おはようございます。
京都は雨。散歩へ行けない純は安眠しています。
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森達也(編著)『あの公園のベンチには、なぜ仕切りがあるのか? 知らぬ間に忍び寄る排除と差別の構造』(論創社)を図書館で借りて読了。
森達也の他に、安田浩一、武田砂鉄、雨宮処凛などが寄稿している。
武田砂鉄が、都営霞ケ丘アパートと(腐れ)東京五輪について書いている。その中で、山田詠美のこんな言を紹介している。
「人には、木漏れ日を必要とする人と、そうでない人がいる。」
自分はどっちだ? と考えたら、前者だという即答が身のうちから返ってきた。ウォーキングするときは、極力緑の多いコースを選ぶようにしている。東野のGEOまで歩く時もずいぶんと遠回りをして山科川の川っぺりを歩くくらいだ。オッサンになって、かつてより「貪欲に」緑を、自然を欲するようになった。歳を重ねて何かが脆くなって、脆い部分を(自然によって)癒されたいと思っているのかも知れない……。
それはともかくとして。
武田砂鉄の文章を読み終えて、ため息まじりに思ったことがひとつ。
この国の権力者たちは人間として本当に終わってるな……。
(武田砂鉄の論考に限らず)この本に寄せられた文章に共振する人たちって、実はたくさんいるはず。
でも、その中の何割の人が国政選挙に行って(誰かに頼まれた組織票ではなく、自分の頭で選んで)投票しているのだろう。
「どんな人間に権力を持たせるべきか?」
をちゃんとそれぞれが考えないと……。
岸田や麻生や萩生田じゃないって、どう考えても。