大雲院(だいうんいん)

織田信長・信忠親子の菩提を弔うため。寺名は、信忠の法名から。正親町天皇が経済的支援を受けた恩義に報いるため。本能寺が襲撃された際、妙覚寺にいたが、隣の二条御所(二条殿)に移って、誠仁親王を逃がした後に、戦って自刃。 正親町天皇は息子を守ってくれた信忠のために大雲院を創建。
前田玄以・石川五右衛門・富岡鉄斎ら有名人の墓が多い。噂の域をでないが、釜茹でに使われた釜が戦前まで、東京の刑務所協会にあったという。
祗園祭の鉾を模した36mの祗園閣は、銅閣と称されている。伊東忠太による設計。他の作品として、西本願寺門前にある伝道院、平安神宮、東京の明治神宮、豊臣秀吉の石塔。
祇園閣は、晩年の大倉喜八郎が、伊東に設計を依頼したものだが、この建物が竣工した翌年に喜八郎は死んでしまった。そうしたエピソードも加担し、祇園閣の威容は怖いほどの存在感を放っている。喜八郎の没後、相続した喜七郎が気味悪がって建物に足を踏み入れなかったという有名なエピソードもある。
先端の鶴は、喜八郎の幼名「鶴吉」にちなんで付けたもの。鳳凰ではない。

大倉喜八郎:大倉財閥の設立者。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争で兵器の輸入・軍需品の供給をおこなったので、庶民からは死の商人と嫌われていた。帝国ホテル、帝国劇場、ホテルオークラ、大成建設、サッポロビール、鹿鳴館、大倉山ジャンプ競技場。
平家物語「祗園精舎の鐘の声~」で有名な八坂神社(祗園社)鐘が所蔵されている。

 

醍醐寺(だいごじ)
そうだ京都行こう『地球にポッと桜色になっているところがあるとしたら京都です。あの秀吉が自慢したくてたまらなかった700本の桜の子孫たちです。少々の人出には負けません』1995春
そうだ京都行こう『「醍醐寺と醍醐味」は、きっとカンケイがあると、思っていました』2001秋
そうだ京都行こう『見事なサクラであればあるほど、長い冬の時間、耐えてきたことを思うのでした。』2009

80代座主は義演。足利義昭の猶子として三宝院に入った。義演の兄は関白二条昭実であり、秀吉に関白職を譲った。 当時、秀吉が関白になることをよく思わない人も多かった。そこで昭実は一度自分が関白になり、すぐ辞職して秀吉に譲った。応仁の乱で荒廃した醍醐寺を秀吉が情熱を注いで復興したのは、この関白任官と無関係ではない。
醍醐の花見:豊臣秀吉が、秀頼、北政所、淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の者など約1300名を従えて盛大に催した花見の宴。この花見が催された理由として、2つがあげられている。朝鮮の戦争がますます不利に傾き、加えて秀吉自身の体力の衰えを感じ、鬱屈した気分をはらそうとした。盛大な花見をやれば、警護の大名が動く、大名が動けば宿舎がいる、食料がいる、秀吉はそういう経済効果を考えていた。当日集まった女性は1300人。そのすべてに3着ずつ新しい着物が与えられ、着物代だけでも40億円近くかかったともいわれている。当時の日記によるとわずか七日間で七百本の吉野桜が植えられたことになる。一日百本のペース。時の権力者の威力は凄い。

醍醐味とは、乳味酪味生そ味熟そ味醍醐味、最高レベルの味を意味する。
醍醐とはヨーグルトのような乳製品のようなもの。
醍醐寺関連で、カルピスネタについて。カルピス(株)の創業者三島海雲という人が、乳製品「醍醐味」を発売し、それらを改良して「カルピス」が誕生した。カルピスという名称は、カルシウムのカルにサンスクリット語の最上の味を意味するサルピスとを合わせた言葉です。仏教では五味の最高位をサルピルマンダ(醍醐)と言うので、「カル」+「サルピルマンダ」で「カルピル」、しかしこれは言いにくいので、言いやすい「カルピス」と変えたそうです。「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰の「そのほうが語呂がいい」という意見を採用したそうです。発売は大正8年、77日の七夕。この日にちなんで、カルピスの包装紙には天の河をイメージする水玉模様が描かれています。

