こんばんは。

 

皆様にお詫びしなければならないことがあります。

 

今週、事情により、更新することができませんでした・・・

 

大変申し訳ありませんお願い

 

実は途中までは書き進めてあり、来週は更新できると思いますので、お待ちください!

 

 

さて、その代わりに、平日の私のささやかな楽しみをご紹介いたします。

 

そう、お昼ごはんです笑

 

職場の近くに、カレー屋さんがあるのですビックリマーク

 

そして、月替わりで限定カレーを出しておられるのです。

 

一昨日、月末最後の平日に、滑り込みで行ってまいりました!

 

 

レモンチキンカレーですメラメラ

 

ルーの中に小さく切ったレモンが入っています。

 

上に載っているのは、なすびとポテトサラダのようなもので、辛さが中和されました。

 

とても美味しかったです照れ

こんばんは。

前回は、災難に対する対策が挙げてゆかれました。

今週は、それにもかかわらず災難は一向に収まらないではないか、という部分になります。

 

 

雖然唯摧肝膽。弥逼飢疫。乞客溢目。死人満眼。

然りと雖も、唯肝膽(かんたん)を摧(くだ)くのみにして、弥(いよい)よ飢疫に逼(せま)り、乞客目に溢れ、死人眼に満てり。

 

【意】しかし、それらもただ心を砕くのみで効果はなく、飢饉や疫病はいよいよひどくなるばかりです。家を失いさまよう者や死者ばかりが視界にあふれます。

 

 

「膽」というのは「きも(肝)」という字で、「肝膽」で「心」という意味になります。

「乞客」とは、こじき、物乞いというような意味です。

 

 

臥屍為観。並尸作橋。

屍(かばね)を臥して観(みもの)と為し、尸(しかばね)を並べて橋と作す。

 

【意】民の死骸は、積み上げて物見台にしたり、橋のように並べたりできるほどたくさんあります。

 

 

これは日蓮聖人の当時に行われたことではなく、中国の『左伝』という書に、戦国時代に、戦に勝った方が負けた方の者の死骸を積み上げて物見台のようにして、その上に登って周囲を見たという非常に残忍な故事があるのを、死骸がたくさんあるのを形容するために引用されたものです。

『立正安国論』は北条時頼に対して書かれたものですので、その高い教養に合わせてこのような引用をされたのでしょう。

 

 

観夫二離合璧。五緯連珠。

観(おもんみ)れば夫れ、二離(にり)璧(たま)を合せ五緯(ごい)珠を連ぬ。

 

【意】その一方で、天では日月が変わりなく昼夜を照らし、木星・火星・金星・水星・土星の五つの惑星は、玉を連ねたように規則正しく運行しています。

 

 

「離」というのは「明らか」という意味で、「二離」というのは二つの明らかなもの、すなわち日と月のことです(中国の『易経』などに出て参ります)。

「璧を合せ」というのは、綺麗な玉を合わせ並べたように光り輝いていることです。

「五緯」というのは木、火、土、金、水の五つの惑星のことです(すべての星を動く星と動かない星に分け、動く星を「緯」、動かない星を「経」というそうです)。

まああまり細かいことに拘らなくてもよいのですが、要するに天上には日も月も輝き、星も光っていて、天地の状態に変わりはない、そこに原因があるわけではないということです。

 

 

 

三宝在世。百王未窮。此世早衰。其法何廃。

三宝世に在(いま)し、百王未だ窮らざるに、此の世早く衰え、其の法何ぞ廃れたるや。

 

【意】仏法僧の三宝は人々に尊ばれ、百代の帝王がその座にあって変わることもありません。それなのに、どうしてこの世はこんなにも早く衰え、仏法も王法もこのように廃れてしまったのでしょうか。

 

 

「三宝」は仏・法・僧のこと。

「百王」というのは百代の王、つまり代々の天皇のこと(ただし、日蓮聖人は八十二代後鳥羽天皇より後は関東の武家政権へ移ったとされます)を指します。

「其(そ)の法」については「仏法」と「王法」と訳しました。これらについては、また次回以降どこかでご説明することとします。

 

 

是依何禍。是由何誤矣。

是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤りに由るや。

 

