懐石料理(おばんざいも参照)

語源は、禅寺での禅の修行に明け暮れる僧侶たちが、温めた石をお腹に当てて、酒食へのきびしい制限からくる空腹をまぎらわしたことから。懐炉というものもある。
料理が少量の一品一品に分かれているのは、禅の修行で空腹になった身体を気遣っての知恵と工夫による。他説では、空腹をまぎらわすために、お茶ばかりをたくさん飲んだ。そうすると胃が荒れている。その胃に食べ物が入ってくればますます荒れてしまうことになるので、細かく分かれた少量の料理が発案された。
先付(さきずけ)=お通し八寸(はっすん)=八寸(25cm)四方の杉の器に由来する
 向付(むこうずけ)=魚のお造りなど蓋物(ふたもの)焼物(やきもの)酢肴(すざかな)
 強肴(しいざかな)「ごはん、香の物、止椀」水物(みずもの)=デザート
超高級な懐石料理店では、指輪や腕時計は外すのがマナー。良い器を使用しているので傷つけないように。
座布団は4辺のうち3辺に縫い目があり、1辺だけはない。縫い目のない方を前にして置かれる。
履物は前向きに脱ぐ。後ろ向きに脱ぐと迎えてくれた相手に尻を見せてしまうたま失礼。前向きにそろえて脱ぎ、あとは店に任せる。
利休箸の紙帯を切るのは、店と客、同席する客との絶縁を意味するのでタブー。
利休箸:千利休は、削りたての杉の香りを客人に差し上げようと、お招きするその日の朝に、両端を細く削って杉箸を作った。両端とも細くするのは、片方を神が使い、もう一方の端を人が使うためで、神と人とが同じ箸で食事を共にする事で、神の魂を呼び込もうとの願いが込められている。利休が自らの茶会で使用し箸の形から茶会では上下の差別は無いと説いたと説もあり。
松花堂昭乗:松花堂弁当で有名。農家が使う田の字の形に仕切った箱を、絵の具箱やタバコ盆、薬箱にしていたと伝えられており、それを昭和初期に料亭主人(大阪のあの吉兆)が見て、弁当の器を考案したとう。十字形の仕切りがあることで、互いに味や匂いが移らないと考えたためである。
松花堂弁当の弁当箱をコンセプトにして、IBMのノートパソコンThinkPadのデザインが創造された。
東京に出店している京料理屋が一番苦心するのが水の問題。東京の水で料理を作っても京都と同じ味にはならない。京都の水道水は硬度42、東京は60、数字の上ではたいした違いにはならないが、出汁を引けば一目瞭然、昆布の旨みが引き出せない。
店名での文字を使用している店には要注意。京都ブランドにすがる気持ちが強く、自力で勝負していない。

かづら清(かづらせい)
資生堂「TSUBAKI」お正月CMにて、かづら清の創作かんざしが使用された。
つげぐしは、希少なつげ材を加工した櫛を、髪にいいといわれる椿油に浸して造られている。静電気が起きにくく、艶やかな髪を保つために京都の女性に愛用されてきた。

 

桂離宮(かつらりきゅう)

桂の地名は、中国の「月桂」の故事から来ている
竹が使われている意匠が多く見られる。良い月を見るために、建物群は極端な高床で、かつ軒が短く切り詰められている。「竹取物語」を引くまでもなく、月といえば竹である。
日光東照宮「太陽の建築」桂離宮「月を友とする建築」

かぼちゃ

カボチャという語は、ポルトガル語の「カンボジアのウリ」からきている。
漢字で「南瓜」は、「南京瓜」の略。
京都では冬至になると「おかぼのたいたん」を食べて、中風除け(ちゅうぶ:風邪 風に中る)や厄除けにしてきた。 このならわしは、古代中国において黄色は厄除けと考えられ、太陽(=黄色)の力が最も弱まる冬至に南瓜(=黄色)を食べて、弱まった黄色の力を補って厄除けとしたことに由来している。ちなみに、中国北方では餃子を食べる習慣がある。

