こんばんは。

いよいよ「主人」が災難の原因を明かします。

 

 

倩傾微管。聊披経文。世皆背正。人悉帰悪。

倩(つらつ)ら微管を傾け、聊(いささ)か経文を披(ひら)きたるに、世皆正に背き、人悉く悪に帰す。

 

【意】そこで、小さな考えしかできない自分ですが、経文を紐解いて見てみますと、世の人々が皆正しい教えに背き、悪い教えに帰依しているからであると分かりました。

 

 

「微管」というのは、「管の穴から天を覗く」ということわざがあるように、自分の小さな考えという意味で、謙遜の表現です。

「経文を披きたるに」とありますが、これは『立正安国論』の執筆にあたり「主人」すなわち日蓮聖人が実際に行われたことです。

すなわち日蓮聖人は、うち続く災難の原因を仏典に求めて、当時天台宗の寺院であった駿河国岩本の実相寺の経蔵に入られ、改めて一切経を閲読されました。

幕府に提出する正式な著作を書くにあたって、もう一遍一切経を読んで、自分の信じていることに間違いがないか確かめられたのです。

 

そして「世皆正に背き、人悉く悪に帰す」と、災難の原因を明らかにされるのです。

 

 

故善神捨国而相去。聖人辞所而不還。

故に善神は国を捨てて相(あい)去り、聖人は所を辞して還(かえ)らず。

 

【意】それゆえに、善神はみなこの国を捨て去り、聖人も去ったまま帰ってこないのです。

 

 

主人は、それゆえに「善神」も「聖人」もこの国を去って、心細い状態になるのだと仰るのです。

「聖人」というのは概ね、悟った人という意味です。

人々が「正に背き、悪に帰」して、世の中があまりに頼りない状態であるから、神も悟った人もこの国を去ってしまうというのです。

 

 

是以魔来鬼来。災起難起。

是(ここ)を以て、魔来り鬼来り、災い起り難起る。

 

【意】このために、悪魔・悪鬼が押し寄せ、次々に災難が起こるのです。

 

 

そういう心細い状態のところへ、悪魔や悪鬼がやって来て、災難が起こる。

 

 

不可不言。不可不恐。

言わずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず。

 

【意】このことは、言わずにおくことはできず、恐れなければならない重大事です。

 

 

旅客の問いに対し、主人の答えは以上の通りとなります。

この後はまた旅客の問いになり、それに対して主人がその証拠を挙げていくということになります。

このところ更新が滞っておりますが、気長に見ていただければ幸いです。 合掌

こんばんは。

更新が遅くなりたいへん申し訳ありません。

 

間が空いてしまいましたが、今回からいよいよ、災難の原因についての旅客の問いに対して主人が答える、という流れになります。

それでは進めて参ります。

 

 

 

主人曰。独愁此事。憤悱胸臆。客来共嘆。屢致談話。

主人曰く、独り此の事を愁(うれ)えて胸臆(くおく)に憤悱(ふんぴ)す。客来りて共に嘆く。屢(しばし)ば談話を致さん。

 

【意】主人が答えます。私も一人このことを愁い、深く思い悩み、やる方なく心を痛めていました。そこへあなたが来て、私と同じように嘆かれています。そこで、しばらくこの問題についてお互いに語り合いましょう。

 

 

「胸臆」は胸の内、心の中という意味。

「憤悱」は心の中で思い悩んで口にもうまく言えず苦しむ、という意味になります。

よいところに来た、ちょっと話を聞いてくれ、という具合です。

 

 

夫出家而入道者。依法而期佛也。

夫れ出家して道に入るは、法に依りて佛を期す也。

 

【意】そもそも、出家をして仏道に入るのは、仏の教えによって悟りを開き、仏に成りたいと思うからです。

 

 

