。尊氏は、禅僧印元に「戦乱を収めて天下を取ったら3つの寺を建てる」と誓ったことがある。しかし、相次ぐ動乱でただ1寺だけを印元を開山にして建てることにした。その際、印元は「寺」の字が3字入る「等持寺」を寺名として、尊氏を感激させたという。
往時と比べ寺域が縮小しているのは経営難のためで、その遠因は足利尊氏の菩提寺であることで、人に省みられなかったからとも言われている。尊氏には朝敵というイメージがあって、幕末の勤皇派から目の敵にされ、それは昭和の戦前まで続き、国賊尊氏の寺として、参拝客もなく檀家もごく少なかった。
以前は時代祭りの行列には、「室町時代列」がなかった。
京都商業(現京都学園)の沢村栄治は、等持院の住職の紹介により、巨人軍に入団した。
池は「心」の字をかたどっていることから、心字池とよばれる。
心字池のたもとに、秀吉の命により植えられたという有楽椿(ワビスケ椿)は樹齢400年。有楽椿の名は、織田信長の実弟である織田有楽斉が茶席の花として愛用したことに由来。
清漣亭は足利義政好み。貴人床を設けているのが特徴で、少し高台になった場所から庭園や伽藍を見下ろせるように茶室を配置したあたりに若き義政の気風がうかがえる。
境内の一角には、日本映画の父といわれる牧野省三の銅像がある。長門裕之と津川雅彦のおじいちゃん。

霊光殿には、尊氏から義昭までの15代の室町将軍の木造が並ぶ。その中に徳川家康像があるのは不思議だが、家康が42歳のときに厄落としのため、わざわざ作らせたという。
5月下旬のサツキが咲く頃がお勧め。

 

 東福寺(とうふくじ)

そうだ京都行こう『600年前、桜を全部、切りました。春より秋をえらんだお寺です。紅葉のベストポジションは、修行の道でした』1997秋

電車を利用するなら、東福寺駅ではなく鳥羽街道駅で降り、南大門から入山するほうがいい。
奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、また、奈良で最も隆盛を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、東福寺と名づけられた。
通天橋からの紅葉の眺めは京都随一といわれている。通天橋は谷を上り下りして上の開山堂に向かう修行僧を助けるために架けられた。楓はもとは仏教の教えとともにこの寺の僧が中国の宋より持ち帰った三葉楓。黄金色で葉先が3つに分かれているので、すぐ見分けることができる。「通天もみじ」とよばれる。
紅葉のピーク時には、ひと月に45万人が訪れる。
開山の円爾弁円は、博多祇園山笠の生みの親といわれる。晩年は故郷の駿河国に戻り、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶の始祖とも称される。静岡市では、円爾の誕生日である111日を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めている。また
「水磨」と言う水車による製粉技術を持ち帰り、うどん・そばの作り方を日本に広めた。

太閤柱:三門の四隅には、屋根の大きさに驚いた秀吉が、バランスを崩して落ちてしまうのではと心配し立てた添え木が。
三門正面縁の大額に、足利義持によって書かれた「妙雲閣」の文字。「妙」の字の女編部分が「玄」になっている。禅宗の寺なので女性を入れないようにと、文字からも「女」を排除した結果。
三門にはおびただしい数の逆さ釘が打たれている。すべては鳥除けのためのもの。

三門にはS52年までは仁王様が立っていたが、劣化防止のため外された。


本堂の天井には、雲龍図がある。その両目には遁管和尚の筆で八大龍王の名を書いてある。遁管和尚、正しくは尾関本孝師。遁管の由来は、本堂の再建費をつくるために大阪で株に手を出し、巨額の金をフイにして行方をくらました。つまり、遁走した管長ということから。
本堂は、昭和9年に再建されたもので、用材はすべて台湾から運ばれたヒノキ。昭和最大の木像建築。台湾から大阪までの輸送費だけで、現在の13000万円が見積もられたが、海軍の軍艦が無料で運んだという逸話がある。
仏殿:盧舎那仏が座していたが、明治14年の火災で焼失してしまった。法堂の一角には、大きな手が安置されている。


