宇治上神社(うじがみ)

京都にある17の世界文化遺産の中で一番地味だが、現存する最古の神社建築。平安時代の遺構として唯一。
拝殿は、鎌倉時代の住居建築(人が住むところだった)で、こちらも現存する寝殿造りでは、最古のもの。
本殿で見えている部分は”覆屋”。中にある3棟の内殿こそ、最古と認められた建物。

左殿、右殿に比べて中殿だけが異様に小さいが、理由は不明。

 

中殿に応神天皇、向かって右側の左殿に菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、右殿に仁徳天皇が祀られている。菟道稚郎子は応神天皇の皇子で「日本書紀」によると、父親の寵愛を受けて皇太子になったが、父親の死後、異母兄(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく、自ら命を絶ったという。その菟道稚郎子の宮殿跡とも伝えられている。桐原水は、菟道稚郎子の宮殿「桐原日桁宮(きりはらひたけのみや)」からとられている。
流れるような屋根の造りは、一間社流造りといわれ、矢吹ジョーの髪形そっくり。横から見るとよくわかる。
社殿のかえる股は、醍醐寺薬師堂、中尊寺金色堂のかえる股とともに、「三かえる股」に数えられる名作。
「宇治神社二座」とあり、その一座である「上社(かみのやしろ)」に比定され、それが社名の由来。「下社(しものやしろ)」は現在の宇治神社。
宇治神社:ウサギが神の使いとされている。参道の灯籠もウサギにちなんで月の形。
神社の神が、宇治へ向かう途中、道に迷い、そのときに現れたウサギが道案内をした。その由来から「人々の人生を道徳の正しい道へと導く神様の使い」とされている。

わが庵(いほ)は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり 喜撰法師
「私の庵は都の東南にあって、このように(平穏に)暮らしているというのに、世を憂いて逃れ住んでいる宇治(憂し)山だと、世の人は言っているようだ。」
「うぢ」は「宇治」と「憂し」の掛詞となっている。「憂し」は、「つらい」とか「情けない」などの意味。

隠遁生活を明るく読んだ歌だったが、源氏物語の宇治十帖の影響で、「宇治」という言葉はつらさや悲しさを表現する歌枕として手着した。

残された歌は古今和歌集から百人一首に採られたわずか1首のみで、謎に包まれた人物。

本殿東側には、注連縄(しめなわ)を張った巨石があり、かつて本殿があった場所を示す岩。ただ崇敬者の間では「天降石」、「岩神さん」の愛称で親しまれていて、願かけのスポットになっている。たくさんの小石が積まれていますが、これはすべて参拝者が積んだ積み石で、「落とさずに積むと願いが叶う」との噂が広がった結果です。

 

宇治茶(うじちゃ) 

童謡の「ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壷に追われて とっぴっしゃん 抜けたらどんどこしょ」は、徳川幕府にお茶を届ける宇治採茶使の行列を唄った。「ずい」とは芋茎(ずいき)のことで、里芋の茎のこと。北野天満宮のズイキ祭りは有名。
多い時には千人規模だったという行列は、将軍の権力を全国に知らしめるためのデモンストレーションだった。
行列は、宇治・上林記念館の黒い長屋門から送り出された。

三星園上林三入(みつぼしえんかんばやしさんにゅう):店の登録商標「三星園」の紋所が茶畑の地図記号の由来になっている。
山本山や永谷園は宇治から出ている。
宇治橋東南にある通圓は、創業が永歴元 ( 1160 ) 年で、日本最古のお茶店といわれ、吉川英治「宮本武蔵」にも店名がでてくる。建物は、1672年の建て替え以来のもの。創業者は源頼政の家臣で古川右内という武士であり、隠居の身であったが頼政挙兵の際には平等院に駆けつけ討死した。その墓は平等院内の浄土院前に祀られている。
通圓は、ペットボトルと戦うお茶の老舗。日本人として生まれても、お茶の味がわからない人が生まれている。通圓は、お茶の成分表示にアミノ酸と表記している。このことから『買ってはいけない』という本で叩かれた。しかし、高いお茶を作るには農薬が必要となる。玉露などの美味しいお茶ほど虫がつく。だからいいお茶ほど農薬を多く使わないと商品にならない。農薬が多めの玉露を選ぶか、アミノ酸入り(アミノ酸は食品から作られている)のそのそこの茶葉を選ぶか、そんな難しい選択がせまられているお茶事情。

茶色:室町時代より茶の葉の煎じ汁が染料として使われはじめ、それにともない茶色の名が生まれる。

宇治市にある小中学校では、水道からお茶がでてくるという。
◆宇治駅は鳳凰堂を模したデザイン。

駅前には茶壷型ポストがある。
宇治橋には、秀吉が茶の湯用の水を汲ませた「三の間」を模した張り出しが設けられている。
宇治橋は、洪水で流出することがたびたびあった。洪水は魚のたたりと信じられていたらしく、そのとき魚供養に建てられたのが浮島の十三重石塔。
宇治川の興聖寺浜には亀石。

