京都 節分その2
さて、節分も終わり
1週間も経とうかとしてます(笑)
先日行ってきた京都の節分祭の続きです。
八坂神社の節分祭を見たあとは
節分のお菓子と今ではすっかり全国区になった
恵方巻を買いに高島屋さんへ行きましたよ。
和菓子ってまるで日本画を切り取ったように
季節感あふれる素敵な物が多いですよね。
今回買った鶴屋吉信さんの「福ハ内」も
節分にぴったりの和菓子です。
商品の説明は鶴屋吉信さんの
ホームページにお任せして(笑)
和菓子がいつ頃から
今の様な形になったか。
それは江戸時代に入ってからなんです。
砂糖を栽培できなかった日本では
古来から甘い物は大変貴重で
外国から渡ってきた砂糖菓子も大変高価でした。
ただ甘いものがまったくないかと言うと
そんな事はなく、蔦の蔓から取った汁を
煮詰めて作ったシロップが
平安時代の文献に載っていたりします。
鎌倉時代に入り禅の教えと共に
お茶や精進料理などが伝えられ
めったに肉を食す事がない日本では
精進料理の中の肉料理に使われる
肉の代わりに小豆や大豆などが使われました。
(大陸の仏教における肉食についてはまたの機会にお話しますね)
点心と呼ばれる皮に包まれた食べ物は
茶道の発展と共に
お茶席に出されるようになります。
しかし、まだ塩で味付けをしたものが主流でした。
戦国時代を経て、安土桃山時代で
外国からの南蛮菓子がもたらされ
日本国内でも砂糖が栽培されるようになり
江戸時代に入り
安定した砂糖の供給が
できるようになります。
ただし、まだ甘い物は富裕層の口にしか入らず
茶道の世界で広がるのですが
餡を皮で包んだだけの形が
本来のお茶菓子の形でした。
現代の様に季節感あふれるお菓子になったのは
元禄時代から。
つまり江戸時代中期からなのです。
その頃一世風靡していた絵師が
尾形光琳です。
光琳が考案した図柄は
後に光琳文様と呼ばれ
テキスタイルとして
幅広い分野に取り入れられ発展しました。
和菓子のデザインにも積極的に取り入れられ
現代のように季節感を表現したものが
作られていったのです。
と、すっかり節分の話から
和菓子の話へと変わってしまってますが(笑)
鶴屋吉信さんの福ハ内は
例年12月ぐらいから2月3日までの販売です。
来年はぜひ寒中見舞いなどにお使い下さいね。
吉田神社の節分祭を観るために
高島屋さんからバスに飛び乗り
吉田神社に移動しましたが
毎年の事ですが人が多すぎて追儺はまったくみれず
福豆とくじ引きのセットを5セットも買い(笑)
年越し蕎麦を食べて、大元宮でお参りをして
ひとまず無事に新しい年を
迎えることができました。
あ、そうだ。
大祓と節句と節分の違いわかりますか?
いい機会ですので
次のブログでお話したいと思います