五重塔は平安時代に建てられた国宝。 通常の五重塔は、「第1層が1、第5層が0.5」だが、醍醐寺のものは、「第1層が1、第5層が0.61」と黄金比で造られている。

三宝院
唐門の「菊」と「五七の桐」はパスポートの紋様にも。
下段の間:別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台となる。
賀茂の三石:池手前にある珍しい形の石。左の石が賀茂川の上流の「流れの速いさま」を表現し、中の石が中流の「川のよどんだ状態」を示し、右の石が下流の「川の水が割れて砕ける様子」を表現するという。
藤戸石:岡山県倉敷市の藤戸にあった。源平両軍が、当時狭い水道だった藤戸で戦った時、源氏の武将佐々木盛綱は、土地の男からあらかじめ海の浅瀬を聞き出し、戦の当日まっさきに対岸の平家軍の陣へ押し寄せて、海を馬で押し渡ったのは佐々木が初めてだと、大いに武名を高めた。この時盛綱は、浅瀬の秘密を他人に知られたくないので、教えてくれた男を浮州の岩の上で刺し殺した。その岩が藤戸石だといわれている。そうした故事があるうえに名石だったので、いつか京都へ移されて庭石に使われるようになった。
藤戸石を持つものは天下を制するとまでいわれた。脇石とともに阿弥陀三尊を表すとされる。
本堂前の庭は、白砂と苔だけで作られた「酒づくしの庭」と呼ばれる。ひょうたん型を徳利、円形を盃に見立てた楽しい趣向。
豊臣秀吉作庭の庭であり、枯山水でありながら、池もある。贅沢好きな秀吉らしく良いとこ取りをしている。
宸殿の醍醐棚は、天下三名棚とされる。桂離宮「桂棚」修学院離宮「霞棚」
醍醐棚の左に帳台構えがあり、この飾り金具は鉄線花の文様。

 

大徳寺(だいとくじ)

そうだ京都行こう『そこは、四畳半の喫茶店でした。余計なものが、ひとつもないんです。 だから、相手のことを、考えるしかなくなりました。たったお茶一杯で人間関係のコツ教わりました。』1998夏・黄梅院
そうだ京都行こう『古くからあるのに古くない。毎年新しい生命力を 緑からもらうようにできていました』2010初夏・高桐院

2020年から国宝の方丈などの部分解体修復が進められています。その過程で方丈内に敷き詰められていた114枚の畳がすべて取り外されました。このうち4枚の畳の裏に、江戸時代初期の「寛永十三年 結夏日」の墨書がありました。「結夏日」とは、夏の修行「夏安居」の始まる日。大徳寺では4月15日にあたります。つまり「1636年4月15日」となります。文化財担当者は「畳職人の間では、大徳寺の畳床は日本で一番古いと知られていたが、日にちまで確認できた」と言います。


金毛閣:金毛とは、金毛の獅子のことで、衆生を救うべき禅僧をいう。山門をくぐり境内に入る者は、金毛の獅子となって下化衆生(生を受けたものすべてを教化し救済すること。菩薩が利他の行として行なうもの。)せんことを。
山門事件:山門楼上に利休像が安置されていた。豊臣秀吉はこれに激怒した。門の下は勅使も通れば、自分も通る。足で踏みつけるなど無礼である。利休は利休屋敷で自刃した。烏丸通には歩道橋が無い。
唐門:日暮門。日光東照宮の日暮門の模型。
毎月28日は、利休の月命日のため込み合う。着物を着た淑女の声が境内に鳴り響く。