宇治公園中の島に建つ「十三重石塔」は高さ約15m、現存する日本最大の石塔。 歴史をさかのぼること720年、鎌倉時代。奈良西大寺の高僧の叡尊によって、宇治川での殺生の罪を戒め、供養塔として建立されました。

喜撰:六歌仙の一人。喜撰法師の隠棲していた山は、喜撰山と呼ばれるようになった。ペリー率いる黒船が来訪したときの幕府のあわてぶりは「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった4杯で夜も眠れず」と狂歌で皮肉られた。4隻の「蒸気船」と4杯の「上喜撰」を掛けたもの。上喜撰は宇治茶の銘柄。
橋姫神社:縁切りハサミというものが販売されている。

◆放生院(橋寺):日本最古の碑文「宇治橋断碑」は大化2年(646年)に刻まれた石碑。

 

雨宝院(うほういん)

歓喜天が手にする巾着袋を模した巾着と供物である大根は、歓喜天を象徴する形。本堂前に巾着型の大照明と大香炉が設置されているほか、提灯には巾着と大根が図案化されている。

歓二股大根は歓喜天への捧げ物。

 

梅宮大社(うめみやたいしゃ)
そうだ京都行こう『手帳を見たら、一日くらい自分ために使えそうに思えました。春と夏の間にいったいいくつ季節を隠しているんだ、この町は。』2006初夏

 

永観堂(えいかんどう)
お約束ギャグは、拝観後に「えー感動させてもらいましたわ」。
もみじ寺として有名。11月は特別拝観ということで、朝830から拝観できる。かなり混雑するので朝がお勧め。全長77㎝のみかえり阿弥陀如来は柔和なお顔をされています。弱者をいたわり、待つ姿を表現しているとも云われている。永観を叱っている表情には見えない。記念写真は見返り阿弥陀ポーズで。
実際の理由は、阿弥陀如来が迎えに来た者を連れ、極楽浄土へと帰る様子(帰り来迎)を仏像にしたという説が有力。
門前には阿阿の狛犬がいる。
拝観受付からみて、左前方には浴室がある。病人のために造られた蒸し風呂。

多宝塔からの眼望が素晴らしいので、めんどくさがらずに登りましょう。
勅使門の盛り砂:砂の上を歩いて身を清める意味と、夜の月明かりをこの盛り砂に受けて明かりを取るものとして利用された。
永観堂の七不思議:パンフレットを参照のこと。
火除けの阿弥陀:右手には焼け焦げた跡がある。
臥龍廊:釘が一本も使われていない。緩やかなカーブを描く木造階段に感嘆の声。

御影堂:阿弥陀48本願に準じ、48本の丸柱が使われている。48種の誓願で,阿弥陀如来が菩薩であったとき立てた誓願をいう。

山越阿弥陀図:阿弥陀如来が、観世音菩薩・勢至菩薩とともに、西方極楽浄土から死者を迎えにくる様子を描いた。阿弥陀が山の向こうに姿を現し、従者はすでに山を越えて近づいている。それまでは雲に乗った阿弥陀仏が空中を飛来する場面を描いた者が多かった。山を越えている図案は当時としては斬新だったので、「山越」の名称がついた。
仏手柑という希少種を使った飴は美味。売り切れていることが多い。
水琴窟の音は公式HPでも聞ける。

「秋を三人 椎の実なげし 鯉(恋)やいづこ 池の朝かぜ 手と手つめたき」 与謝野鉄幹をめぐる三角関係の歌。

最終的には略奪婚により二人は結ばれた。6男6女計12人もの子供が生まれた。元祖キラキラネームで、五男はアウギュスト(渡欧中に妊娠しており、アウギュスト・ロダンと会った記念に命名した)、四女はエレンヌと名付けられた。当然にして二人とも改名している。

奥山の岩垣いはかきもみぢ散りぬべし照る日のひかり見る時なくて」(古今和歌集)藤原関雄

山奥の岩垣紅葉は、美しく色づきながら、光をあびることなく、散ってしまうだろう。そのように我が身も、世間の栄光に浴することなく、ひっそりと世を去ることだろう。

 