上賀茂神社(かみがもじんじゃ)
そうだ京都行こう『春のない国には、わたし、住めないかも。』2007秋
正式名称は、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)。「賀茂」は「神」の意味で、「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味。神様の名前が神社名なのは珍しい。

 

カモ神社は現在の上賀茂神社一社だけであった。奈良時代の後半、朝廷の以降で分断された。カモの神を奉じていた賀茂一族(今日の土着の豪族)が、あまりにも力を持ちすぎたため。母子が引き裂かれてしまった。

 

馬だしの桜見返りの桐むちうちの桜勝負の紅葉神馬舎

埒が明く:しきりがとれることを 「埒が明く」 といい、転じて 「物事が順調に運ぶ」 意味となった。 「埒が明かない」 は、「順調に物事が進まない」、「はかどらない」 と言う意味。競馬で柵がはずされるのを待ちわびた一般客がいったという説がある。
神馬は、雨乞いには黒馬、晴れを願うときは白馬が奉納される。
二の鳥居の右側には、イチイガシの木。参道と正対せず、斜めに建てられている。真っ直ぐに見通せたのでは、神様に失礼ということで。元々御所があった方向を向いているとも。鬼門にあたる方向だった。
白砂の左右に置かれた一対の盛砂は、円錐形に整えてある。神が出現したと伝える神山を形取ったもので、一種の神籬、つまり神が降臨する憑り代である。上に松葉を挿すのはここに神が降りることを示している。それぞれの盛砂には、2本、3本の松の葉が刺さっている。これは陰と陽を示すためのもの。これを起源として、門松が始まった。民間で家の新築に際して清めの砂を撒くのはこの立石信仰に基づく。神職が4時間かけて形成される。一般宅に盛り砂をかたどった車止めもある。
実際の神山は、神社の北北西に位置し、今も禁足地として入山することはできない。西鳥居を出て、勅使殿のあたりが美しくみえる。
細殿の庇の垂木は金色。他の建物は白色。格式の高い建物という意味がある。

 

橋殿:ならの小川の上に建ち、欄干など橋を思わせる装飾が特徴。

 

片岡神社:縁結びにご利益がある。和泉式部の恋の歌も残る。「ほととぎす声待つほどは 片岡のもりのしづくに立ちや濡れまし(ほととぎすの声(将来の結婚相手の声)を待つ間ぐらいは、片岡の森の雫に濡れていましょう)」 恋の成就を願って紫式部も訪れた。絵馬はハート型。上賀茂神社の御祭神賀茂別雷大神の母君である玉依比売命を祀ったお社なので、一番最初にお参りする方がよい。
片岡の森は、戦後アメリカ軍に接収され将校たちのゴルフ場となり今もそのままゴルフ場としてある。片岡社は森への出入り口の場所だった。

七不思議:
「楠木の化石橋(楼門手前にある。石橋のように見えるが楠木の化石ともいわれ、今も長寿橋として長寿を祈願する人が渡る)」
「車返しの桜」
「物言わぬ神主」
「賀茂の勝手火」尾形光琳 燕子花図屏風
「本殿・権殿の御扉の狛犬(魔物が入らないように守護しているのだが、この狛犬は昔里に下りてきて悪さをしたため、板戸に封じ込められた)」 影駒
「大田沢の杜若(池に手を付けると手が腐ると言われているが、これは杜若を盗む者を戒めた言葉)」
「賀茂の演能」
「社殿と鳥居の向き(すべて異なる。理由は不明)」
タラヨウ(多羅葉)の木 ハガキの語源ともいわれ、葉の裏に尖ったものなどで字を書くと、やがて黒く浮き上がる。又は、火にあぶって吉凶を占ったとも。郵便局のシンボルツリーとなっており、葉の裏に通信文を書き、表に住所ラベルを貼れば郵便局で配達してくれる。ただし、切手は必要である。
おうちの木:馬場殿の東側にある「消火栓」とかいてある右側の木。吉田兼好「徒然草」にて、競馬をお坊さんが見にきて、なかなか始まらないので、木の上に登って、居眠りをした。もうすぐ競馬が始まるのにコックリコックリ寝てて、落ちそうになって、競馬はそっちのけで坊さんばっかり気になってしまった。その何代目かの「おうちの木」。