仏道修行の目的は、「仏に成ること(仏の境地に至ること、成仏)」です。

「道に入る」という表現がありますが、これは仏教の本質を示しています。

仏教の本質は、受動的に教えを受けるのではなく、その教えを日々の生活に生かして能動的に修行していくこと、すなわち「道を歩む」ことにあるのです。

「宗教」というと「教え」の方に意識が向かいますが、「宗教」という概念は、元々は西洋の概念です。

仏教は、江戸時代までは「仏法」と呼ばれていました。

こう呼んだ方が、「道を歩む」というイメージがしっくりくるように思います。

それを「仏道修行」というのです。

 

 

而今神術不協。佛威無験。

而(しか)るに今、神術も協(かな)わず、佛威も験(しるし)無し。

 

【意】しかし今、世の中を見ると、神への祈りもかなわず、仏の御加護もありません。

 

 

ところが今の世の中を見るに、神様も仏様も救ってくれない有様です。

 

 

具観当世之体。愚発後生之疑。

具(つぶさ)に当世の体を観るに、愚にして後生の疑いを発(おこ)す。

 

【意】このような今の世の状況を見ると、未来の成仏も疑ってしまいます。

 

 

仏教では「三世」といって、過去世・現世・未来世にわたって人の生命は永遠であると説きます。

「後生」というのは未来世のことです。

仏に成ろうと思ってせっかく修行しているけれども、神も仏もないような世の中の状況を見れば「愚にして」愚かな心を起こして、「後生の疑い」未来世における成仏への疑いを起こしてしまう。これではせっかく修行した甲斐もない。ということです。

 

ところで日蓮聖人の教義では、「成仏」は未来世に限ったことではなく、現世の心のありようが仏様と一致するとき、それが現世における「成仏」(即身成仏)であると説きます。

にもかかわらずここで「後生」と述べておられるのは、当時隆盛を極めた浄土宗の教えを意識したものと考えられます。

浄土宗の教えは、来世に極楽浄土に生まれることを救いとして考え、「後生」に望みをかけるものです。

北条時頼に読んでもらう上で、いわば当時の仏教理解の主流を前提にする必要があったこと、それと同時に浄土教に対する批判を含意した表現と思われます。

 

 

然則仰円覆而呑恨。俯方載而深慮。

然れば則ち、円覆(えんぷ)を仰ぎて恨みを呑み、方載(ほうさい)に俯して慮(おもんばか)りを深くす。

 

【意】そうなるとただ、天を仰いでは恨みに思い、地に伏しては深く憂うばかりです。

 

 

天は「円」いもので、地は平らで四角いので「方」です(これは『易経』に「天は円にして地は方なり」とあるのを引用したものです。)。

また天は物を「覆」い、地は物を「載」せます。

そこで天を「円覆」、地を「方載」と表現したのです。

 

 

今回は前座です。

次回、いよいよ主人が災難の原因を答えます。

こんばんは。

 

皆様にお詫びしなければならないことがあります。

 

今週、事情により、更新することができませんでした・・・

 

大変申し訳ありませんお願い

 

実は途中までは書き進めてあり、来週は更新できると思いますので、お待ちください!

 

 

さて、その代わりに、平日の私のささやかな楽しみをご紹介いたします。

 

そう、お昼ごはんです笑

 

職場の近くに、カレー屋さんがあるのですビックリマーク

 

そして、月替わりで限定カレーを出しておられるのです。

 

一昨日、月末最後の平日に、滑り込みで行ってまいりました!

 

 

レモンチキンカレーですメラメラ

 

ルーの中に小さく切ったレモンが入っています。

 

上に載っているのは、なすびとポテトサラダのようなもので、辛さが中和されました。

 

とても美味しかったです照れ

こんばんは。

前回は、災難に対する対策が挙げてゆかれました。

今週は、それにもかかわらず災難は一向に収まらないではないか、という部分になります。

 

 

雖然唯摧肝膽。弥逼飢疫。乞客溢目。死人満眼。

然りと雖も、唯肝膽(かんたん)を摧(くだ)くのみにして、弥(いよい)よ飢疫に逼(せま)り、乞客目に溢れ、死人眼に満てり。

 