【意】これはいったい、いかなるわざわいや誤りが原因となっているのでしょうか。」

 

 

ここまでが旅客の問いになります。

この問いをまとめると、近年災難が続いて国はひどいありさまであるが、神仏に祈るなどしても一向に効果がない。もちろん、天地が真っ暗になったわけでも、仏法僧が軽んじられているわけでも、国王が絶えてしまったわけでもない。では、どういう過失によってこのような災難が起こるのか。という流れになります。

 

次回から、これに対し主人が答えていくことになります。

 

 

(おまけ)

前回の最後に、『立正安国論』は一定の規則正しい句数で書かれている!と指摘したのですが、これは四六駢儷(べんれい)体というれっきとした正式な文体であるそうです(昔学校で習いましたね・・・爆  笑)。

こんばんは。今日は異常に暑かったですね。

まだ5月なのに京都は34℃だったようですメラメラ

お互い油断せず熱中症等には気を付けなくてはですね・・・

 

 

さて前回は、旅客が国土の乱れを嘆く場面でした。

以降、その原因を究明すべく論を展開していくことになります。

今回は、「そういった災難に対して、世の中を見れば色々な対策をしているけれども・・・」という部分です。

引き続き、旅客の発話が続きます。

 

 

 

然間。或専利釼即是之文。唱西土教主之名。

然る間、或は「利釼即是」の文を専らにして西土教主の名を唱え、

 

(意)この間、「苦を滅する利剣は即ち是れ弥陀の名号である」という善導の『般舟讃』の文を信じ、もっぱらに西方浄土の教主である阿弥陀仏の名ばかりを唱える者がいます。

 

 

唐の善導という僧の書いた『般舟讃』という書物に、「利釼は即ち是れ弥陀の号なり」という文があります。「利釼(剣)」とは「苦を滅することで我々を利する剣」ということ、「弥陀」というのは阿弥陀仏、「号」というのは「名号」すなわちお名前のことです。すなわち、「苦を滅するには阿弥陀仏のお名前を唱えればよい」という意味になります。

この『般舟讃』の文を信じて、もっぱら「西土教主」すなわち阿弥陀仏のお名前を唱える者がいる。要は「南無阿弥陀仏」の念仏ばかりを唱え、これによって苦しみを逃れようとする者がいる、ということです。

後にも再三出てきますが、当時は念仏の教えがとても盛んでありました。平安末期に空也上人、そして鎌倉に入り法然上人が出て、浄土教を弘めたのです。

 

 

或恃衆病悉除之願。誦東方如来之経。

或は「衆病悉除」の願を恃(たの)みて東方如来の経を誦し、

 

(意)あるいは、「我が名を聞けばあらゆる病は悉く除かれる」という東方薬師如来の誓願を信じて、その経文を読誦する者がいます。

 

 

これは『薬師経』という経典の中に、薬師如来という仏様が十二の誓願を立てられたことが記されており、その中の七つ目の誓願に「我が名を聞かば衆病消散す」という言葉があるのです。「衆」とは「もろもろの」という意味で、「あらゆる病気が消えてなくなる」ということです。

疫病が蔓延していた時代ですから、この薬師如来の誓願を信じて、「東方如来」すなわち薬師如来の経を読誦する者がいる、ということです。

病気平癒などの現世利益を求める薬師信仰は、日本では古くから有力でありました。

 

 

或仰病即消滅不老不死之詞。崇法華真実之妙文。

或は「病即消滅、不老不死」の詞を仰ぎて法華真実の妙文を崇め、

 

(意)あるいは、「この経を聞けば病は消滅し、不老不死となる」という『法華経』薬王品の言葉を信じ、『法華経』を真実の妙文として崇める者がいます。

 

 

法華経の薬王菩薩本事品第二十三に、「若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」という文があります。この文を頼りにして、法華経を読誦することによって病を払うことを求めている者がいる、ということです。

ただしここでの法華経信仰は、日蓮聖人のお考えになる本当の法華経の精神に基づく信仰ではありませんでした。

法華経は聖徳太子の頃から日本において尊ばれ、平安の初めには伝教大師最澄によって非常に大きな勢力を有するようになりました。ところが、当時に至ると真言宗、禅宗、律宗、そして浄土宗などに押されて、法華経は廃れてしまっていました。