大仙院:国宝の玄関がある。玄関は、玄妙深遠なる関所をいう。本来は仏門への関門を意味する。この玄関は、日本最古の玄関建築である。
龍源院:東滴壺(とうてきこ)は、日本最小といわれる庭。
高桐院:客殿の西側に、利休の「天下一」といわれる石灯籠がある。これは、細川忠興とその妻ガラシャの墓(明智光秀の娘)と伝えられるガラシャとはラテン語で恩寵の意味。忠興の発明したものがフンドシ。越中ふんどしといわれるのは、ふんどしをし始めた頃、越中守の職についていたことから。出雲阿国のお墓もある(キリシタンだったという説もある)。森鴎外の小説で有名な興津弥五右衛門のお墓も。元総理大臣細川護熙は18代。
 拝観するのは、土日や平日の午後3時以降は避けたほうがよい。なぜなら近くの高校生の部活の声が鳴り響いているので。
 本堂の南側に広がる庭は、別名 「 楓の庭 」 と呼ばれている。
 三斎が加藤清正から贈られたという 「 袈裟型手水鉢 」 が据えられている。三斎はことのほかこの手水鉢を気に入り、江戸への参勤交代時にも運ばせて使用したとされる。

聚光院:千利休を祖とする茶道家元の歴代の墓がある。利休の墓に耳を当てると、茶をたてる茶筅の音がかすかに聞こえるといわれる。
真殊庵:一休和尚の住んでいたところ。寺名は、月に照らされた雪が真珠のように輝いていたという故事に由来する。
総見院:信長の墓所だが、遺骨は納められていない。秀吉が信長の木像を2体作り、その1体を焼いて、灰を墓に納めた。秀吉が信長の葬儀を営み、それ以後戦国大名たちにとって大徳寺に塔頭を持つことがステータスになった。 親子塀。
三玄院:石田三成の墓がある。古田織部のお墓も。
興臨院:日本最初の床の間がある。
瑞峯院:大友宗麟の法名から。
黄梅院:本堂前の破頭庭。苔面の三石は「聴聞石」と呼ばれ、本堂に祀られている釈迦の説法を聞いている姿という。

 

ぜんざい:最初に食べた一休宗純が、仏教用語である「善哉(ぜんざい、よきかな)」と絶賛したことが名前の由来。「善哉」とは仏が弟子を褒める時に使う言葉。
 

大徳寺納豆:中国から鑑真が持ち込んだといわれ、それを一休宗純が大徳寺に伝えたとされている。味は味噌やしょうゆに近い。料亭では着物を着た客が醤油で着物を汚さないように、お刺身に大徳寺納豆を刻んだものを出すところもある。

 

大丸(だいまる)

◆ヴォーリズの設計:店内各所には現在も、ヴォーリズが好んで用いた八芒星(星形多角形)の意匠がみられる。

◆創業者・下村彦右衛門正啓

背が低く、頭が大きく、耳たぶが垂れ下がっていて福々しかったので、福助人形のモデルという説もあります。
経営理念「先義後利」(義を先にして利を後にする者は栄える)「先義後利」とは、顧客第一主義に徹すれば、利益は自ずからついてくるという考え方。「義」とは「商売における正しい道」「公共のために尽くす気持ち」を意味し、顧客満足を目指した経営を徹底して行いました。

エピソード「大塩平八郎の乱」

大塩平八郎は、1837年(天保8年)奉行に訴えを起こし、子弟数人と蜂起しました。このとき富豪や大商人はことごとく焼き討ちにあいましたが、大丸は日ごろから暴利をむさぼらず徳義を重んじていたことがよく知られており「大丸は義商なり、犯すなかれ」と部下に命じ、焼き討ちを免れたと言い伝えられています。

 

高瀬川(たかせがわ)

京都に「近代」をもたらしたのが琵琶湖疏水だったとすれば、「近世」をもたらしたのは、高瀬川だった。新たな水路が京と大坂を結び、物資を運び、人を運び、やがて幕末の勤皇の志士たちを運んで京都を再び歴史の舞台に押し上げた。
秀吉が方広寺大仏殿再建のため物資搬入用に開いた。工事は角倉了以が担当した。
角倉了以が高瀬川を開こうとしたのは、豊臣家のためではなく、徳川政権の実現を確実と見た上での投資。方広寺建築の資材運搬のためなら、五条辺りに起点があればよい。それが二条まで北にのびているのは徳川の二条城を計算に入れていたから。
高瀬川を上ってくる物資のほとんどは、「一の船入」にあった角倉屋敷に積まれた。二条の角倉屋敷はその後、織殿となり、現在は日本銀行に変わった。経済の鍵を握るものの線から外れていないのはさすが。

