擬宝殊(ぎぼし、ぎぼうしゅ)

橋などにあるネギの花の霊力をシンボライズしたもの。ネギは、大昔に日本に入って栽培され、「き」とか「ぎ」と一音で呼ばれていた。萌葱色(もえぎいろ)という言葉は今も残っている。ネギの名は、食べるところが主に根際なので根葱(ねぎ)となった。ネギ類の野菜は特有の匂いがする。この臭気が邪気を払って魔除けになると信じられ、またネギは生命力が強く、ネギの花は永く散らないので、縁起が良いと考えられていた。

京都駅

設計は、原広司。札幌ドーム、梅田スカイビルの設計でも知られる。「谷間っていうのは、農耕が行われ、集落が作られ、文化が生まれる場所だと思っています。それに谷間は、空を屋根だと思えば建築になるんです。京都駅ビルも巨大建築の中に谷間を作った感じですね」
中央部の171段の大階段は、京都の1200年の「歴史の階段」「盆地」をイメージし、また非常時の避難経路となることを想定して作られている。
「境界があると同時にない」という日本的な曖昧さの美学を意味する「ガラスのシェルター」で覆われている。
「平成の羅城門」「巨大な屏風」「戦艦」などと形容されている。
お寺の多い京都だけに、京都駅は仏壇、京都タワーはロウソクを連想させる。
明かり取りのためにガラスが多い建築物で、格子になっているのは、京都の条里制を表している。
毎年2月に、「京都駅ビル大階段駆け上がり大会」が行われる。選手達は171段、総高低差・35メートル(11階建てビルに相当)のコースに挑む。初代優勝者は京都サンガFC。
JR京都駅には、1番線ホームがない。貨物専用なので。その代わり0番線ホームがある。お土居の堀跡に、新たな土壇を築いて、1番線ホームを完成させたらしい。
0・30・31番ホームは、558mで日本一長い。
ホームの使用状況:0~10番(在来線)、1114番(新幹線)、3034番(関西空港線、山陰本線:「3」と「山」をかけている)
「スバコ・ジェイアール京都伊勢丹」が2008年2月にオープン。スバコとは、「Superior Variety Concourse」の頭文字をとったもので、『上質でバラエティーに富んだ広場』を意味する。
近鉄百貨店京都店:伊勢丹の出店により業績が悪化し、2007年に閉店。跡地はヨドバシカメラが出店。無印良品は、「蹴りたい背中」の舞台となった。
綿谷りさ(わたやりさ):2004年「蹴りたい背中」で芥川賞受賞。19歳での受賞は史上最年少。
京都駅周辺のエスカレーターは、なぜか関東風の左止まり。
ポルタ:イタリア語の玄関
アバンティ:イタリア語で前に進め。どうぞこちらへとも訳される。
ザ・キューブ: 「キューブ」は英語で「3乗」の意味。同デパートはこれまで京名菓・京みやげを扱う物販店と、飲食店を展開してきたが、新駅ビルでは、新たにファッション雑貨などを扱う物販店も出すことから、これら3つの相乗効果に期待して命名した。

 

京都五山

五山の制のうち京都の禅宗(臨済宗)の寺格、官寺制度

室町幕府は、延暦寺に代わって禅宗を保護することによって、これを対抗勢力に育て上げ、延暦寺の勢力を殺ごうとした。幕府の祭事は基本的に臨済宗によるものとし、政治や外交についても臨済僧を政治顧問の形で処遇していた。

フランシスコ・ザビエルは、京に五つのユニバーシティがあるといった。

南禅寺 - 別格 

天龍寺 - 第一位

相国寺 - 第二位

建仁寺 - 第三位
東福寺 - 第四位
万寿寺 - 第五位

 

京都御所
京都御苑 

◆一部の関西人は、御所のことを皇居という。

◆御所の塀には側溝があるが、ここに近づきすぎてはいけない。塀に落書きをする不届き者に注意を促すための警報装置が作動し、大きなベルとアナウンスが響き渡る。雨の日は雨宿りをしようとし、警報装置が作動することが多い。
◆築地は石の基壇の上にあり、御所の風格をみせる。
◆御所の傾斜:北から南へ低く傾斜している。南北450メートルで、標高差は2.4メートル。南側は三段1.5メートルの石積み