【意】しかし、それらもただ心を砕くのみで効果はなく、飢饉や疫病はいよいよひどくなるばかりです。家を失いさまよう者や死者ばかりが視界にあふれます。

 

 

「膽」というのは「きも(肝)」という字で、「肝膽」で「心」という意味になります。

「乞客」とは、こじき、物乞いというような意味です。

 

 

臥屍為観。並尸作橋。

屍(かばね)を臥して観(みもの)と為し、尸(しかばね)を並べて橋と作す。

 

【意】民の死骸は、積み上げて物見台にしたり、橋のように並べたりできるほどたくさんあります。

 

 

これは日蓮聖人の当時に行われたことではなく、中国の『左伝』という書に、戦国時代に、戦に勝った方が負けた方の者の死骸を積み上げて物見台のようにして、その上に登って周囲を見たという非常に残忍な故事があるのを、死骸がたくさんあるのを形容するために引用されたものです。

『立正安国論』は北条時頼に対して書かれたものですので、その高い教養に合わせてこのような引用をされたのでしょう。

 

 

観夫二離合璧。五緯連珠。

観(おもんみ)れば夫れ、二離(にり)璧(たま)を合せ五緯(ごい)珠を連ぬ。

 

【意】その一方で、天では日月が変わりなく昼夜を照らし、木星・火星・金星・水星・土星の五つの惑星は、玉を連ねたように規則正しく運行しています。

 

 

「離」というのは「明らか」という意味で、「二離」というのは二つの明らかなもの、すなわち日と月のことです(中国の『易経』などに出て参ります)。

「璧を合せ」というのは、綺麗な玉を合わせ並べたように光り輝いていることです。

「五緯」というのは木、火、土、金、水の五つの惑星のことです(すべての星を動く星と動かない星に分け、動く星を「緯」、動かない星を「経」というそうです)。

まああまり細かいことに拘らなくてもよいのですが、要するに天上には日も月も輝き、星も光っていて、天地の状態に変わりはない、そこに原因があるわけではないということです。

 

 

 

三宝在世。百王未窮。此世早衰。其法何廃。

三宝世に在(いま)し、百王未だ窮らざるに、此の世早く衰え、其の法何ぞ廃れたるや。

 

【意】仏法僧の三宝は人々に尊ばれ、百代の帝王がその座にあって変わることもありません。それなのに、どうしてこの世はこんなにも早く衰え、仏法も王法もこのように廃れてしまったのでしょうか。

 

 

「三宝」は仏・法・僧のこと。

「百王」というのは百代の王、つまり代々の天皇のこと(ただし、日蓮聖人は八十二代後鳥羽天皇より後は関東の武家政権へ移ったとされます)を指します。

「其(そ)の法」については「仏法」と「王法」と訳しました。これらについては、また次回以降どこかでご説明することとします。

 

 

是依何禍。是由何誤矣。

是れ何なる禍に依り、是れ何なる誤りに由るや。

 

【意】これはいったい、いかなるわざわいや誤りが原因となっているのでしょうか。」

 

 

ここまでが旅客の問いになります。

この問いをまとめると、近年災難が続いて国はひどいありさまであるが、神仏に祈るなどしても一向に効果がない。もちろん、天地が真っ暗になったわけでも、仏法僧が軽んじられているわけでも、国王が絶えてしまったわけでもない。では、どういう過失によってこのような災難が起こるのか。という流れになります。

 

次回から、これに対し主人が答えていくことになります。

 

 

(おまけ)

前回の最後に、『立正安国論』は一定の規則正しい句数で書かれている!と指摘したのですが、これは四六駢儷(べんれい)体というれっきとした正式な文体であるそうです(昔学校で習いましたね・・・爆  笑)。

こんばんは。今日は異常に暑かったですね。

まだ5月なのに京都は34℃だったようですメラメラ

お互い油断せず熱中症等には気を付けなくてはですね・・・

 