この運河の川筋を上下する船を高瀬舟といった。下りのときは川の流れによるが、上りのときは運河沿いに設けられた小路を、「ホーイホーイ」の掛け声とともに、人がひいて上った。
江戸中期の記録では、188艘もあった。大正9年に全廃された。
高瀬舟とは、船底が浅く、平らな、幅のある浅川用の舟をさした。森鴎外の「高瀬舟」で有名になった。

木屋町の地名の由来:高瀬川を利用し、薪・炭・柴・材木を扱った業者が多く住んでいたため。当時は樵木町通(こりきまち)と通称され、いわゆる「木へん」の商売が集まっていた。

◆角倉了以の保津川開削400年目に際して、平成18年に了以の業績を顕彰する様々な事業が行われた。その最終的な目的は保津川を世界文化遺産に登録し、より多くの人に保津川を知ってもらうことである。この活動はNPO法人プロジェクト保津川に引き継がれ、保津川を美しくするために始まったプラスチックごみ削減の活動は、亀岡市によるレジ袋を禁止する全国初めての条例につながるなど、環境保全のトップリーダーとなっている。

 

田中神社

◆境内にいる孔雀はサーカスで使われていて、ご縁があって田中神社が引き取ったのが始まり。孔雀は鳳凰のモデルとされている。

檀王法林寺(だんのうほうりんじ)

◆開山の袋中上人は渡明の船を求めて琉球王国に滞在し、布教に努めた。沖縄の伝統芸能エイサーの起源には諸説あるが、そのひとつが袋中上人が伝えた念仏踊りと言われる。寺と沖縄の縁は今も深く、毎年境内で沖縄フェスタが開かれるほか、三線(さんしん)教室も開催。庫裏の小屋根の上には、沖縄の守り神シーサーが祀られている。

 

智積院(ちしゃくいん)
川崎大師や成田山新勝寺は、末寺。
庭園 :山は「廬山」を、池は「長江」をモデルにしている。 池はあえて泥を入れて濁らせている。
宿坊に宿泊した人だけが拝観できる国宝『桜図』は、部屋を暗くすると花の部分がぼんやりと光って浮かび上がるように見える。花の色に貝の粉が混ぜてある。
灯りを落とした状態で見ると、暗闇に桜の花が浮かび上がる「夜桜」に変化。幻想的で妖艶な、また違った雰囲気が楽しめる。
長谷川等伯:雪舟に私淑した。「等」は雪舟等楊から取ってもので、みずから雪舟の五代目を任じた。そのため雪舟派門弟たちとの争いも辞さなかった。系譜というものが、非常に重視された時代だった。
寺紋は桔梗。由来は、豊臣秀吉の家臣であった加藤清正の家紋から。かつての寺域の祥雲禅寺を建立したため。
「楓図」:長谷川等伯は突然の息子との別離を悲しみ、創作意欲を失いかけましたが、息子の分まで精進しようと自分を鼓舞し、楓図を描き上げました。 桜図と同様な豪華さで楓の古木が枝をいっばいに広げ、その下には様々な草花がみごとに配されています。息子の死という悲痛な思いを乗り越えた力強さと、落ち着いた秋の雅が感じられる等伯五十五歳の時の作品。左右に行くにつれて、枝が下を向いているのは、等伯の心境を表したとも。本来は高さも幅もずっと大きく、天井までの壁一面を覆うほどで、何度も火災に遭ううちに今の大きさになった。
将来を嘱望された久蔵だったが、「桜図」の完成後に急死した。狩野派による暗殺説もある。