◆設計の段階から、敵が攻めてくることなど一切考慮されていない。お堀、石垣など防衛のための施設は何も無い。これは天皇と国民が支えあいながら長い歴史を共に歩んできた証拠である。大々的に警護しなければならない皇室なら、何百年も前に滅んでいるはず。

◆天皇は、形式的には、東京遷都ではなく、ちょっとした外出を意味する「行幸」となっている。天皇を奪われた京都人に配慮して、明治政府は、膨大な予算を京都に投じた。学校制度の充実、ガス灯、路面電車、琵琶湖からの疏水、それを利用したインクラインなど、日本初とかそれに近い事業が次々に行われた。
◆京都駅から北に伸びる烏丸通は、京都御所に到っているが、昭和3年に昭和天皇の即位式の時には新宿御苑にあった1本のユリノキを増やして、京都駅から京都御所までの並木樹を造った。日本最初の並木道の街路樹であった。烏丸通には歩道橋が無い。天皇陛下を上から見ないようにするためとも。

◆砂利を敷いたところ、緑地の部分は、すべて貴族の邸宅がびっしりと建ち並んでいた。天皇・貴族が東京に移ったため、空き地になってしまった。いわば広大な公家住宅跡群である。
◆平安時代は季節に関係なく、夜明けと同時に仕事を始めてお昼には終わっていた。朝のうちから仕事をする、そこから朝廷という言葉が生まれた。位の高い役人は大内裏の近くに家があったので楽に通勤できたが、位の低い人は家が遠く、夏など夜明けが早い季節は夜中の3時頃に家をでなければならなかった。

◆砂利を敷いたところは、自転車の走行跡が砂地にできて、走りやすくなっている。この走行跡は「御所の細道」と呼ばれる。自転車一台分の幅しかないため、対向車がきた場合は譲り合うのが暗黙のルール。歩くと想像以上に疲れるので注意。
◆京都御苑の外周は約4キロ。この中に住まいを構えるのは、62世帯・183人。
◆千枚漬の優美な姿は、御所に敷き詰められた白砂をイメージしている。
◆蛤御門:禁門の変(蛤御門の変)により、あちこちに白くへこんだような鉄砲の弾跡が数多く残っている。ひな祭りのことを桃の節句ともいう。お雛様にはハマグリを供える。蛤御門のそばには、桃の林が造園されている。

◆仙洞御所:仙洞とは、仙人の住むところという意味があり、上皇のお住まいとして利用された。

◆冷泉院(れいぜいいん):元々は「然」の文字を用いて「冷然院」とされていたが、度重なる火災で焼失と再建を繰り返し、「然」が「燃える」に通じることから「泉」の文字を用いた。
◆冷泉家:歌聖と仰がれる藤原俊成、定家親子を遠祖とする「和歌の家」
・明治時代になってほとんどの公家は天皇に同行して東京に移り、それらの屋敷は取り壊されて公家町は消滅し、跡地は外周に石塁を積んで御苑に整備された。しかし留守居役を預かった冷泉家は京都に残り、ほぼ完全な姿で保存される、近世公家住宅の唯一の遺構となっている。結果として関東大震災や東京大空襲から逃れることができた。
・表門:阿吽の亀像瓦。京都御所の北に位置していることから四神相応の制にいう、玄武神を表している。
・庭には、東に紅梅、西に橘が植えられている。桜ではなく梅なのは、まだ国風化する前の、中国的であった古制によるもの。
・部屋の襖には、牡丹唐草の唐紙が貼られている。この様な無季的な唐紙を用いるのは、歌を詠むおりに、室内から季節性を排除し、絵柄が邪魔にならぬように考慮したもの。
・土間の正面上方に「しゃぐま」と称する藁束が釣り下げられているが、これは祇園祭の長刀鉾に使われたもので、いつのころからか祭礼の後にいただいて、ここに魔よけとして飾るようになった。
◆紅旗征戎(こうきせいじゅう)非吾事(藤原定家『明月記』)
(訓読)紅旗征戎 吾が事に非ず。
(意味)朝廷の旗(紅旗)をおしたてて、外敵を征圧する(征戎)戦争を起すこと。大義名分をもった戦争であろうと(所詮野蛮なことで、芸術を職業とする身の)自分には関係のないことである。
「一流の二流」「超二流」を目指し、それが幸いして政争にも巻き込まれず、京都における近世の公家住宅として唯一の遺構を残すことになった。