恵美寿神社(えびすじんじゃ)
鳥居には熊手がかかっており、お賽銭が入れば、願いがかなうという。
鳥居明治の神仏分離までは、建仁寺と一体だった。
本殿の正面からお参りして、次に左手に廻り、ゑびすさんの耳あたり、お堂の横の戸を叩いてお参りするとご利益があるという。長寿なゑびす様は耳が遠い。そこで耳元でお願いを聞いてもらう。
「商売繁盛で笹もってこい!」 笹は、松竹梅の竹の葉なので縁起がよく、節目正しく真っ直ぐや葉が常に青々と繁ることから家運隆昌・商売繁盛とされている。恵比寿さんの持つ釣竿にヒントを得た。
「えびす」は、昔は朝廷の支配に抵抗し服属しなかった人を「戎」や「夷」と呼んだように、「異邦」や「外来」という意味がある。つまり「えびす神」は海の向こうからやってくる外来の神であり、漁業において豊漁をもたらす神とされ、商業の発展とともに商売繁盛の神となった。
財布塚、名刺塚がある。財布塚は松下幸之助の寄進。

財拝殿向かって左に高島屋、右に大丸の提灯。

 

円通寺(えんつうじ)
比叡山を借景とした庭園が見事。
寺から見る比叡山は京都一とされ、京富士(みやこふじ)と称される。後水尾上皇が12年をかけて、最も比叡山が美しく見えるこの地を選んだ。

まぜ垣(40種類くらいの樹木を混ぜて造った生け垣)の高さが本堂に座った人間の目の高さなので、遠近感が狂い、庭と比叡山がまるで2次元の絵の中にあるように錯覚する。
石は横に寝かせたものが多く、全体的に控えめで借景を引き立てている。石の多くは遠く紀州から取り寄せた緑泥片岩であることから、作庭にはかなりの権力者がかかわっていることが推察される。
以前はカメラはだめだったのですが、なぜかOKになっていた。なんでも、この辺りが区画整理で開発されるようだ。もうニ度とこの景色をみることができなくなると思うと、さみしくなってしまう。
解説の録音テープの声がシブい。
客殿に掛かる扁額「大悲山」「円通寺」などの字は、隠元の筆。
高浜虚子「柿落葉 踏みてたずねぬ 円通寺」の句碑

円通寺と正伝寺はどちらも比叡山を借景としているが、見せ方が異なる。正伝寺は引き離して山を遠くへ見せている借景。枯山水の白い砂地に、サツキの刈り込み越しに比叡山が見える。灰色の石よりもふっくらとしたサツキの方が大きく見え、その分、比叡山は小さく遠くにあるように見える。

円通寺の庭は近づけて大きく見せようとしている。石は立てずに低く伏せて置かれており、添えられた灌木も低く刈り込まれている。このように低く仕掛けることで、比叡山を大きく見せる効果が発揮される。低く横にたなびく石の流れも、比叡山の特徴である裾野の広がりを引き立てている。
 

延暦寺(えんりゃくじ)
広辞苑で「やま」を引くと2番目に「得に比叡山、または延暦寺の称」とある。
根本中堂にある「不滅の法灯」は「油断大敵」の語源となったもの。うっかり油を絶やさないように、日々心して修行に励みなさいという伝教大師(最澄)の教え。
お寺の本堂は、根「本」中「堂」からきている。
不滅の法灯は、信長の焼き討ちによって途絶えた。しかし、山形県の立石寺(山寺)に分灯してあった法灯の火を継いで、今も守り続けている。
今は、平泉中尊寺など、天台宗の寺院30数箇所に分灯されている。
三灯は、現在・過去・未来を表している。
18代天台座主:良源=慈恵大師=元三大師(正月三日になくなったので)。「おみくじ」の創始者。ちなみに浅草寺のおみくじは、凶の割合が30%と多い。
日本仏教史に巨大な足跡を残す大寺の宝物殿にしては余りに小さい。これは織田信長による焼き討ちの影響。
菊輪宝:きくりんぼうといい延暦寺の紋です。菊御紋と言えば皇室の紋ですが、元は比叡山に自生する叡山菊とされ、最澄様が献上したことから始まると伝えられています。延暦寺では菊に仏教の法輪を重ねて寺紋としています。重要な伝統法要を厳修する時はこの紋入提灯や国旗・佛旗を掲かげます。皇室への敬意を表して、花弁の数が菊のご紋章のそれよりも一枚少ないという話を聞いたことがあります。

法華総持院への階段は、52段ある。人が悟りを開くには52の段階が必要とされる。「成仏への階段」。

「その手にのるな」の語源 策略にはまってはダメ


桓武天皇は長岡京から鬼門の平安京に遷都したことをひどく気にしていた。そこで目をつけたのが平安京の鬼門にそびえる比叡山。ここで修行する最澄が当時の新しい仏教である天台の教えをマスターしていた。そこで天皇は最澄に平安京の仏教指導者として白羽の矢を立てた。平安京が置かれたのは、延暦寺13年(794)。
ほとんどの坊が、琵琶湖側に位置する。その理由は、冬季に京都側に吹きつける北西風は悪風で、琵琶湖側に住むことでそれを避けることができたからという説が強い。