『松に黄蜀葵(とろろあおい)図』智積院の障壁画には、秀吉が好んだという「松」が多くモチーフとされていますが、これはつまり、松は豊臣家を示すもの、と考えることが出来ます。
対して、この絵に松と共に描かれている「葵」は、豊臣家とは対立する徳川家の家紋にも使われている花です。
風に揺れる葵の花を、まるで圧迫するかのように上から松の木が枝葉を広げている―これは「豊臣家が徳川家を抑えている」、つまり「天下は豊臣のもの」という意味を暗に示している、と解釈される向きもあったのだそうです。
結局その後秀吉が亡くなり、天下は徳川のものとなります。普通、そのような不届きな話があるものは無くしてしまってもなんらおかしくはありません。しかし一方で、この絵を見た徳川家康が、葵が勢いよく伸び松を覆いつくさんばかりに描かれており、「豊臣の天下は終わり、徳川がそれを凌駕する」という意味に解釈し、わざとそのまま残させた、という逸話も伝えられているのです。
嘘か真かは今では定かではありません。ですが、天下人双方がそれぞれに有利なように、全く逆の意味に読み解かせたというのも、なんとも面白い話です。

鶴松の供養 風の向き 子供目線

 

襖絵には堂本印象の作品が。納得した作品にはフルネーム、今ひとつのできばえの時は名のみ。

 

血天井(ちてんじょう)

関ヶ原前哨戦のときに、徳川家康の留守を守ってくれた鳥居元忠ら1000人超が自刃した板の間の床を、天井に張って霊を弔うもの。現代の感覚からすると、理解できないが。養源院、正伝寺、宝泉院にある。

仲源寺(ちゅうげんじ)

仲源寺が正式名称だが、一般的には目疾地蔵・泣き地蔵で知られる。
寺名の由来は、中原なる人物が、この地蔵菩薩に祈願したところ、たちまちのうちに雨がやみ、氾濫が食い止められた。中原が「人」を「水」から救済したことから、ニンベンとサンズイを付け加えた。
ダジャレのような史実だが、「雨止み地蔵」という名称から、「めやみ地蔵」になった。
お地蔵さんの玉眼入りの右目が、赤く充血して涙を流しておられるように見えることから、いつしか「眼病に悩まされている人々の身代わりになって、お地蔵さんが目を患っている」と言い伝えられてきた。
入口には「雨奇晴好」(うきせいこう)の扁額がかかる。意味「雨のときも、晴れのときも、それぞれに景色がすぐれていること」人生に起伏があってもそれはそれで素晴らしいものであるという考え。山水の景色は、晴れた日は美しく、雨の日は趣があり、どちらも見事であるという意味。

入奉納された提灯は、ほとんどが周辺のお茶屋さんか芸子・舞妓の名前。

武信稲荷神社
樹齢850年のエノキは、平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を移し植えたと伝えられる、京都最大最古の霊樹。
エノキは旧来その名から「縁の木」とも呼ばれ、昔はこのご神木の下に毛氈が敷かれ、お見合いの席が設けられたという話もある。

 

辰巳大明神(たつみだいみょうじん)

京都御所より辰巳(南東)の方角に位置するため。
祭神は狸で、昔辰巳橋に住んでいた狸のいたずらに困った人々が、狸を祭っていたずらを治めたと伝える。

狸谷不動院(たぬきだにふどういん)
 

知恩院(ちおんいん) ちよいんさん
そうだ京都行こう『巨大組織「比叡山」からひとり飛び出した法然。鎌倉時代の「フリー宣言」でした。勇気があって成功して、カッコイイと思います』1997冬
そうだ京都行こう『「冬の京都の決心」、長持ちしそうな気がするなあ』2001冬

「月影の 至らぬ里は 無けれども ながむる人の 心にぞ住む」 この和歌は法然上人が詠まれた「月かげ」のお歌。月の光はすべてのものを照らし、里人にくまなく降り注いでいるけれども、月を眺める人以外にはその月の美しさはわからない。阿弥陀仏のお慈悲のこころは、すべての人々に平等に注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人のみが阿弥陀仏の救いをこうむることができる・・・という意味。