 

◆裏松光世は、竹内式部が京都から追放された宝暦事件に連座して、幕府から近臣を命じられていた。その後出家し、裏松固禅と名乗り、30年の間、平安京の内裏研究に励み「大内裏図考証」30巻1400ページを記した。正面の七級の階段を十八級に戻した。

◆幕府は公武合体をはかろうと、孝明天皇の妹和宮の家茂への降嫁を願い入れた。和宮はすでに有栖川宮熾仁親王と婚約していたが、朝廷との融和をはかろうとする要請を受けて、「幕府が10年以内に攘夷を決行し、鎖国に引き戻すのなら」という条件をつけて天皇はこれを許可し、和宮は降嫁した。 「宮さん宮さん」作詞:品川弥二郎 作曲:大村益次郎

 

◆太平洋戦争の影響:終戦直前の頃、京都もいつ爆弾攻撃を受けるかもしれないという差し迫った情勢になってきたので、紫宸殿などの主だった建物を除いて、その他の建物はそれらをつないでいた廊下などをすべて取り壊した。空襲を受けた場合、大きな建物が廊下などでつながっていると、消化が難しいため。

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御所を一巡すれば日本家屋の変遷をみることができる。

 

◆紫宸殿:平安初期の寝殿造 

 

◆清涼殿:平安末期の寝殿造

 

◆小御所:鎌倉時代の書院造 戸は半蔀 床は畳敷き

 

◆御学問所:室町時代の寝殿造 畳敷きの部屋には床と違い棚があり、戸は引き違いの遣り戸

 

◆御常御殿:江戸時代の書院造 現在の日本家屋と変わりない

 

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◆清所門(御台所門):清所とは台所のこと。内裏御用の物品を集まる者が出入りする門。江戸時代京都所司代や御所の警備にあたる武士もこの門から参入した。右側の大きな門柱には、大正12年に青銅製の大きな門燈が付けられた。植物をデザインした大正ロマンを漂わせる門燈も、年を経て古色を帯び、江戸時代の門にしっくりとなじんでいる。

 

◆年中行事障子:表面には正月から6月までの年中行事149項目、裏面には7月から12月までの133項目が書かれている。どの字も字体を変えて書かれている。

 

◆下向(げこう):御常御殿と迎春を結ぶ廊下の下の部分を少し掘り下げて階段状になった部分は、下向と呼ばれる近道。かつては御所内の建物はすべて廊下で繋がれていたので、随所に下向があった。下向を通れば目的の場所に早く着くことができた。

 

◆御車寄せ(くるまよせ):昇殿を許された者が正式に参内する時の玄関

 

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◆諸大夫の間

 

清涼殿の付属施設で、殿上の間と共に、朝廷の役人用の部屋。

 

「虎の間」(公卿の間 岸たい)公家は正式な玄関である御車寄せから参入した。清涼殿に一番近く、三位以上の公卿だけが入室を許された。

 

「鶴の間」(殿上人の間 狩野永岳):公家は正式な玄関である御車寄せから参入した。四位、五位、六位の蔵人が入室できた。

 

「桜の間」(諸大夫の間 原在照):公家は建物の西端の沓脱ぎ石で浅い沓を脱いで参入した。六位の諸大夫。

 

大名は沓脱ぎ石から上がり、桜の間の西側の「西そうの間」で呼び出しを待った。

 

◆襖の引き手は、どの部屋も朱と白に菱紋を並べた二本の鹿皮。

 

◆虎の間と鶴の間の二室を仕切る襖の上部が欄間に対し、鶴と桜の二室間では白壁になっている。

 

◆虎の間と鶴の間の畳の縁は小紋高麗縁(白くみえる)、桜の間の畳は紫縁(赤く見える)