千日回峰行
1~3年目:1日30キロを100日間
4~5年目:1日30キロを200日間
堂入り  :9日間の断食、断水、不眠、不臥の行
6年目  :1日60キロを100日間
7年目  :前半は1日84キロを100日間、後半は1日30キロを100日間
歩く距離は総計4万キロで、ほぼ地球を一周することになる。行をやめるときは死ぬときなので、行者は常に自殺用の死出紐と小刀を身につけている。お金(火葬代)も所持している。行を終えた者は、過去47人。2回終えた者は3人いる。
世間では敬われる回峰行も比叡山ではそれほど重んじられていない。立派だと思われてはいるが、ある種体育会的な業績としても、位置づけられている。大学という組織の中で、野球や駅伝の活躍が放つ輝きと、同じようなそれとして。実際回峰行での達成も、天台世界での栄達にはほとんどつながらない。

十二年籠山行:最も過酷な修行。中には20年籠もった僧侶も。食事は精進料理で、かつおだしも使わない。

 

叡山電鉄:全22車両1028個のつり革に1個だけ、ハート型の吊り革がある。ハートを掴んだら幸せになれるという噂も。数日置きに場所は変わるので、どこに変わるかは交代担当者のみが知る。

 

黄金分割

◆11.618の比を持つ長方形から11の比の正方形を取り去ると、残った長方形が再び11.618の比を持つ長方形になるという相似関係。「35の比」ともよばれ、53で割ると1.6となり、黄金分割の近似値を気軽に割り出すことができる。
黄金分割の具体例:名刺、ピラミッド、パルテノン神殿、パリの凱旋門、古代ローマの建築、小堀遠州による庭、龍安寺石庭、醍醐寺五重塔。
森永乳業から、黄金比率プリンなるものが販売されている。

 

大豊神社(おおとよじんじゃ)

狛ねずみがいる。野火にあい火に囲まれた大国主命をねずみが助けた神話から。
狛ねずみは、片方は学問を表す巻物を持っており、もう片方は豊穣・薬効・長寿を表す酒樽を抱えている。椿の頃にはキュートに。
他にも、猿、鳶(とび)、狐がいる。日吉大社の使いが猿で、愛宕神社の使いが鳶という次第。

 

大原

大原に寂しさや哀れさが漂うのは、都から通じる街道が都落ちの道だったので。
13歳の源頼朝は、源氏が平治の乱で敗れ若狭へ逃げる際、花尻橋付近で馬上で眠ってしまい平家に捕縛された。
花尻橋付近には、建礼門院のいる寂光院を訪れる者を監視するための源氏の屋敷が頼朝によって建てられた。後白河法皇の大原御幸(おおはらごこう)がここを迂回し、江文峠を通っているのはそのため。
大原がここまで観光化され栄えた理由は、天皇陛下と歌謡曲による。66年当時皇太子だった天皇陛下の三千院訪問をきっかけに、砂利道は拡張、舗装され、交通の便は飛躍的に好転した。同じ頃「女ひとり」(作詞永六輔、作曲いずみたく)が大ヒットした。
大原の雑魚寝:江文神社は、節分の夜に男女が雑魚寝をすることが許されていた場所。井原西鶴の「好色一代男」にも取り上げられていた。

 

大原野神社(おおはらのじんじゃ)
 

御土居(おどい) 

秀吉が京都を外壁で囲んだもの。日本版・万里の長城。
城壁としての軍事的な目的で造られたというよりも、鴨川の洪水から京都の町を護るという防災的な目的で造られたらしい。
お土居の土は、壁土に良いといわれ、たびたび盗まれた。
お土居を造ることによって、北限が広がり、南北の長さが1.5倍になった。その理由は、大徳寺と船岡山にある。大徳寺は信長の菩提寺でもあり、秀吉にとっても切り離せない存在だった。船岡山には信長の霊を祭っており、一緒に洛中に取り込もうとした。
京の七口(鞍馬口、丹波口、粟田口など)は、この御土居からの出入り口にあたる。

おばんざい(懐石料理も参照)  

天皇の食事を御膳というのに対し、臣下の食事をお番と呼ぶところからおばんざいの名がついたといわれている。
おばんざいとは普段食べる毎日のおかずのことをいう。漢字で、御番菜となるが、番という字は、番茶、番傘などというように、粗末なものに冠するときに使う。関東でいうお惣菜と同じである。
京都の年中行事に合わせた料理があり、何の日には何を食べるという風習がある。今日のおかずは何にしようと悩むことが少なくてすという生活の知恵でもある。順番の番。
京料理の味は一般的に淡口だが、それは素材の味を殺さないための調理法で、濃口が適した材料には濃い味付けが施してある。また、料理の見た目を華やかにするために食材の持つ色を鮮やか見せることを大切にしたため、色の濃い醤油をあまり使わないようにしていた結果、自然と薄味になった。