明兆の大涅槃図:人間などを実物大で描くことにより臨場感を増している。

五百羅漢図:一幅に10人を描き、50幅を描いている。10×50=500


東司は、現存する日本最古のトイレ。大正初期までは実際に使われていた。トイレも修行の一つだった。当時の排泄物は貴重な肥料で、野菜を作りにはかかせない存在であり、寺院の収入にもなった。つぼの中にはお賽銭が。運が付くようにとのことで。
東司は、仏殿・法堂に向って右側(東)に並ぶ役職の僧が使う厠の事で、左側(西)西浄(さいちん・雪隠に至る)、後に東司が厠の名称になり、西浄(西司)も東司と云う様になる。
「西浄(せいじょう・せいちん)」が変化して雪隠になった。

いつでも行けるわけではなく、トイレに行ける時間も決まっており、修行の合間の限られた時間に修行僧がすぐに行けて、時間のムダを省いてできるだけ一斉に用を足せるようにと、大きな東司が禅堂のすぐ隣に建てられた。

外観は30メートル×10メートル・高さ10メートルほどの木造建築

六波羅門:六波羅探題の政庁にあったものを移したため。鎌倉幕府滅亡のとき、六波羅探題を巡る攻防でうけた矢疵がところどころ残っている。
当時の僧には厳格な入浴方法があり、風呂に入れるのは毎月4・9の付く日のみ。10人ほどが一斉に入り、入浴時間は線香一本が燃え尽きる時間と決まっていた。

いん‐も【什麼】

 (多く「の」を伴って連体詞的に用いて)疑問を表す。どのよう。いかよう。「天地と我と―の交渉かある」〈漱石吾輩は猫である

 (「に」を伴い副詞的に用いて)指示を表す。このよう。かくのごとく。「動著は―にあらざるなり」〈正法眼蔵・仏性〉

[補説]もと中国宋時代の俗語。禅宗とともに伝わり、禅僧の間で用いられた。


南庭:左手の石組と右手の築山の対比が、柔と剛、この世とあの世、男と女など、さまざまな想像を掻き立てる。右側の五つの築山は京都五山の象徴。
西庭:皐月の市松模様。田んぼを表しており、井田市松といわれる。井田(せいでん)とは、古代中国の土地制度のこと。市松模様の意味は、心の平安を示すと言われている。心のタテとヨコを表現しており、美しく整えられた市松模様の庭園は心に迷いの無い整然とした状態を示している。
北庭:桂離宮の市松模様の意匠が発想の原点。カンディンスキーの影響を受けたとも。どこまでも連なる田園をイメージ。生垣は天の川を模し、小宇宙を表現。モダンアートとしても秀逸。敷石は東に向かうにつれて、配置がまばらになっていく。絵画における「ぼかし表現」を持ち込んだ最初の例といえる。
東庭:北斗七星をテーマにした庭。円柱の石は室町時代の東司の廃材を利用。横二列に並んだ植木は、天の川を表し、庭の全体で小宇宙を表現している。
重森三玲 は、この庭を語るとき、しばしば「永遠のモダン」という言葉を使用した。名は、フランスの画家ジャン=フランソワ・ミレー『種蒔く人』にちなんで改名した。
庭は、無料奉仕で造られた。以三和尚からの唯一の注文は、一切を無駄にしない禅宗の教えから、廃物を活用することだった。

龍吟庵:子持障子。
 

霊雲院(れいうんいん): 日露戦争中、東福寺は約150人のロシア人捕虜を収容していた。彼らが手作りしたギターやバイオリンが陳列されている。東福寺の西に任天堂本社があるが、任天堂は、ロシア兵の手ほどきでトランプ製造を始め、日本のゲーム産業史上にその第1歩を記した。口の悪い人は、任天堂のことをトランプ屋という。秀吉が北野大茶湯で使用した茶室を移築した。

退耕庵:書院の北、縁側の床板に黒い丸い点が数点残っているが、これはロシア人捕虜がたばこの火で焦がしたもの。茶室「昨夢軒」において、石田三成、宇喜田秀家、安国寺恵瓊が関ヶ原の戦の秘密の会議・作戦を立てた。
鳥羽伏見の戦では、長州藩の本陣となり、のちに長州藩戦死者の菩提所となり、復興された。