 

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◆新御車寄せ(しんくるまよせ)

 

正面の承明門には石段があり、馬車や自動車では通りにくいので、大正天皇の即位の礼の際に、馬車による行幸に備えて、新御車寄せが天皇皇后陛下の玄関として建てられた。京都御所で唯一のガラス窓の建物で、唐破風の屋根がせり出してつけられている。

南を向いているのは天皇専用の入り口であることを表している。

 

◆月華門

 

◆遠くには大文字が見える。

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◆紫宸殿・清涼殿は平安様式の寝殿造、小御所は寝殿造と書院造をつなぐ鎌倉様式、御学問所は室町様式の書院造、御常御殿は江戸時代の御殿そのもの。よって御所を一巡りすれば日本家屋の変遷を目にすることができる。

◆内裏では歴代の天皇が亡くなると清涼殿を主として、その建物を建て直すことになっていた。この時、古い建物は当時勢力のあった寺がもらいうけることが多く、今も京都の各地にかつての建物が残されている。南禅寺大方丈、仁和寺金堂など。

◆紫宸殿の正面には十八段の階段がある。古くから中国の陰陽思想において、奇数は陽数(偶数は陰数)と考えられ、陽数の極みである「九」は最も好まれる幸運の数字とされてきた。紫宸殿の十八階段とは、陽数の極み「九」が重なる階段を意味する。紫宸殿の屋根のふきかえ工事中に、鯉のミイラがみつかったことも。

 

◆「宸」(しん)の文字は古来、天皇の住まいを表して用いられ、また天皇に関する物事に冠する言葉としても用いられたことから、「宸意」(しんい:天皇の意向)、「宸翰/宸筆」(しんかん/しんぴつ:どちらも「天皇直筆の文書」の意)などの言葉が伝えられている。

◆額の「紫宸殿」の文字はかつては空海の筆だったが、現在のものは、幕末の書博士・岡本保彦の筆による。下から見上げる効果を考えて、上の字は大きく、下にいくにつれて小さく書かれている。

 

◆紫宸殿の南庭 右近の橘 橘は唯一の日本原産の柑橘類 夏は根元一面にムシロを敷いて適度に水分を補給し、冬は屋根をかけて、周囲をすっぽり覆って寒さから保護している。

 

◆陣の定め

 

建礼門

紫宸殿が御書の敷地内でやや西寄りに建って入るため、建礼門も築地塀の南面中央から少し西寄りに建っている。

 

北面の彫刻:費長房(ひちょうほう)役人で、壺の中の老人に10余年仕えて、不老長寿の仙術を学んだ。 老亀(おいがめ):3000年に1回しか首を出さないといわれる3尺もあり亀に乗る仙人。仙人は亀が首を出したところを5回みているので、15,000年以上も生きている。

 

◆正門になる建礼門が南側に構え、天皇陛下だけがお使いになられる。

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◆昭和天皇の頃までは、天皇の即位礼は紫宸殿で行われていたが、平成の即位礼は東京の皇居で行われた。高御座と御帳台は、自衛隊のヘリコプターで皇居に運ばれた。

 

◆日華門

 

◆大臣宿所

 

◆春興殿

三種の神鏡が安置されていた場所。片山東熊の設計。今は空っぽ。

 

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◆清涼殿 鎌倉時代になり畳敷き

 

◆昼御座(ひのおまし):東側は明るく風通しも良いので、帝の日常の御座・昼御座とされた。玉座の縁は、畳縁の中で位が一番高いとされる赤を基調としてウンゲンベリという錦で彩られている。玉座の前には、蒔絵螺鈿の硯箱が添えられている。

 

阿吽の狛犬と獅子:共に動くことがないよう、踏み出した前足の先端と左後ろ足の先が欠けているが、修理してはならないという江戸時代の記録がある。平安時代には四隅に置かれ、重しとして使用されていた。

 

◆石灰壇:東南隅には60センチの穴が掘られている。この中には塵などを掃き入れたので塵壺というが、冬は暖を取るために火をおこして地火炉として用いられた。普段は朱塗りの丸い蓋で覆われている。漢竹・呉竹のタケノコを焼いて食べたとも。