東西に本殿と権殿が並ぶ。権殿とは、本殿と同じ造りの常設の仮殿のこと。この二つの社殿は、神紋の二葉葵の葉と同じように配置されているともいわれる。幕末までは、式年遷宮が21年ごとに行われていたが(伊勢神宮に配慮して)、今は国宝なので大規模修理をもって遷宮に代える。
衣:神服殿、食:大炒殿、住:本殿
岩本社:祭神である三筒男神はオリオン座の三ツ星を表す。なお各社殿の屋根にあげられた獅子口には神紋である双葉葵が装飾されているが、すべて異なる形で一つとして同じものがない。
ならの小川:「なら」は楢の木から。小川の周りに植えられていた楢の木から食器を作ったことから。
神馬堂:名物菓子は「やきもち」。ある社前の家の亭主は浮気が多く、奥さんがいつも妬いていた。亭主が「そんなに妬いている暇があったら、餅でも焼いたらどうや」と言うと、奥さんは焼き餅を売り始めた。その後、おいしいと大評判となり、参拝帰りのお土産として大人気となった。「妬く」ことを「やきもちをやく」と言うのは、この話しが由来とも言われている。また先ほどの話から『浮気の虫封じ』になるともいわれている。
賀茂社といえば葵祭だが、葵は昔「あふひ」と書かれ、「あふ」は会う、「ひ」は神様の力を示す言葉だった。神様の力に出会う植物と伝えられている。
『今昔物語』:坂田金時が賀茂祭の斉王列を見学しようと思い立ち、無粋な武者姿で行くのも気が引けると牛車を頼んで乗ってみたものの、あまりの乗り心地の悪さに車酔いして、揚げ句の果てに体力を使い果たしたのか寝てしまった。その間に斉王列は通り過ぎてしまった。
徳川家の家紋が三つ葉葵なのは、戦国時代、三河地方(愛知県)に賀茂神社の氏子が多く、徳川家が、賀茂郡松平村から出たことによる。当時は松平姓であったが、徳川と改めた。
歌手のばんばひろふみは、祗園の生まれだが、実家は上賀茂神社の社家の出。異色陶芸家の北大路魯山人も社家の子。「社家の道」は、京都でも歩いてみたい道のひとつに挙げられる。社家の家は神社の鳥居より低く作られている。かつては300軒の社家町を形成していたが、現在残っているのは30軒。
社家の家々は、古くから神社の鳥居より高くすることを禁じられ、2階を作ることはご法度だった。
ゆきとら:美食家で知られる北大路魯山人が好んだ料理。厚揚げを網で焼き、大根おろしを添えて食べるというもの。厚揚げの黄土色に焼き目の黒、それに雪のような大根おろし、まるで虎が雪を背負ったような姿にみえるので。
毎月第4日曜は、手作り市が催される。10時~5時

 

上賀茂神社のトイレは和風の豪邸のような外観です。トイレ全体が檜(ひのき)で作られているため、一歩足を踏み入れると木の良い香りがします。トイレの数も充実しており、女性用トイレには洋式が18室備えられています。社殿と同じ素材。

 

大田神社:500mほど離れた穂根束児童公園には、「すぐき発祥の地」の石碑がある。上賀茂では、菜の花を植えてはいけないことになっている。それはすぐき菜の種を守るため。すぐき菜は、菜の花に似た花を咲かせる。菜の花と同じアブラナ科に属しているので、菜の花と交配してしまう。それを避けるために規制されている。
昔は花弁の汁を衣に摺り付けて染めたので、カキツケバナが転じてカキツバタになった。
 

菖蒲は乾燥した畑地、杜若は水中で咲く。花の姿が飛んでいる燕に似ているので燕子花とも書く。

鳥居前に「蛇の枕」と呼ばれる石がある。農具で叩くと雨乞いができるという。
本殿のご祭神は、天鈿女(あめのうずめ)命。天岩戸の前で舞ったという巫女さんのルーツで、芸能の神様。