三門は、高さ24m、横幅50m、屋根瓦・7万枚。
「華頂山」扁額は、畳2枚分の大きさ。
7不思議のチエックを忘れずに
「鴬張りの廊下(仏の誓いを表す)」「白木の棺(不惜身命)仏法のために命を惜しまない」「忘れ傘(知恩・報恩)」「抜け雀(心をみがくの教え)」「三方正面真向の猫(親の心)」「大杓子(仏のすくい)」「瓜生石(はげみの心を見る)」

男坂:映画「ラストサムライ」にも登場。皇居の設定で、トム・クルーズも歩いた。女坂は当時のバリアフリー。
単なる徳川家の菩提寺というだけではなく、徳川幕府の要塞といった側面をもつといわれることが多い。例えば、巨大な山門は、京都御所を一望することができるために、御所を監視する目的があったという。そのため南面していない。また、背後には山があり、戦力的に攻めにくい。いざとなれば難攻不落の城郭として機能する。鶯張りの廊下は、寺院では大変珍しい。二条城の廊下と同様の仕組みになっている。
白木の棺:夫婦は建物の秘密を保持するために死を選ばされた可能性がある。三門の上から旗を振って、それを二条城のやぐらから見て京都御所を監視した、という説もある。
三門のところから西に下ってゆくと右手に樹齢400年のムクロジがある。果皮が石鹸の代用として洗濯に、また種子が念珠に用いられるなど、利用価値が高かったことから、築地が造成された江戸時代初期に植栽されたものと考えられいる。羽根突きの羽根の玉にも使われる。

御影堂の屋根の上にちょこんと乗っている2枚の瓦。これは「完成したものは滅び崩れ去るのみ」という謂われに習ったもので、御影堂がまだ未完成の状態であることを表している。いまなお建築途上にあると心構えを持つようにと教えている。建物は完成すると、後は朽ちていくだけ。人間も慢心すると精進を怠りがちになるので、永遠に完成しない。「
満つれば欠くる世の習い」
御影堂は法然上人を祭る堂で、4000人が入れるという広い堂内(450畳)の入ってすぐが外陣で、低い格子で内陣と区切られている。堂の天井で、外陣のあたりは素っ気無い普通の天井だが、内陣に向かって組天井の細工が込み入っていき、人の場から僧の場、仏の場と格式が高くなっていくのがわかる。
忘れ傘:傘は雨、つまり水を呼ぶと信じられ、知恩院を火災から守っているという。御影堂の扉には、カッパ、亀、蝉の飾りがある。蝉は蝉時雨ということで雨を連想させる。蝉は殺生をしない。忘れ傘の下には長い棒があって、住職が見えにくい観光客に示してくれる。
御影堂前の松の木は、一本の幹から六本に枝分かれしているので、南無阿弥陀仏の松とよばれている。

方丈は108の畳。通路が2段になっているのは、身分の差や通路として使用したため。
小方丈:東側の庭園は「二十五菩薩の庭」と呼ばれ、阿弥陀如来が西方極楽浄土から25名の菩薩を従えて来迎する様を石と植込みで表現したものである。
山亭庭園:山亭は霊元天皇の第十皇女・吉子内親王の宮殿を、ご逝去されたときに下賜されたもの。生後わずかで幼い7代将軍徳川家継と婚約、家継は8歳でこの世を去る短い生涯だった。正室となる予定であった吉子は3歳で余儀なく出家。簡素な建物からは運命に翻弄された一人の女性の静かな人生が感じられる。
勢至堂を奥へ進んだ所に、『濡髪大明神』のお社がある。ここには、知恩院を火災から守る、濡髪童子をお祀りしている。また、「濡髪」という名がなまめかしい連想を誘うのか、縁結びの信仰が生まれて、とくに祗園あたりの水商売の女性の参詣が多い。
「勢至」とは、偉大なる智慧の「勢」いで悟りの世界へ「至」らしめるという意味がある。
早来迎: 阿弥陀仏を急角度に描くことで早さを強調するために、縦長の画面が基本。ところが、縦長の画面では角度をつけるほどスピード感が出るものの、余白が少なくなり三次元の奥行きに欠けた非絵画的なものになってしまう。知恩院のものは、余白に背景を描くために、普通は使わない正方形の画面を使った点で抜きん出ている。さらく、阿弥陀仏を明るいトーンで、背景の山水を暗いトーンで描き、コントラストをつけることで、奥行きを求めた西洋的な絵画理論に沿ったような描き方をしている。

