こんにちは。
私の住んでいる寮の隣に、和光樹林公園という、木がたくさん植わっている公園があります。
その公園が、春になっていい感じになってきました
今日は、そこの写真を挟みつつで行きたいと思います
公園入り口付近
さて、「仏に相応しい行動」とは一体どんな行動か、という問いまで進みました。
これに対する答え方は、大きく二通りあると私は思っています。
一つは、たとえば八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)や、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)というように、具体的な行軌を示すやり方です。
この答え方は、とても分かりやすく実践的です。
たとえば、六波羅蜜の一つ「布施」の中に、「無財の七施」という教えがあります。
<無財の七施>
「眼施」・・・やさしい目つきで接する
「和顔施」・・・なごやかな顔つきで接する
「愛語施」・・・やさしい言葉を使う
「身施」・・・人のいやがることにも率先して取り組む
「心施」・・・人のために心を配る
「壮座施」・・・座席をゆずる
「房舎施」・・・雨風をしのぐ場所を提供する
とても分かりやすいと思われませんか。
今すぐにでも実践できそうに思えます。
よく見ると・・・
その一方で、極めて抽象的な答え方があります。
それは、「ただ一心に仏を見ようとなさい。そうすれば自ずと分かるから」と答えます。
一心欲見仏 不自惜身命・・・何の一節かはお分かりでしょう。
私たちをお救い下さる仏の存在を一心に見ようとしたとき自然と、「仏に相応しい行
動」が身に起こるであろう・・・
そのように説きます。
そしてこれは、「八正道」「六波羅蜜」のような具体的な行軌を考えることと矛盾するものではありません。
具体的な行軌を学ぶという行為は、一心に仏を見ようとした結果だからです。
すなわち、抽象的な基本姿勢に始まり、具体的な教えを学び、それが身に表れるのです。
法華経は、この「一心欲見仏」の基本姿勢を説く教えであります。
その基本姿勢をとることを「南無妙法蓮華経」というのです。
「首長松」
「南無妙法蓮華経」を身に唱えることを、私は「仏に相応しい行動をすることだ」と申しました。
だからどこでもその気になれば「南無妙法蓮華経」が聞こえてきます。
和光に来てからというもの、私はそれをひしひしと感じます。
電車で席を譲るのも「南無妙法蓮華経」です。
エレベーターの閉めるボタンを押すのをちょっと待つのも「南無妙法蓮華経」です。
輪に入れない人にやさしく話しかけるのも「南無妙法蓮華経」です。
ふと耳を澄ませば、あちらこちらから「南無妙法蓮華経」が聞こえてくるではありませんか。
日蓮聖人が身延山にお入りになった時に、こう仰いました。
吹く風も、ゆるぐ木草も、流るる水の音までも、この山には妙法の五字を唱えずと云うことなし
風や草木や水までも、もう何もかもが「南無妙法蓮華経」と唱えているとお感じになった。
大変僭越ですけれども、まさにそれだと思います。
「南無妙法蓮華経」とは、善いことをして悪いことをしないことだ、と誰かが言っていました。
あるいは、人に優しくすることだ、と言う人もおられました。
人の善行はすべて「南無妙法蓮華経」と唱えている。
その声が聞こえれば、自分も「南無妙法蓮華経」と人に優しくするでしょう。
それが「我此土安穏 天人常充満」の世界です。
そこに浄土が顕現しているのです。
我ながらいい写真!
ところが中々そうはならないのが現実です。
なぜならこの話には、当然にして最大の課題があるからです。
・「南無妙法蓮華経」が聞こえるかどうか。
和光に来た頃はそれが聞こえていました。
ところが数日経った時、ハタと気付きました。
「そういえば最近、聞いてないな・・・」と。
せわしない日々の中、自分のことしか見えなくなっていたということです。
己はどこまでも凡夫だ・・・とつくづく思いました。
そう、凡夫はすぐに忘れてしまうのです。
このせわしない世の中で「南無妙法蓮華経」を聞き続けることは、凡夫には難しいらしい。
さてどうするか。
そこで「口」と「意」で補強していく必要が出て来ると思うのです。
私の考えでは、「口」は自分への意識付けの役割を果たします。
勉強をする時に教科書を音読するのと同じです。
「南無妙法蓮華経」と唱えよと脳が指令を出す。
「南無妙法蓮華経」と唱える自分の声が耳から聞こえてくる。
それによって、「意」が自然と伴ってくる。
「ああ、そうだった。こんな浅ましい生活はしていられない・・・」と思い出す。
そこで俄然「身」で唱えたい、善行を積んで仏になりたい、そういう気持ちになってくる。
その時、「南無妙法蓮華経」が聞こえるようになるでしょう。
「南無妙法蓮華経」と人に優しくできるでしょう。
だから良薬の服用は歯車のようなものです。
身・口・意の三つの歯車がぐるぐる回らなくてはならないのです。
何回も何回も回し続けなければならないのです。
公園南端
良薬を服用した子供たちは毒病が治癒し、「亡くなった」と言っていたはずの父と再び親子の対面を果たします。
毒病とは、煩悩による苦しみです。
それが治癒するとき、煩悩は制され、苦しみから解放されます。
その状態を「仏」というのです。
そしてその時、この世界に久遠の釈尊がいらっしゃることに気が付く。
それが「親子の対面」であります。
人間の子は人間です。
カエルの子はカエルです。
仏の子は仏です。
私たちは仏の子です。
ということは、私たちは元来「仏」です。
仏が毒薬を飲んで本心を失っているのが、私たち凡夫の姿です。
「仏」というのは本当は、肩肘張って”成る”ものではないのです。
自分は初めから仏です。
本当の自分に帰るだけでよいのです。
個人的ベストショット
人が何のために生きるのかと言えば、それは幸せになるためでしょう。
ところが顚倒の凡夫は、物質的な充足が「幸せ」の必要条件であると思い込むのです。
しかしそれはおかしな話です。
「幸せ」と感じるのは、心の働きです。
ならば「幸せ」か否かは、最終的には精神的な充足の如何により決せられるはずです。
物質面の充足は、条件ではなく要素に過ぎません。
お金がないよりある方が良いことは事実です。
それは動かぬ事実です。
しかし、金持ちが幸せで貧乏人が不幸せ、仏教ではそんなことは教えない。
幸せか否かはその人にしか分からぬことです。
そしてその幸せの絶頂が、「仏」の状態です。
すなわち毒病の治癒です。
苦しみから解放される、こんなに幸せなことはない。
全ての人の価値観がそこに至ったとき、この世界はまさしく浄土となる。
それが「一天四海皆帰妙法」の時でありましょう。
そういう世界を実現するための一切の行為、
それを「法華経を弘める」というのだと私は思います。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!
南無妙法蓮華経 合掌
R6年度事務局 拾井玄雄 拝
(終)
※このブログは、私の法話の草稿として、頭を整理することを主目的に書き記したものです。
失礼の段は、お許し下さい。