 

◆年中行事障子:表面には正月から6月までの年中行事149項目、裏面には7月から12月までの133項目が書かれている。どの字も字体を変えて書かれている。

 

◆昆明池障子:火災の延焼を防ぐために立てられた。前漢の武帝が水軍訓練のために長安城の西に掘らせたという巨大な昆明池が、極彩色の唐絵で描かれている。

 

◆荒海障子:「手長足長」が描かれている。なぜこの異形人が描かれたのか、そしてなぜ清涼殿の丑寅の方角に設置されたのかは、清涼殿の鬼門除けとしての役割を担っていたとみなされる。清少納言「枕草子」も気味が悪いと記している。

 

 

◆滝口の武士:平安時代は内裏を警護する武士の詰め所「滝口の陣」があったので、清涼殿を警護するものを滝口の武士と呼んだ。今は切り石で囲まれているが、かつては曲水の宴も催されていた。

 

◆見参の板(けざんのいた):ひざまずく位置を示す。釘で打ち止められていないため、踏めばかすかに音がするので「鳴板(なるいた)」とも呼ばれる。

 

◆左側の大きな建物は紫宸殿:紫宸殿にあがる9級の階段の木口には胡粉(貝殻を粉末にした白色顔料)を塗って、木の割れや腐食を防いでいる。

 

◆切馬道(きりめどう):馬を通すための道

 

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◆小御所は小御所会議の地として有名だが、建物は昭和29年読売新聞社主催の鴨川花火大会の打ち上げ花火が飛び火して炎上。落下傘型花火が数十個、風に流されて屋根に落ちてしまった。

 

現存物はその後の再建。京都で花火大会が行われなくなった原因といわれている。

 

建物をよく見ると、下部には消失を免れた古材も見え、復元時の新材と古材の両方で建てられていることがわかる。

◆蔀戸には蝉の意匠が。

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◆御池庭:

 

15センチほどの大きさの栗石が一面に敷き詰められた州浜

 

州浜の中程に、斜めに飛び石が打たれその先は船着き場

 

舟遊式庭園であり、船遊びもできる

 

舟の上から視点を下げて鑑賞することにより、池はより広大に、岩はより雄大にみえる。

 

中央の中島は蓬莱島といい、ひときわ目立つ雪見灯籠

 

右手の中島 反りのある欅橋 稲妻のように折れ曲がる板橋(直違橋) 欄干の擬宝珠は蓮の形が逆さになった「逆蓮の擬宝珠」

 

左手の中島

 

お庭からは、池の上を吹き渡ってきた涼しい風が、小御所の中に入ってくる。

 

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◆小御所と御学問所の間の四角い庭は、蹴鞠の庭と呼ばれる

 

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◆御学問所付近にある1本の木は、1円玉の図案に使われている木。

 

◆御学問所の千鳥棚は、御所の三棚と呼ばれる。修学院離宮 桂離宮

 

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御常御殿

 

天皇が日常のお住まいとして使用された御殿。

 

現在は、設備が整っている大宮御所に泊まられている。

 

長押門:奥が御常御殿の御内庭で、門を通してお庭を見ると、お庭が四角に切り取られていて「額縁の庭」となる。

 

御内庭:陰陽度にちなんで亀に見立てた石をいくつか見ることができる。御常御殿などの建物も亀の背中に見立てた丸く盛り上がった基台の上に建てられている。

 

錦台:築山に建つ茶室。橋を渡り、朽ち木燈籠を見ながら歩いて行くと、錦台へ。屋根に特徴があり、こけら葺きと檜皮葺きを15センチ御戸にかわるがわる葺いたもので、縞模様に見えるため縞葺きと呼ばれる。

 

築地塀のあたりには、孝明天皇が御池庭をご覧になった物見台がある。

 

遣り水が折れ曲がって流れているので、「流れの庭」とも呼ばれる。八つ橋を渡れば、ツツジの植え込みの中には、「泉殿」と呼ばれる地震など非日常時の際の避難所がある。トイレもあり、梁の数を多くして揺れに強い構造になっている。屋根を軽くし、他の建物から離れていることから地震殿とも呼ばれている。