「風そよぐ楢の小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」

風がそよそよと吹いて楢(ナラ)の木の葉を揺らしている。
この、ならの小川の夕暮れは、すっかり秋の気配となっているが六月祓(みなづきばらえ)のみそぎの行事だけが、夏であることの証なのだった。

 

北野天満宮(きたのてんまんぐう)
北野:大内裏の北の地であるから北野。大内裏で用いる飲料水は北山を水源とし、この地を通過したことから、この地域には一般の人々とが居住することが禁じられたという。
「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」からきたといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来。
うるさいの語源:「右流左死」 右大臣であった道真が大宰府に流され、左大臣であった藤原時平は若くして死を迎えた。都で続いた天変地異に、人々は「ああ右流左死」と嘆いた。
雷除け:道真の子孫の桑原家の領地「桑原」にちなみ「くわばらくわばら」と唱えると、その場所には雷が落ちないといわれている。現在の桑原町は、京都御苑前の丸太町通りの道路上にある。縦25m、横45mほどの狭い地域で居住者はいないが、大切に地名は保存されている。郵便番号もある。
菅原道真は、丑年、丑月、丑日、丑刻の誕生であることにより、牛にまつわる縁起が多く、牛は天神様のお使いとなっている。また大宰府にて生涯を閉じた道真の遺骸を運んでいた途中、車を引く牛が座りこんで動かなくなったため、やむなくその場所にあった安楽寺に埋葬したところが大宰府天満宮の発祥となったという伝説により、およそ天満宮にある神牛の像は、臥牛 (うずくまる、横たわった牛)の姿で祭られている。ところが、拝殿正面の大鈴の上の欄間には、全国の天満宮でも珍しい立った牛の彫刻がある。目に涙して身をよじるその姿は、あたかも菅公の悲運を憤慨しているかのように見え悲哀がただよう。
最も古い牛は、合格祈願の絵馬掛所にある江戸初期のもの。
もともと天満宮では雷神が祭られていた。そこで落雷をもたらした道真と結び付けられた。雷神は雨をもたらす水神であり、農耕神でもある。牛の像がたくさん奉納されているのはそのためでもある。すべての牛は本堂を向いている。お尻を向けているものはいない。怨霊を封じ込めるためとも。

道真という実在した人物を「カミ」として祀った初めての神社。権現造り。豊国神社、日光東照宮も権現造り。


 

梅で有名なわけは、道真が大宰府に左遷される時の和歌から。 「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」 。天神信仰の加賀前田家の家紋も梅鉢紋。
梅花祭では、道真の霊を「なだめる」という音に通じる「菜種」を冠に付けた神職が、梅の枝や蒸し米などを神前に供える。
同じ梅の木でありながら、紅梅と白梅を同時に咲かす「おもいのまま」という品種がある。
学問の神様として著名なのは、もともととびきりの秀才だったが、江戸時代の寺子屋で道真の分霊を祭るようになったため。近年では認知症予防のご利益があるとも。
熱心な人は、境内の奥にある乾神社へ。この前に横たわる牛像が道真公の神使といわれ、受験シーズンになると黒山の人だかりとなる。
三光門前の撫牛も、撫でると頭がよくなるという言い伝えがあり、受験生に人気。

◆赤目の牛は、瞬きもせずに道真公を待ち続けた結果と言われている。赤目は徹夜の勉強との連想を生み、受験生にも人気。

 