天得院:文英清韓(ぶんえいせいかん)がここの住持となっていたとき、豊臣秀頼からの依頼により、方広寺の梵鐘の鐘銘を考えた。方広寺鐘銘事件により、この寺も衰微した。
芬陀院:通称雪舟寺。世界十大文化人。外国切手に登場した最初の日本人。庭の背景が竹やぶになっており、風が吹いて竹が揺れると、相対的に亀が動き出すような錯覚に陥る。崩家型燈籠
同聚院:高さ2.65mもある日本最大の木造不動明王像がある。かつては平安時代の藤原道長も手を合わせた。働く女性の守り本尊として厚く信仰されている。モルガンお雪のお墓がある。結婚記念日である1月20日は、「玉の輿の日」といわれる。モルガンお雪の三回忌のときにフランスから送られた新種の白バラ「ユキサン」が今もなお花を咲かせている。

正覚庵:戦後、心無い者達に建物や境内の樹木が荒らされたとき、当時の住職が筆を執って、行いを改めるよう一筆書いて貼ったところ、やがて鎮まった。住職は筆の働きに感謝すべく、筆供養を勤労感謝の日に行うようになった。
勝林寺:ムカデは毘沙門天のお使いとされる。細長い体や足が鉱山の鉱脈のように見え、お金のことを俗に「お足」と言うが、その「足」つながりで、ムカデが財福をもたらすとイメージされる。「眠りナマズ」境内には伊賀焼の鯰像が置かれている。目をつむって寝ている姿なのは鯰が暴れて地震を起こさないようにするため。

光明院:苔に埋められている小石は、浜辺に打ち寄せる波しぶきを表している。サツキやツツジを雲紋になぞらえて刈り込み、雲の上に茶亭蘿月(らげつ)庵があり、月が昇る姿を形どる。

 

東寺(とうじ)
そうだ京都行こう『ブルっときたのは、寒さのせいだけかなぁ。こういう時のほうがむしろ感じやすかったりするって言うものね』1995冬
そうだ京都行こう『著者、空海。空と海。東寺「五重塔」の中は、まるごと一冊の巨大な哲学書でした』2000冬
そうだ京都行こう『青空に一番似合うのが、高層ビルってわけはない』2007初夏
そうだ京都行こう『どういうわけだろう 今年は一本の桜と じっと向き合う春にしたかった』2011春

正式名称は、教王護国寺。真言密教が教えの王、最高の教えで、それを持って国を守るという意味。
拝観が始まったのは、昭和36年から、講堂の内部が公開された。その後金堂などの公開が始まった。
毎月21は、弘法大師(空海)の命日であり、弘法さんといわれる縁日が開かれる。毎月第一日曜には、骨董屋だけのガラクタ市が開かれる。通称・ウラ弘法
◆21日には、九条ネギを食べないという風習がある。かつて弘法大師が東寺付近で大蛇に追いかけられた際に、ネギ畑に隠れて危うく難を逃れたという故事にちなんで。タクシー業界の隠語で、「ネギ」という言葉がある。苦情(九条)をいう客のことをいう。
湯葉には「東寺」という別称があり、寺院の東寺で最初に作られたと伝えられてる。湯葉を用いた揚げ物を「東寺揚げ」、白身魚や野菜などを湯葉で巻いた料理を「東寺巻き」といい、すべて湯葉を使った料理。
かつては、羅城門を挟んで西寺があったが、今は西寺跡として礎石が残るのみ。正門である羅城門をはさみ、東寺・西寺と巨大な官寺を造営したのは、邪悪な神々や怨霊の侵入を防ぐためだと考えられる。
奈良とは違い、京都に平安時代の寺院がひとつもないのは、平安京で宗教政策上の理由から、東寺と西寺をのぞいて、都の中に寺院を造らなかったことによる。すべての寺院は、鎌倉時代以降のものである。

土塀の東南の角にかつて白虎の像を刻んだ瓦が置かれており、その白虎の像がまるで猫のように見えたので、いつしか猫の曲がりと呼ぶようになった。 昔から猫の曲がりの前を通るとなぜか不吉な事が起きるとして京の人々に恐れられいた。そのため、今でも京都の人々の間では、花嫁を乗せた車は、猫の曲がりのある九条通を避けて通るといわれている。
道路は西南の方角に進むにつれ、土塀とずれている。これは西国街道とつなげるため。