 

さて前回は、旅客が国土の乱れを嘆く場面でした。

以降、その原因を究明すべく論を展開していくことになります。

今回は、「そういった災難に対して、世の中を見れば色々な対策をしているけれども・・・」という部分です。

引き続き、旅客の発話が続きます。

 

 

 

然間。或専利釼即是之文。唱西土教主之名。

然る間、或は「利釼即是」の文を専らにして西土教主の名を唱え、

 

(意)この間、「苦を滅する利剣は即ち是れ弥陀の名号である」という善導の『般舟讃』の文を信じ、もっぱらに西方浄土の教主である阿弥陀仏の名ばかりを唱える者がいます。

 

 

唐の善導という僧の書いた『般舟讃』という書物に、「利釼は即ち是れ弥陀の号なり」という文があります。「利釼(剣)」とは「苦を滅することで我々を利する剣」ということ、「弥陀」というのは阿弥陀仏、「号」というのは「名号」すなわちお名前のことです。すなわち、「苦を滅するには阿弥陀仏のお名前を唱えればよい」という意味になります。

この『般舟讃』の文を信じて、もっぱら「西土教主」すなわち阿弥陀仏のお名前を唱える者がいる。要は「南無阿弥陀仏」の念仏ばかりを唱え、これによって苦しみを逃れようとする者がいる、ということです。

後にも再三出てきますが、当時は念仏の教えがとても盛んでありました。平安末期に空也上人、そして鎌倉に入り法然上人が出て、浄土教を弘めたのです。

 

 

或恃衆病悉除之願。誦東方如来之経。

或は「衆病悉除」の願を恃(たの)みて東方如来の経を誦し、

 

(意)あるいは、「我が名を聞けばあらゆる病は悉く除かれる」という東方薬師如来の誓願を信じて、その経文を読誦する者がいます。

 

 

これは『薬師経』という経典の中に、薬師如来という仏様が十二の誓願を立てられたことが記されており、その中の七つ目の誓願に「我が名を聞かば衆病消散す」という言葉があるのです。「衆」とは「もろもろの」という意味で、「あらゆる病気が消えてなくなる」ということです。

疫病が蔓延していた時代ですから、この薬師如来の誓願を信じて、「東方如来」すなわち薬師如来の経を読誦する者がいる、ということです。

病気平癒などの現世利益を求める薬師信仰は、日本では古くから有力でありました。

 

 

或仰病即消滅不老不死之詞。崇法華真実之妙文。

或は「病即消滅、不老不死」の詞を仰ぎて法華真実の妙文を崇め、

 

(意)あるいは、「この経を聞けば病は消滅し、不老不死となる」という『法華経』薬王品の言葉を信じ、『法華経』を真実の妙文として崇める者がいます。

 

 

法華経の薬王菩薩本事品第二十三に、「若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」という文があります。この文を頼りにして、法華経を読誦することによって病を払うことを求めている者がいる、ということです。

ただしここでの法華経信仰は、日蓮聖人のお考えになる本当の法華経の精神に基づく信仰ではありませんでした。

法華経は聖徳太子の頃から日本において尊ばれ、平安の初めには伝教大師最澄によって非常に大きな勢力を有するようになりました。ところが、当時に至ると真言宗、禅宗、律宗、そして浄土宗などに押されて、法華経は廃れてしまっていました。

ただし、そのような状況でも、現世利益的な信仰として、何かの場合につけて法華経を読誦することは行われていました。ここではそのことを言っているのです。

 

 

或信七難即滅七福即生之句。調百座百講之儀。

或は「七難即滅、七福即生」の句を信じて、百座百講の儀を調え、

 

(意)あるいは、「般若経を講讃すれば、七難は消え七福が生ずる」という『仁王経』の句を信じて、百人の僧がこの経を講じる仁王会の儀式を営んでいます。

 

 