 

御日拝所(ごにっぱいしょ):龍泉門の右手に小さな高みがある。ここには柔らかな緑の苔の中に、粒の揃った丸い石が150個ほど埋まって、直径1メートルほどの円を構成している。円座とも言える部分は「御日拝所(ごにっぱいしょ)」と呼ばれる。遙拝所はもともと清涼殿の石灰壇だったが、天皇のお住まいが清涼殿から御常御殿に移るとともに遙拝所も移った。天皇は毎朝起きられると、御湯殿で体を清め、直衣を召されてお手水の後、ここで伊勢神宮をはじめ神々を遙拝された。

 

御涼所:涼むところなので、南面せず東面している。

 

茶室・聴雪:音を立てずにしんしんと降り積もる雪の音を研ぎ澄ました心の耳で聴こうという命名。

 

◆右から上段の間、中段の間、下段の間で、床の高さや長押の高さが少しずつ低くなっている。上段の間の奥には、さらに一段高くなって剣璽の間がある。三種の神器のうち、剣と勾玉を納めておく部屋。

 

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◆御三間(おみま)

明治天皇が幼い頃の学習部屋。かつては西側に能舞台があり、御三間の西のお座敷から能をご覧になったので「御見間」とも言われた。

◆御学問所の北西面 廊下の柱を支える束石が、御学問所と御三間御殿の建物のそばに、それぞれ二個ずつ残されています。そして、ありし日の廊下の跡が小さな石を帯状に敷き詰めて地面に印されている。

 

御台所跡

かつては天皇のご料理所、御所で働く人々を賄うための大台所、休憩所などのたくさんの建物があった。戦争の時にすべて取り壊された。今は転々と礎石だけが残っている。

 

宜秋門(公家門):かつての参観入り口。皇族や公家の通用門。門を牛車で通過するためには「牛車の宣旨」という天皇のお許しが必要だった。江戸時代、御所に参内する公家たちを宜秋門で見物するのも禁裏名物の目玉の一つだった。

 

穴門:非常時用の潜り門で、女官たちの非公式の出入りや不浄門(肥料として使う糞尿などを運び出すための門)。

 

建礼門の東約50メートルの位置に、川端道喜の名にちなんで「道喜門」と呼ばれる穴門がある。室町時代の終わりから明治の初めまで350年間、毎朝天皇に朝の食事を献上していた。道喜は褐色(かついろ、濃紺)の素襖を着て届けていたので、御所言葉で餅のことを「かちん」という。

 

正親町天皇以降は、ただご覧になるだけになった。しかし江戸時代の天皇は「朝がれい」の儀式として、土器に乗せた「お朝物」を毎朝ご覧になられ、遠祖の苦労を偲ばれた。

 

道喜門は、その内と外の地面に高低差があるので階段がついている。

 

猿が辻:鬼門除け。 猿が辻→幸神社→赤山禅院→日吉大社

 

◆角=かど=つの

◆鬼門の方角である北東の角だけは、塀をくぼませて、「角がない」ように見せている。つまり鬼門をなかったことにしている。さらに、塀の上に、御幣をかついだ魔除けの猿を配して、魔物の襲来から護るために万全を期している。金網で囲っているのは、左甚五郎の作なので、夜になると勝手に出歩いて困るので。この猿は、赤山禅院の猿と向き合っている。

◆なぜ猿なのかというと、十二支の中で鬼門である丑寅の反対に位置するのが申(猿)であることから。「去る」という言葉にも通じる。

◆猿が首を振り向ける方向に、比叡山があるのは暗示的である。もちろん比叡山は大昔から都の鬼門の方角にそびえていたわけだが、古代の宮廷はずいぶんこの法師たちに悩まされている。猿は「法師除け」だったのかもしれない。

 

西園寺家の白雲神社:御所の弁天さん 本殿の裏には、御所のへそ石「薬師石」のこ石を撫でた手で患部をさすると病気や怪我から回復するとも。

 

花山院家の宗像神社:桓武天皇の命により藤原冬嗣が。御所の裏鬼門を守る。少将井社

 