南大門は、三十三間堂の西門を移築したもの。ちょうど西大門付近が、いまの京都国立博物館の用地に決まって、移転するか壊すかしなければならなくなったという事情があった。いたみがひどくクズレ門と呼ばれていた。買取額は800円だった。

江戸時代は「羅城門」と呼ばれていた。

伽藍配置をみてみると、北から食堂、講堂、金堂が並んでいるが、食堂と講堂の間が、講堂と金堂の間と比べて、少し遠くなっている。これは、食堂は本来、僧の修行の場であり、仏像が置かれ仏の世界を意味する講堂・金堂から少し離して配置することによって、人が悟りに至るまでの長い距離(修行)の存在を表している。

 

不二の桜は、小さな丘を作り、その上に建てられている。これは地下を掘ると埋蔵物が発掘されてしまうため。

講堂の配置は、右から「天、明王、如来、菩薩、天」

◆境内は、東西255メートル、南北515メートルの長方形。
その寺域のなかで大伽藍が建っているエリアは、東西南北とも255メートルでほぼ正方形です。
その中心に講堂は位置しています。

 

大日如来の印相は、左手の薬指を立てて右手で握ったような形をしており、最高の智を表す智拳印という。忍者がドロンと消える時の形に似ているのは、忍者が密教の影響を受けていたため。左手(不浄、悪)を右手(善)で包み制するという意味。

 

如来の4仏は、江戸時代に再興されたもの。阿弥陀如来の頭部のみ古仏を用いて再興したものなので、ブツブツ感が他と異なる。

5体の明王は、そろって背中に炎をしょっている。

 

不動明王は日本最古で、空海の自作。
◆剣に注目してください。持国天の剣は、片刃。対峙する人に向けられています。一方、明王の剣は、諸刃。刃は外に向き、内に向いています。明王は命がけで人を救おうとしています。救われようとする人も命がけで向かわなくてはいけない、と、剣は示しています。

 

諸刃(もろは)の剣(つるぎ) の解説

《両辺に刃のついた剣は、相手を切ろうとして振り上げると、自分をも傷つける恐れのあることから》一方では非常に役に立つが、他方では大きな害を与える危険もあるもののたとえ。両刃の剣。

 

 

不動明王座像:右手の剣は人々の煩悩を断ちきり、左手の羂索で仏に背くものを縛り上げる。不動明王のみ立っておらず座っている。その理由は”不動”だけに立つ必要がないため。
降三世明王立像:過去現在未来の三世の煩悩を降伏させる。インド古来ヒンズー教の神を踏みつけ、巨大さを誇示している。阿修羅の兄弟。降三世印:両手を胸の前でクロスし、小指を絡める仕草は降三世明王特有のもの。鳥摩妃は、自分の乳房を踏む明王の足にそっと触れており、なんとも官能的。
軍荼利明王立像:まっすぐに逆立つ髪が強い憤怒を表す。六道にちなんで6つの顔と6本の手足を持ち水牛に乗ったスタイル。ドクロの首飾りがトレードマーク。「軍荼利」という意味は、とぐろを巻く者。その名の通り、腕や足には蛇が巻き付いている。胸前で腕を交差させ指を3本立てるという独特の印を結んでいる。
大威徳明王座像:その名のごとく大きな威力で敵を倒す。6面6臂6足。水牛が陸でも水中でも自在に歩けるように、迷いと悟りの世界を自在に往来でき、あらゆる障害をも乗り越えて進んでいけることを示している。
金剛夜叉明王立像:衣の袖を翻し前へ踏み出したポーズで相手を威嚇。
 

インド象にのる帝釈天は、「日本一のイケメン仏像・結婚したい仏像ナンバーワン」ともいわれている。密教像の特徴とされる額の第3の目もチャームポイント。光の加減で午前10時右45度からみた姿が一番イケメンといわれている。
梵天はエリツィン似?