「昔、霊厳上人がお説教をしていた雨の日に、子供がおかっぱ頭を濡らしながら聞いていた。声をかけると、ここの御影堂を建てているところにあった穴に住んでいた白狐といい、住処を壊された仕返しをしようと思っていたが、お説教を聞くうちに心を改めたと涙を浮かべた。上人は傘を貸し、神通力で寺を守ってくれるように頼み、白狐は祠をもらうことになった。知恩院を火災から守ることを誓った証に、御影堂の軒下に傘を置いていったとも言い伝えられている。」白狐が出入りしていたという祠の裏の穴にも小さな鳥居がある。
千姫:二代将軍秀忠の娘で、家康の孫。秀吉の遺言により、徳川と豊臣の架け橋となるべく豊臣秀頼の妻となる。しかし、その後豊臣家と徳川家は相争う仲となり、大阪夏の陣で秀頼は自害し豊臣氏は滅び去る。その際、千姫は戦火の中を助け出され、後に本多忠刻の妻となり姫路城へ移った。しかし、忠刻とも死に別れた。
千姫のお墓には葵の紋所が。濡髪堂の左に佐藤春夫(「田園の憂鬱」)のお墓も。
影向石:法然上人がご臨終の時、加茂明神が光臨したという伝えがある。
紫雲水:法然上人がご臨終の時、聖衆がご来迎し紫雲が水面に現れ、芳香が漂ったという言い伝えがある。

境内の南側にある大鐘は、大晦日のテレビ番組「ゆく年くる年」にたびたび登場している鐘。日本最大級の規模を誇り、日本三大梵鐘(東大寺、方広寺、知恩院)の一つ。梵鐘は 「撞けば 20分間も余韻が残る」 と言われる。大きすぎて、戦時中の金属供出をまぬがれたという逸話もある。
アインシュタインが知恩院を訪れたとき、大鐘を僧侶がついているときに、わざとその真下に入った。周囲の人は耳の鼓膜が破れないかと心配したが、博士は「音がしない位置に立っていた」と答えたという。ちなみに博士のノーベル賞受賞決定は、その日本へ来る船旅の途中だった。
テレビ番組の企画で、共振パワーの実験台となったこともある。指一本で3秒意ごとに鐘を押していくと、次第に大きく揺れてくるというもの。
平成18年に、大鐘をつく撞木(しゅもく)が新調された。新調は12年ぶり。これまで使われてきた撞木も新調時には4・2メートルあったのが、12年たって約50センチも短くなったという。新しい撞木は国内で同様の木材を調達するのは難しく、台湾の高地で伐採されたスギ材で作られた。20年前に購入し、10年間水につけて樹液を抜き、さらに10年間乾燥させて仕上げられた。
方向寺鐘名事件から22年後に完成した鐘には、南無阿弥陀仏と鋳造者の名前が記されただけ。後の災いを避けようとう心配りがあったのではと推測される。
鐘が撞かれるのは年4回だけ。成人式、法然上人の命日、12/27の試し撞き、大晦日。

 

境内北の黒門から入ると、頑強な石垣、屈折する石段、武者窓のついた土塀が目に付き、まるで城郭のよう。

知恩院南門前橋:長さ4.7m、幅6.4mで、おそらくは日本一短い石橋。
 

知恩寺(ちおんじ)
毎月15日には、手作り市が行われる。
寺名の由来:法然の弟子・源智の父は、平氏の武士だったため、源氏による平氏狩りで息子の源智の身にも危険が及んだ。その際に、法然上人がその身を守ったといわれ、源智が法然上人の恩を感じて名付けた。
御影堂の裏に法然上人廟があり、入り口の門は「念」の字をかたどった念字門。
墓地には豊臣秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛の墓がある。鳥居元忠の墓には、石の鳥居がある。