九条家の厳島神社:池の弁天さん。捨翠亭は、唯一の二階建て。

 

厳島神社の高倉橋:橋脚は三条大橋や五条大橋の石造橋脚を再利用したもの。天皇の行幸のために架けられたとあって、建礼門からまっすぐにこの橋へと辿り、丸太町通へと通じる道筋ができている。

◆拾翠亭:「拾翠」という名には、草花を拾い集めるという意味がある。「翠」には、カワセミの意味も含まれ、昔は周辺にカワセミが飛来したという。広縁の手すりは船の手すりを表しているともいえ、貴人は邸宅の中で船遊びの気分を味わった。

 

京都国立博物館
西欧様式の建築だが、そのわけは博物館のお手本が日本に無かったからである。海外のものを模倣した結果でもある。
テレビドラマ『花より男子』で、リッチな登場人物の屋敷となっていた。
本館正面の入口の上部には、ギリシャ風男性神(槌、ノミ)と寄り添っている女神(巻物、筆)の彫刻がある。西洋文化になりきれておらず、髪型や衣装などが、弁天様風となっている。

南側石垣のうねりの美。石の目地が石材の表面よりも奥にひっこんでおり、石材ひとつずつが龍の鱗のように膨らんでいるようにみえる。 

 

京都市動物園
後ろ脚にハート形の網目模様がある雌のアミメキリン「未来」が、人気を呼んでいる。未来は、雌の「清水」のお嫁さんとして来た。
ハート模様はチョコレート色。バレンタインデーに、幸せのハートを探してみませんか?

 

京都市美術館
昭和8年、東京都美術館に次ぐ日本で二番目の公立美術館として設立された。設立の機縁となったのは、昭和3年に京都で挙行された天皇即位の大典で、「大礼記念京都美術館」との名称で開設された。
美術館の銘板には、「大礼記念」という文字が削られた跡がある。戦後に、一時駐留
軍に接収されため。ダンスホール
前田健二郎の建築:武州銀行岩槻支店・川越支店、高島屋日本橋店、銀座千疋屋、資生堂化粧品部・パーラー、 資生堂本社。

 

京都市役所
京都市の紋章は、「京」の字を図案化したものに御所車を組み合わせたもの。マンホールなどにみることができる。ちなみにおでん屋では、玉子のことを御所車という。御所車は昔の帝の乗り物で、黄身を「君」にかけたもの。

京都大学

サザエさんの磯野波平の声優が京都大学出身のため、波平も同大学卒業との噂が。

京都タワー
「海のない京都を照らす灯台」とのコンセプトで建てられた。モデルは、和歌山にある潮岬灯台。町家の瓦屋根を「いからの波」に見立てた。
放送施設を持った電波塔ではなく、観光専用のタワー
白と赤のペイントが印象的な和ロウソクをかたどったタワー

鉄骨を一切使わない構造。飛行機や船、動物ではカニやエビなどと同じ仕組み。
設計者は、山田守。日本武道館も彼による設計。武道館の美しいカーブを描く屋根は富士山の稜線を模している。あえて時代を先取りしたデザインに挑戦したため批判されることも多く、「守」ではなく「攻める」と評されることもあった。
◆31mのビルの屋上に、100mのタワーを建てて131mとしている。131という数字は当時の京都市の人口131万人にちなんだものである。
展望台からは、なだらかな盆地の山並みや、碁盤の目に整然と区画された街筋を手に取るように見ることができる。
東京人が東京タワーに行ったことがないのと同様に、京都人も京都タワーに行かない。金閣寺も行ったことがない人が多い。
お約束ギャグ「京都タワーで写真を、今日撮ったわー」

 

京都文化博物館
もとは日本銀行京都支店。
正面入り口は、その鉄扉をよくみると、外側には取っ手がついていない。開けられるのは中にいる人のみ。銀行の建物ゆえの安全対策。

金庫室が喫茶店になっている。
向かいのダイアパレス東洞門5階は、12億円するマンション。

◆設計は東京駅を設計した辰野金吾。その設計の頑丈さから、辰野堅固とあだ名された。