持国天:宮本武蔵はこの像を拝して、二刀流を開眼したとの説もある。

金堂の北東(鬼門)の屋根には、額に五芒星を付けた鬼瓦が鎮座している。鬼をもって怨霊を封じる。
金堂:同時期に方広寺の大仏殿が建設されており、豊臣秀頼がそれを模して造られたといわれる。堂内の柱の根元に四角い穴が空いている。ここに角材を入れて柱を回し柱の向きを調節した。礎石には東西南北を示す刻みがあるものがある。その線に合わせて柱を動かした。
金堂南側の上の扉を開ければ、本尊の顔が明るくなる効果がある。

 

金堂の薬師如来坐像の足元には、十二神将と呼ばれる12名の守護者が、下から如来を支えている。十二支との関連性強調され、十二支の動物の標識を頭部につけている。
薬壷を持っていないが、これはより古いスタイルのため。


五重塔は、できれば「東寺の塔」と頭韻をふんで呼びたい。
五重塔と京都タワーの写真を撮りたいのなら、九条油小路通りの上に架かっとる陸橋からがお勧め。橋からみえる街灯は、五重塔をモチーフにしている。
五重塔は、心柱を大日如来に見立て、金剛界四仏が守護している。ここでも曼荼羅の世界が見られる。
五重塔(国宝)は、五重塔としては日本で最も高い。塔は、「地、水、火、風、空」の五大(宇宙を構成する五つの要素)を象徴している。一層目の屋根の下に天邪鬼がいる。天邪鬼の反発する力で塔を持ち上げるという意味があった(縁の下の力持ち)。

現在の塔は5代目。過去において地震や雷による火災で倒壊した。都では随一の高さであったので、雷が落ちやすかったといえる。
心柱は突き抜けていない。積み木を積み上げたような構造。地中に埋められた柱は一本もなく、すべて基壇の上に置かれている。
「以前は一家の大黒柱であったが、今の私は心柱。心柱は重要なものではない。」と自虐的なギャグがある。
須弥壇下の彩色が少しずれている。これは心柱が屋根を突き上げてしまい、それを直すために約50センチほと切り下げた証拠。心柱が突き上げるのは、歳月を経ると多くの部材で積み上げられた塔身は乾燥で収縮するが、独立した心柱は収縮しないから。

 

内部の柱は、廃仏毀釈により削り取られた跡がある。空海などの実在した人物は削り取られていない。

 

真言八祖像:真言密教の方を伝え護持したインド・中国の僧侶に、我が国に真言密教を伝えた空海を加えて描かれた像。
内部の天井にはスプリンクラーが。
あるとき突然南に傾いてしまったため、北に池を掘って傾きを直したという。実際に五重塔の北側には瓢箪池がある。

少し前までの京都の建築では、「東寺の塔の高さを越えない」という暗黙のルールがあった。
帰路に際し、東京人が東京タワーをみると帰って来た感がするが、京都人にとっては東寺の塔を見ると帰って来たと安堵する。
明治元年、鳥羽伏見で旧幕府と薩摩長州の軍勢が激突し、戊辰戦争の火ぶたが切って落とされる。そのさい東寺は薩摩軍陣営となった。西郷隆盛は五重塔に上り戦況を確認したという。
世阿弥は、「どっと沸かす芸などは駄目だ、それは田舎者が京に上って来て、東寺の塔を見てびっくりするようなものだ」といっている。
地図記号でいうと、高塔にあたる。京都タワー・東京タワーと同じ。

四重塔や六重の塔がないのは、陰陽思想の影響という説がある。奇数を陽、偶数を陰と考えた。

国宝館の兜跋毘沙門天立像は、股間の真下から女人が顔をだしている。兜跋とは、中央アジア吐蕃国(とばん、チベット)を意味する。腕には海老籠手という防具を使用。

ヘルメス神(道路の神であり、霊魂の水先案内人。伝令役として表現される場合、いち早く神の意を伝えるという意味をつけるため、素早さの指標として鳥を表現した)→毘沙門天 頭には鳥の模様が。仏像だが歯を見せている。日本にはない甲冑。

 