『仁王経』に、「般若波羅蜜を講読せば、七難即ち滅し、七福即ち生じ、万姓安楽にして帝王歓喜せん。」という文があります。

後にも出てきますが、『仁王経』は『法華経』『金光明経』とともに「鎮護国家の三部経」と呼ばれて、奈良時代の頃から宮中で、仁王経を講じる「仁王会」という儀式が行われていました。どのような儀式かと言えば、広いお堂の中に百ヶ所の法座を用意して、一つの法座に一人ずつ僧侶が座って、代わる代わる『仁王経』の言葉を引用して、これを講じるというものでした。

聖武天皇の頃から、この「仁王会」が年中行事として毎年行われておりました。

 

 

有因秘蜜真言之教。灑五瓶之水。

有は秘蜜真言の教に因て五瓶の水を灑ぎ、

 

(意)あるいは、秘密真言の教えによって五つの瓶に水を注ぐという祈禱を行う者がいます。

 

 

「秘蜜真言の教」というのは密教の真言宗のことです。

その祈祷の作法に、祭壇の上に五つの瓶を並べて、その瓶の中に五宝・五穀・五薬・五香といったものを満たして浄水をそそぎ、宝花を指して修法を行うというものがあるのです。

 

 

有全坐禅入定之儀。澄空観之月。

有は坐禅入定の儀を全うして空観の月を澄まし、

 

(意)あるいは、坐禅を修して、すべてを空(くう)と観じて苦を離れようとする者もいます。

 

 

これは禅宗において、坐禅をして、すべてが「空」である、つまり災難も「空」であると観ることによって、苦しみから逃れようとすることをいいます。

「空」とは、固定的な実体のないこと・実体性のないこと・うつろということです。仏教では「空」は非常に重要な教えですが、「空」のみを重んじるのは法華経の精神には沿いません。

禅宗は鎌倉時代に入り、武士を中心に支持されるようになっていました。

 

 

若書七鬼神之号。而押千門。若図五大力之形。而懸万戸。

若くは七鬼神の号を書して千門に押し、若くは五大力の形を図して万戸に懸け、

 

(意)もしくは、七鬼神の名を書いて門ごとに貼り付ける者や、五大力菩薩の姿を描いて家ごとに懸ける者がいます。

 

 

七鬼神(人の精気を食らう七つの鬼神)の名を書いて門に貼って厄払いをする者、あるいは反対に、仏法を護持する国王を守護するために仏様が遣わすという五大力菩薩の姿を描いて門に懸けて災難を払おうとする者がいました。

 

 

若拝天神地祇。而企四角四堺之祭祀。

若くは天神地祇を拝して、四角四堺の祭祀を企て、

 

(意)もしくは、天地の神々を拝して四角四堺という祭祀を行う者がいます。

 

 

「地祇」とは、土地を司る神の総称です。

「四角四堺の祭祀」とは、都の四方に式場を設けて、各々の式場で天地の神々を拝する神道の儀式です。

これは「道饗祭(ちあえのまつり)」と言って、京都において年中行事として行われていたようです。

 

 

 

若哀万民百姓。而行国主国宰之徳政。

若くは万民百姓を哀みて国主国宰の徳政を行う。

 

(意)また為政者は、民衆の苦悩を哀れんで、様々な徳政を行っています。

 

 

「徳政」というのは、単に善い政治というくらいの意味です。

鎌倉末になるといわゆる「徳政令」が出されて、武士の借金を棒引きにするということになりましたが、日蓮聖人の頃はまだそれ以前の時代ですので、それとは関係ありません。

各地の統治者が、民衆の危急に対するさまざまな救済措置を取って、これによって災難に対処しようとしたのです。

 

 

このように、世の中では主に神仏に祈るなどして、災難をおさめようとされていたのです。

 

 

ところで、『立正安国論』は漢文で書かれていますが、今日の部分などは特に一定の規則正しい句数で書かれております。

幕府に提出する正式文書として、日蓮聖人が表現に工夫なさった跡を読み取ることができるように思います。