 

長楽館(ちょうらくかん)
明治時代に「煙草王」と呼ばれた実業家、村井吉兵衛氏によって建てられた別邸兼迎賓館。ちなみに館内は禁煙。
日露戦争が始まると、軍事調達を目的にタバコ産業は国の専売となった。村井は国から得た補償金で、銀行や紡績会社を設立。世界恐慌で破綻した。
伊藤博文が、「この館に遊ばば、其の楽しみやけだし長(とこし)へなり」として命名した。
設計は、元立教大学校長の宣教師アメリカ人建築家ガーディナーによる。他には赤坂御所の設計をした。
施工主である清水満之助は、大手ゼネコン清水建設の三代目店主。平安神宮も清水建設による。
長楽館への郵便物が、長楽寺に誤送されることがたまにあるとのこと。

 

長楽寺(ちょうらくじ)

建礼門院徳子の肖像画がある。源氏の目を逃れるためか墨で黒く上塗りされ、それが時代の経過とともに褪せてうっすらと像が浮かび上がっていることから、「怨念の掛け軸」ともいわれている。

哲学の道(てつがくのみち)

そうだ京都行こう『物事を深く考える、の近頃、流行っていないようですが。いいんでしょうか。思ったよりささやかな散歩道でした。それがかえって、哲学的でした』1997春

名は、ドイツの古都ハイデルベルクにある道からとった。当時の学生にとってドイツの大学は憧れの的だった。
西田幾多郎:京都大学を退官後、一年のうち、夏と冬を鎌倉で、春と秋を京都で過ごしていた。「人は人吾はわれ也 とにかくに吾行く道を吾行なり」

道に敷かれている石は、市電の枕木をリサイクルしている。この御影石は,二年坂、産寧坂、石塀小路などの京情緒あふれる石畳の道として残り、また、京の冬の味覚「すぐき」の天秤漬け用の重り石として今も活躍している。
川の流れは、南から北に流れている。疎水は川ではなく、人工の水路なので、ちゃんと下流(北)に向かって流れるよう設計されている。
綿密な測量をもとに、東山の山すその、標高がより低い場所を選びながら水路が開削されているため、高低に水が流れている。

東山の麓で、傾斜もかなりきつい。そこへ水を流すためには西側に高くて丈夫な堤防を盛り上げなくてはならなかった。よって堤防の西側は、ちょっとした谷底のようになっている。
桜の季節は人出が多いので、裏道を通ったほうがいい。通は、「裏哲学の道」を好む。
よーじやカフェの玄関先に電話ボックスがあり、この電話ボックスから電話をすると恋が実るとか。屋根瓦には翁と媼(おうな)の像があり、桜橋で出会った二人が幸せになれるようにとの思いが込められている。

桜は、橋本関雪の妻、米子夫人が植えたので間雪桜といわれる。自宅白沙村荘に疏水の水をもらったお礼として。
白沙村荘の命名は、近くを流れる白川の砂(白川砂)に由来する。入場すると商売っ気のすごさを感じる。
白沙村荘の池は、大文字の「大」の字が映るように設計されている。
霊鏡寺の右わき道「此奥俊寛山荘地」石標:鹿ケ谷の陰謀が行われた山荘跡地を示す。「鹿ケ谷の陰謀」とは、後白河法皇の近臣である藤原成親、西光法師、僧俊寛らが、平家打倒の密議をめぐらしたが、内通者がいて清盛の知るところなり、死罪流罪となった事件。この席で酒宴の際、瓶子(酒を入れる銚子)が偶然倒れたので,一同が「これは縁起がよい。平氏が倒れたぞ」とはしゃいだというエピソードがある。
霊鏡寺が椿寺といわれるのは、初代門跡の父である後水尾天皇がこよなく椿を愛したことから。最初に14種が植えられ、いまでは50種ほどに増えて春には見事な花を咲かせる。