右近の馬場:天皇のもっとも近くで警護する宮中の守衛隊、右近衛府の馬術を鍛錬するための馬場で、参道がそれにあたる。

一の鳥居にある狛犬のデザインは竹内栖鳳。台座には栖鳳の絵である「紅白梅図」が描かれている。京都府内で最大の狛犬。

参道から2つめの狛犬は、長州萩の黒石でつくられたもの。長州藩による京の都進出と共に萩から持ってこられたこの狛犬、しかし、蛤御門の変で長州藩士が都から撤退し、この狛犬が残されることに・・・。
その後、会津藩士の鳥居が建立された。(江戸火消しを組の新門辰五郎の灯籠) 佐幕である会津は宿敵長州の寄進した狛犬が鳥居の傍にあるのは、はなはだ面白くなく、ある日狛犬に荒縄をかけて引きずり降ろそうとしたところ、落雷にあったという。北野天満宮で謝罪の祈祷をしてもらった。
台座に格子模様があるものは、製作が京都のもの。
水野忠邦奉納の狛犬
北野天満宮の七不思議というものがある。詳しくは公式HPで。
影向松
筋違いの本殿
星欠けの三光門
大黒天の灯篭
唯一の立ち牛(ランボルギーニのエンブレムが牛のため、愛好家がランボルギーニで参拝)
裏の社
天狗山
通常、神社は鳥居を入口とするが、寺院のような楼門と三光門をもっている。これは、道真の怨霊を鎮魂するために、人間を神として祭ったためで、人間を供養する寺院とも、神を祭る神社ともつかない特異な形式である。
社殿が参道から少し西にずれて建っているのは、背後にある文子天満宮(最初に道真が祭られた場所で、文子は道真の乳母)に敬意を表するためとも、創建前から鎮座する地主神社に配慮するためともいわれている。
渉成園の北にある文子天満宮には、菅公の腰掛石があり、その上には梅の形にお賽銭が置かれている。
東回廊前の植栽に埋もれるようにして置かれている灯籠は織部灯籠と呼ばれている。月の意匠だと思われるが、横から見ると笑っている顔のようにみえる。別名キリシタン灯籠とも呼ばれるこの灯籠には、下部に人型の掘り込みがあり、これがマリア像と言われている。竿上部のふくらみは十字架を表すともされている。
奇縁氷人石:南大鳥居を入って20メートルほど行った左側の茶室・松向軒の庭に建っている。八坂神社も参照のこと。
楼門の上には、扁額「文道大祖 風月本主」」(ぶんどうのたいそ ふうげつのほんしゅ)の扁額。
星欠けの三光門:日と月と星の彫刻があるために三光門と呼ばれるが、ここに彫られているのは本当は日と月と三日月(ウサギとウサギの間にある)で星はないともいわれている。それは平安京造営当初の大内裏が千本丸太町にあったため・旧大極殿が天満宮の真南に位置し、帝が当宮を遥拝されるにあたり、この三光門の真上に北極星が瞬いていたので星は刻まれていないのだとも伝えられる。
大黒天の燈籠:三光門の東向かい、河原町正面にあった「大黒屋」を中心とする質商組合によって奉献された石燈籠がある。台座には大黒さまの像が刻まれており、この大黒さまの口に小石をのせて落ちなければ、その小石を財布に入れて祈るとお金に困らないといわれる。
今出川通に面した狛犬は京都府最大で昭和9年奉納の青銅製。竹内栖鳳作。ちなみに、天満宮の狛犬の中には男性のシンボルが彫ってあるのもある。
本殿の正面上方には八角形の鏡がある。ここに自分を映してから拝むといいらしい。「自分を鑑みる」
現在の本殿は豊臣秀頼による。柱の擬宝珠には「右大臣 秀頼公」の文字がある。
新撰組の「誠」は北野天満宮の奉納絵馬の誠からであり、現在も北野天満宮の境内に飾られている
菅原道真の母を祀る伴氏社の鳥居:蓮の花をかたどった台座がある。寺院で用いられる蓮が鳥居に用いられており、神仏混淆の例として知られる。京都の三珍鳥居と呼ばれる。蚕ノ社、京都御苑厳島神社の弓なりの石鳥居。
西北を流れる紙屋川は、昔から名高く、紙屋川ですいた紙は平安時代から高雅な紙として珍重された。
西隣にある東向観音寺の白衣観音は、子供を抱いた珍しい姿。本尊は秘仏で25年に一度道真公の御年祭に合わせてのみご開帳される。次回は2027年。

◆ウソ:境内には狛犬に変わり金と銀に塗られた石造りのウソが飾られている。口笛を古語でウソといい、鳴き声が似ているので、ウソと名付けられた。道真公の使いとして信仰されている。「凶事をウソに変える(吉事に展示させる)」という、鷽替え神事として全国の天満宮に広まりを見せている。去年の悪しき(凶)は嘘(鷽・うそ)となり、吉(よき)に取り(鳥・とり)替えん