ただし、そのような状況でも、現世利益的な信仰として、何かの場合につけて法華経を読誦することは行われていました。ここではそのことを言っているのです。

 

 

或信七難即滅七福即生之句。調百座百講之儀。

或は「七難即滅、七福即生」の句を信じて、百座百講の儀を調え、

 

(意)あるいは、「般若経を講讃すれば、七難は消え七福が生ずる」という『仁王経』の句を信じて、百人の僧がこの経を講じる仁王会の儀式を営んでいます。

 

 

『仁王経』に、「般若波羅蜜を講読せば、七難即ち滅し、七福即ち生じ、万姓安楽にして帝王歓喜せん。」という文があります。

後にも出てきますが、『仁王経』は『法華経』『金光明経』とともに「鎮護国家の三部経」と呼ばれて、奈良時代の頃から宮中で、仁王経を講じる「仁王会」という儀式が行われていました。どのような儀式かと言えば、広いお堂の中に百ヶ所の法座を用意して、一つの法座に一人ずつ僧侶が座って、代わる代わる『仁王経』の言葉を引用して、これを講じるというものでした。

聖武天皇の頃から、この「仁王会」が年中行事として毎年行われておりました。

 

 

有因秘蜜真言之教。灑五瓶之水。

有は秘蜜真言の教に因て五瓶の水を灑ぎ、

 

(意)あるいは、秘密真言の教えによって五つの瓶に水を注ぐという祈禱を行う者がいます。

 

 

「秘蜜真言の教」というのは密教の真言宗のことです。

その祈祷の作法に、祭壇の上に五つの瓶を並べて、その瓶の中に五宝・五穀・五薬・五香といったものを満たして浄水をそそぎ、宝花を指して修法を行うというものがあるのです。

 

 

有全坐禅入定之儀。澄空観之月。

有は坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし、

 

(意)あるいは、坐禅を修して、すべてを空(くう)と観じて苦を離れようとする者もいます。

 

 

これは禅宗において、坐禅をして、すべてが「空」である、つまり災難も「空」であると観ることによって、苦しみから逃れようとすることをいいます。

「空」とは、固定的な実体のないこと・実体性のないこと・うつろということです。仏教では「空」は非常に重要な教えですが、「空」のみを重んじるのは法華経の精神には沿いません。

禅宗は鎌倉時代に入り、武士を中心に支持されるようになっていました。

 

 

若書七鬼神之号。而押千門。若図五大力之形。而懸万戸。

若くは七鬼神の号を書して千門に押し、若くは五大力の形を図して万戸に懸け、

 

(意)もしくは、七鬼神の名を書いて門ごとに貼り付ける者や、五大力菩薩の姿を描いて家ごとに懸ける者がいます。

 

 

七鬼神(人の精気を食らう七つの鬼神)の名を書いて門に貼って厄払いをする者、あるいは反対に、仏法を護持する国王を守護するために仏様が遣わすという五大力菩薩の姿を描いて門に懸けて災難を払おうとする者がいました。

 

 

若拝天神地祇。而企四角四堺之祭祀。

若くは天神地祇を拝して、四角四堺の祭祀を企て、

 

(意)もしくは、天地の神々を拝して四角四堺という祭祀を行う者がいます。

 

 

「地祇」とは、土地を司る神の総称です。

「四角四堺の祭祀」とは、都の四方に式場を設けて、各々の式場で天地の神々を拝する神道の儀式です。

これは「道饗祭(ちあえのまつり)」と言って、京都において年中行事として行われていたようです。

 

 

 

若哀万民百姓。而行国主国宰之徳政。

若くは万民百姓を哀みて国主国宰の徳政を行う。

 

(意)また為政者は、民衆の苦悩を哀れんで、様々な徳政を行っています。

 

 

「徳政」というのは、単に善い政治というくらいの意味です。

鎌倉末になるといわゆる「徳政令」が出されて、武士の借金を棒引きにするということになりましたが、日蓮聖人の頃はまだそれ以前の時代ですので、それとは関係ありません。

各地の統治者が、民衆の危急に対するさまざまな救済措置を取って、これによって災難に対処しようとしたのです。

 

