お疲れ様です。
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東海テレビ制作のドキュメンタリー映画『チョコレートな人々』を日本映画専門チャンネルで観ました。
本作で描かれる「久遠チョコレート」の社長さんが、もう本当に素晴らしすぎる。満点の経営者って、こういう人のことを言うんだろう(楽天の創業者や元ライブドアの社長とかのことではなく。彼らは単なる守銭奴の究極形でしかない)。
「貧困に喘ぐ西成から数キロしか離れていない地に北新地という、座っただけで一万、二万の世界がある。なんて理不尽なんだ、と。だったら、北新地で思いきりチョコを買ってもらって、その売上で子ども食堂を(西成に)作ってやろうと思って……」
みたいなことを久遠チョコレートの社長さんは語る。社員570人の9割は女性と障害者。まったくもって痺れる。三木谷や堀江にはこういうリアルに豊かな発想はないでしょう。
この社長さんに障碍を持つ我が子を託す親もいれば、
「うちの子には無理だから」
と諦める親もいる。
その両方が本作では描かれています。
人生は一度きりであることを考えると、どっちが明るい選択なのかは言わずもがなのような気がします。
「チョコレートは温め直したら、何度でも作り直せる」
きっと人生も……。
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大山寛人『僕の父は母を殺した』を読了。
この著者が味わってきた艱難辛苦について、「わかったツラして」何かを語る気にはならない。なぜなら、彼の哀しみも苦しみも僕にはわかるわけがないからだ。
が、ひとつだけ。「被害者遺族」の中には、「加害者の極刑を望む被害者遺族」と「加害者に生きて償ってほしい、と望む被害者遺族」がいる、ということは本書を読んで、よくわかった。そして、そんな二分法では回収できない複雑なグラデーションも存在するのだろうということくらいは、自分にも容易に想像できるのだ……。
僕個人としては、死刑制度には反対している。加害者を死刑に処したところで、(悲しい)何かがほんとうに癒されたり、(明るい)何かがほんとうに生まれることはないんじゃないか、と思うので……。
あと、裁判員制度にも反対だ。法律の門外漢が「こいつは死刑、あいつは無罪……」って決めていいわけが無い気がするので。(敢えて拙劣な喩えを持ち出せば)それって、野球の素人が日本シリーズの主審を務めるようなもんでしょう? なぜ(その人たちに決めさせるの)?って思う。何のための司法試験だよ、って……。
付記しておくと、本書の著者である大山さんは死刑制度には反対(も賛成も)していない。彼が言っているのは、
「被害者遺族が皆、死刑を望むわけではない」
ということ。
無論、それ(死刑)を望む被害者遺族もいる。その人たちの思い(願い)を大山さんはやはり否定していない。
罪を犯しても反省ひとつしない凶悪犯も、いる。最近、「そういうの」が多い。
「そんな凶悪犯を、税金を使ってまで生かしておいていいのか?」的な(死刑存置派の)常套句も聞こえてくる。でも、この際、税金の使い途なんて些事はどうでもいいじゃないか(そこを怒るなら、裏金三昧の政権与党に怒ろうよ)。
そんな金の話なんかではなく、
「(死刑という形で)人が人を殺めていいのか?」
とか、
「そもそも罪を償うとはどういうことなのか?」
とか、
「本当の癒しはどうすれば手に入るのか?」
などなど、立てなければいけない問いがたくさん存在する、と僕は考える。
「死刑」以外に、被害者遺族と加害者家族の傷を癒すシステムをどうやって構築するか。そういうことを真剣かつ誠実に考えるのが政治家の仕事のひとつであるはずなのに、今の日本は「いちばん政治をやっちゃいけない輩ども」が政界のど真ん中(いちばん上の方)にいるのだから始末に負えない……。
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適菜収『コロナと無責任な人たち』を読了。
本書で「認知的不協和」という言葉を知る。
僕の仕事界隈でも、よく「それ」を見かけるのである……。