天満宮と鷽との関係は、 「菅原道真が蜂の大群に襲われた時、鷽の群れが蜂を食べて救った」とか、
 「天満宮の建築用材木を虫が食った時、虫を鷽が退治した」とか、 「鷽の字が、学(學)の字に似ているので(学問の)道真に縁のある鳥だ」とかなど諸説あるとされるがその根拠は不明。

亀石は、「一願成就のお牛さん」と対の陰陽石で一緒に参拝する。

 

衣笠山(きぬがさやま)

真夏に宇多天皇が御室で雪景色を見たいと白い絹を掛けさせたことから。わがまま?

貴船神社(きふねじんじゃ)
そうだ京都行こう『「京」と「水」とでできた「涼」でした』
水の神様なので、きふねきぶねと濁らない。
ご祭神は「
高龗神」(タカオカミノカミ)、雨と龍という文字構成。

日本三大龍穴:室生龍穴神社 岡山県備前龍穴

貴船の地名語源は、「木生根」「木生嶺」に求められる。「聞女(きくめ)」から変化したものだとする説もある。貴船神社では、巫女が信託を聞く祭りがおこなわれていた。そのために聞女神社といわれた。
鴨川の水源に当たることから治水の神とされ、旱魃のときは黒馬(黒は雨を降らせる黒雲))を、長雨のときは白馬(白は輝く太陽の白日)を献じて祈願したと伝わり、これを絵馬の原形として、絵馬発祥の地とされる。
全国の治水関係者や、水商売関係の人の信仰をあつめている。
おみくじは、境内の霊泉に浮かせ、文字がでる仕組みになっている。この不思議な現象は、貴船神社の神聖な水でしか起きないという?
ルアーお守りがある。水難除け、大漁間違いなし?
本宮奥宮結社の順で回るのが正しい。
宮の社殿の左横手にある船形石奥は、内に神の船を隠していると信じられている。水の女神は、難波の津から淀川をさかのぼって鴨川に入り、さらに谷の奥を求めて最後に貴船の谷のこの所に宮を定めた。その船を人の目から隠すために、石で覆ったものだという。石を覆っている草を抜いたり、積み上げた石を崩したりすると祟りがあるとして、里の人たちは触れないようにしている。
御神紋が施されている装飾品の美しさも見所。御神座に近いほど葵は真っ直ぐに立っている。
丑の刻参りでも有名。
五寸(15センチ)と5センチを間違えて、5センチの釘を使う人が多い。
社務所でわら人形を買い求めようとする観光客がいるらしい。
「物思へば沢の蛍も我が身より あくがれいづる魂(たま)かとぞみる (和泉式部)」和泉式部は、自分から離れてしまった夫の心を取り戻そうとして神社に願をかけにいく。その道すがら、貴船川の面におびたたしい蛍の光が舞うのを目にし、夫を恋慕う自分の生霊を見たように思った。その思いを読んだ歌。
貴船の神の返歌:「奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の 玉ちるばかりものな思ひそ」(しぶきをあげて飛び散る奥山の滝の水玉のように、そんなに深く考えなさるなよ)。ほどなく夫婦仲は円満になったといわれる。
詳細は公式HPの文学のページを参照のこと。
貴船川に沿った参道は、「和泉式部 恋の道」とよばれている。
和泉式部は、恋愛遍歴が多く、藤原道長から「浮かれ女」と評された。

貴船神社には「左頭三つ巴」と「二葉葵」という二つの神紋が用いられている。「左頭三つ巴」は水を司る神を祀っていることから"水の紋"として用いられているとされ、「二葉葵」は平安時代から明治4年まで上賀茂神社の第二摂社とされていたために用いられている。

◆奥宮には御神木のカツラとスギの大木がある。どちらも水を好む樹木。カツラは奥山の清流に自生するため、御神木になることは珍しく、水の神を祀る神社ならではである。桂の意味は香出(かづ)で落葉した葉からは独特の甘い香りを出す。