 

このように、世の中では主に神仏に祈るなどして、災難をおさめようとされていたのです。

 

 

ところで、『立正安国論』は漢文で書かれていますが、今日の部分などは特に一定の規則正しい句数で書かれております。

幕府に提出する正式文書として、日蓮聖人が表現に工夫なさった跡を読み取ることができるように思います。                  

それではいよいよ本文をお読みして参ります。

 

まずは題名に注目してみましょう。

立正安国」とは「しい法をてて土をんずる」という意味です。

 

 

前回ご説明したように、『立正安国論』は、自然災害や飢饉、疫病などの続発(=国土の乱れ)に際して、執筆されました。

そして、時の最高権力者であった北条時頼に奏進するため、執筆されました。

すなわち、(直接の相手としては)北条時頼に対して、「国土を安んずるためには、正しい法(教え)を立てなければいけない!」ということを説くのが、『立正安国論』です。

 

日蓮聖人の思想は、結局のところこの「立正安国」に帰結すると考えられています。

それがどのように「」じられるのか、これから詳しく見ていきたいと思います。

 

 

ちなみに、日蓮聖人の遺された著書やご消息(お手紙)の中には、何も題名がなく後世の人々によって題名が付けられたものも多いのですが、この『立正安国論』という題名は、聖人自らがお付けになったものになります。

 

 

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さて、前回申しましたように『立正安国論』は、旅客主人による十段の問答で構成されています。

今回は、そのうち第一段の部分をお読みします。

 


まずは、有名な書き出しです。

 


 

旅客来嘆曰。

旅客来りて嘆いて曰く、

 

【意】旅人が来て嘆いて言います。

 

 

あるところに庵があり、そこには主人が住んでいました。

旅の途中、その庵に立ち寄った旅客は、主人に何やら嘆きながら問うのです。

 

以下、しばらく旅客の発話部分が続きます。

 


 

自近年至近日。天変地夭。飢饉疫癘。遍満天下。広迸地上。

近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘(えきれい)、遍く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る。

 

【意】「近年このかた、天変地異、飢饉や疫病が世の中に満ち、はびこっています。

 

 

「天変」とは天空の異変による変災(風雨、干ばつなど)、「地夭」とは地上の変災(地震、水害など)をいいます。

 

 


牛馬斃巷。骸骨充路。

牛馬巷に斃(たお)れ、骸骨路に充てり。

 

【意】牛や馬は至るところで死んでおり、骸骨が路上に散乱しています。

 

 

以下、やや刺激的な表現をしますが、具体的なイメージを持つことは大切と思いますので、ご了承ください。

 

貴族の牛車や武士の馬、運搬用の馬のほかに、鎌倉時代になると、牛馬は農耕に用いられるようになりました。

それらの牛馬が、干ばつ等で食む草もなく、あちこちで死に絶えて地面に横たわっていたものと想像されます。


また、日本では古くから死を穢れとしていました。そのため、当時の庶民の遺体は家の外に出されて放置されるか、あるいは、死期を悟ると自ら家の外に出ることが少なくありませんでした。(鎌倉幕府による公道への遺体放置の禁止令の記録が残っているほどです。)

飢饉や疫病によって、たくさんの庶民が亡くなり、骨化した遺体はあちこちに散乱していたものと思われます。

 

 

 

招死之輩既超大半。不悲之族敢无一人。

死を招くの輩(ともがら)、既に大半に超え、之を悲しまざるの族(やから)、敢えて一人も无(な)し。

 

【意】多くの人々は死に絶え、これを悲しまない者は一人もいません。

 

 

当時の凄惨なありさまが目に浮かぶようです。

 


このように、旅客はまず当時の国土の乱れを述べるのです。

『立正安国論』の冒頭にあたるこの部分は、短いながらも非常に重要であると考えられます。

というのも、論の出発点が「国土の乱れ」にあることを示すからです。

これは、日蓮聖人の思想を学習する上で必ず語られるべき点ですので、今後どこかの機会に考えることにしましょう。




さて、次に旅客は、なぜこのような国土の乱れが生じているのか、と話を展開していきます。

この後も旅客の問いがしばらく続いていきますが、それは次回以降に。

 