大師堂では、毎朝「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)が営まれている。大師信仰の同行二人(どうぎょうににん)もこの大師不滅とかかわる。高野山で入定(にゅうじょう:死ではなく永遠の宗教的瞑想)している状態。
弘法大師は、現在でもこの住房に生活されているという信仰に基づいているので、建物は寺院建築ではなく、住居建築になっている。
弘法像に向かって祈ると、方角的に和歌山の高野山に向かって祈ることになる。北を向いているのは、皇居があり、皇室と国家の安泰を願い見守っているから。

太子堂の背後に陀羅尼の呪文を甲羅に背負った大きな石造りの亀に触ると、病気が治るという信仰がある。この亀を贔屓(ひいき)という。贔屓は中国の伝説上の生物で、龍の第一子。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるからに他ならない。
2つ隣には天から降ってきたといわれる天降石もあり、この石を撫でた手で体の悪いところをさすと病が治ると言われている。
柱には、八雲の紋という朱色の文様が見られるが、これは"を崩したもの。なぜなら東寺は別名"左寺"なので。
太子堂の裏の不動堂は開かずの扉で、今まで学術調査や建物改修に携わった人が早死にしているために、触れないようにされている。
太子堂の弘法大師坐像は、康勝(空也上人立像)の作で日本最古の大師像といわれ、他の大師像の模範とされている。


瓢箪池:創建時にはなく、いつ頃からあるのか不明だが、防火用水を確保するために造られた。

宝蔵:平安時代のもので、京都で最古の建築とも言われる。堀には、カエルが3匹刻まれた石がある。延焼しないように堀に囲まれている。
小野道風ゆかりの柳:小野道風は平安時代の貴族であり書道家。藤原佐理と藤原行成と合わせて三蹟といわれている。道風が、自分の才能のなさに、書道をやめようかとスランプに状況のなか、蛙が一生懸命に柳に飛びつこうとしている光景に出くわす。どうせ無理だろうと眺めていると、蛙が柳の葉に飛びついた。この光景をみて道風は頑張って努力すれば道は開けると悟ったという逸話がある。花札の柄。
東大門:南朝方の新田義貞に攻められ、危機に面した足利尊氏が、門を閉じたことで難を逃れたという故事により、「不開門」と呼ばれ出入りできない門。外に回ってよく見ると、小さな穴がいくつも空いているのがわかる。尊氏が新田義貞軍に攻められた際に、新田軍が放った矢の跡である。2010年に、解体修理のために開かれた。
慶賀門:かすかに丹塗りの残映を残す。
北大門を出て観智院に向かう櫛笥小路は、京都に唯一残る平安時代と同じ12メートルの道幅の道。

曼荼羅:東寺の曼荼羅は、平面的な絵画やシンボルではなく、立体的な像(彫刻)3Dとして表わしたもの。曼荼羅とは、サンスクリット語で「本質を図で示したもの」の意味。漢字自体には意味はないが、「荼」(だ)は「茶」(ちゃ)とは別字。
定番ギャグは、売店にて、「抹茶ソフトでも空海?」。
パンフレットの題字は、榊莫山先生による。
ペットお守りがある。
東寺の防災訓練には、仏像を背中に担いで逃げる訓練がある。


南禅寺小方丈の襖絵は狩野探幽筆「水呑みの虎」として有名。
繁殖期にある虎は、気性が激しくなり、盛んに獲物を求め、笹に噛みついて、歯を磨くようになるので、虎と笹は一緒に描かれる。虎は勇敢、竹は正直を表すという
「虎になる」とは、酔ってあばれる。泥酔することをいう。なぜ虎かというと、女房の隠語スラングで、お酒のことを「ささ」と言った。笹には虎がつきものなので。
トラは非常に手厚く子育てをすることで知られており、このことから非常に大切なものを指す「虎の子」という言葉が生まれた。

とらや:和菓子の老舗。「天皇の御用を務めることが使命であると」天皇とともに京都を離れ、東京に本拠地を移してしまった。東京土産としてとらやの和菓子を持参されると、京都人は内心困惑する。虎屋では、当主として家業を引き継いだ人以外の兄弟は家業に加わらない。一代一人という不文律がある。経営をめぐって親族同士の対立や不和を巧みに避けてきた。