あまり進んでいませんが、今回はウォーミングアップということにします。 拝

合掌

お久しぶりでございます。

本年度より京都日蓮宗青年会の活動に復帰することになりました(昨年は「るふ」の記事のみ書いておりました)。

今年度は行学担当をさせていただくことになりました。

未熟の身ながらに勇猛精進してまいりますので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

 

さてこのたび、ありがたく各方面からの要請を受け、ブログを再開することといたしました。

そこで何を書くかと色々考えた末、日蓮聖人の著作のうち最も有名な、『立正安国論』について書かせていただくことに決めました。

とは言っても私自身、恥ずかしながら以前に一、二度通読したのみでして、「解説」できるほど理解が進んでおりません。

ですので、読者の皆様とともに一文一文解釈しながらお読みして、私自身も勉強させていただこうと思っております。

なお、私の都合で申し訳ありませんが、更新は以前の「エブリデイ法華経」とは違って、早くても週に一度のぺースとなるかと存じます。

気長にお願いできれば幸いです。

それでは、これからよろしくお願いいたしますお願い

 

 

◆はじめに

本文に入る前に、『立正安国論』にまつわる基本的事項について今回触れておきます。

 

1 著述の経緯

 

『立正安国論』は、文応元年(1260)7月16日、日蓮聖人39歳の時に、鎌倉幕府の時の最高権力者であった北条時頼に奏進(申し上げるという意味)されたものです。

 

日蓮聖人は12歳で安房国の清澄寺に登り、16歳で出家、その後鎌倉や京都に出て、仏教諸宗派の教学についてご研鑽されます。その結果、法華経こそがお釈迦様の真意を説き明かした経典であるという確信に至られます。そして、建長5年(1253)4月28日、清澄寺において立教開宗をなされ、その後鎌倉に草庵を結んで布教伝道にあたられました。

 

その頃、大きな自然災害が続きました。鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡』には、毎年のように日照り・地震・暴風雨・洪水・疫病などの記事が見られます。これを裏付けるように、元号もわずか5年の間に、建長→康元→正嘉→正元→文応と頻繁に改元されています。

中でも正嘉元年(1257)8月23日の大地震は凄まじいもので、鎌倉に甚大な被害をもたらしました。『吾妻鏡』には、「午後8時頃、大地震。音あり。神社仏閣に一つとして無事なものなし。山は崩れ、家は倒れ、塀はことごとく壊れ、所々地面が避け水が湧き出る。火が燃え広がる。」などと記されます。日蓮聖人ご自身、この大地震を鎌倉において身をもって体験されたのです。

 

なぜこのように災難が続き人々が苦しまなければならないのか、その答えを求めるため、日蓮聖人は駿河国の岩本実相寺の経蔵に籠もり、改めて一切経(お釈迦様の説かれたすべての経典)をお読みになりました。

そして、そのご研究の結果を、幕府に進言すべくまとめたものが、『立正安国論』になるのです。

 

『立正安国論』真蹟(国宝) 中山法華経寺所蔵

 

 

2 構成など

 

『立正安国論』は、旅客と主人との問答という形式になっており、全部で十段の問答(最後の十段目は旅客の応答のみ)で構成されています。

 

ところで、日蓮聖人のご著作のうちでも特に重要なものとして、『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』の三つ(あわせて「三大部」といいます)が挙げられます。

これらを比較すると、『開目抄』『観心本尊抄』は教義について詳細に記され、分量自体もかなり長大なものであるのに対し、『立正安国論』は教義について詳しく書かれたものではなく、分量もそれほど長くはありません。

 

しかしながら、聖人ご入滅の際にも、お弟子を集められて最後に『立正安国論』の講義をなさったと伝えられるように、日蓮聖人の数ある著作の中心であり、聖人の思想の根本をなすのは、『立正安国論』に他なりません。

よって現在に至るまで、日蓮聖人の御遺文の基本として位置付けられてきたのです。

 

 

『立正安国論』についての概要は、だいたい以上のとおりです。

それでは、次回からはいよいよ本文をお読みして参りたいと思います。

 

拾井拝