こんばんは。


今朝もいつもの公園へ。

たくさん歩いてくれました。


朝ごはん。クリームシチュー。純のではなく、自分の、です。

🏉🏉

大学ラグビー決勝。帝京VS明治。
「落雷の可能性」のため約1時間に渡る中断があるなど、波瀾含みの戦いでしたが(明治も前半戦は頑張りましたが)、終わってみれば、帝京の快勝でした。
今年は下馬評通り、帝京が頭ふたつ以上、抜けていましたね。
これで帝京は三連覇。通算優勝回数(12回)で明治に並びました。通算優勝回数で帝京の上にいるのは早稲田だけですが、帝京が抜くのは時間の問題でしょう。


📖📖

リュウジ『料理研究家のくせに「味の素」を使うのですか?』を読了。
大好きな料理研究家、リュウジ師匠の新書をメルカリで安く買って読みました。

味の素賛歌です。というか、料理賛歌の一冊です。
変な型に囚われないで料理を楽しもうよ、という陽性のメッセージに貫かれています。
思えば、僕もリュウジ師匠を知るまでは「アンチ味の素(化調)」でした。
でも、「リュウジのバズレシピ」でリュウジ師匠がガンガン化調を使ってるのを見て、
「あ、それでいいのか」
と思うようになって、それ以来、味の素のみならず、顆粒コンソメや鶏ガラスープの素をフツーに使うようになりました。「無化調原理主義者」からあっさりと転向しました。
味の素などの化調を上手に使うと、簡単に味が決まるんです。まとまりがよくなる。今じゃ、「全然これでいいやん」と思ってます。

だけど、先日、北海道在住の友から(自分では到底買えないような)高級な昆布を頂いたんです。で、その昆布を使って丁寧に出汁をひいて、味噌汁やらラーメンやらを作るとですね、やっぱりそれは化調ベースの料理とは一味違うグレードのものができるんです。
何が言いたいか?
「(化調、無化調)両方あり」
ってことです。
昆布や節で丁寧に出汁を引いたり、鶏ガラを長時間グツグツ炊いて天然の鶏スープを作るのも楽しいし、簡易に鶏ガラスープの素で鶏風味のスープをでっち上げるのも楽しくて美味しい。その使い分けを楽しむフレキシビリティはリュウジ師匠から学んだし、彼だけでなく、僕が好きな料理人(料理研究家)って、ケンタロウさんにせよ笠原将弘さんにせよ三國シェフにせよ、みんな「柔らかい」んですよね。
「これじゃなきゃ駄目!」
みたいな頑ななルールで自分を縛るのではなく、
「これがベストかも知れんが、別に、こっちでもベター。悪くない」
というような柔軟性を持っておられる。もちろん、笠原さんや三國シェフはお店でお客さんに出す料理は拘っておられるだろうけど、僕のような素人の「自炊」でプロみたく拘るのは些か滑稽なわけで。
ラーメンを作る時、やっぱり緑が欲しいとは思います。ネギとかほうれん草とか水菜とか。でも、それがないときは、
「敢えて、薬味は排しました! スープと麺だけをピュアに楽しみたいので!」
みたいなテーマに切り替えちゃえば、ネギは要らねえな、って話になる。
これって、料理のシーンに限らず、たとえば何かの依存性に悩んでいる人にも使える発想だと思うんです。「パチンコがないと、駄目!」とか「酒がないと、やってらんない!」みたいな軛から如何に自由になるか。パチンコも酒も薬物も他の何かも、煎じ詰めたら、
「別に無くても全然構わんやん?」
ってなる。どころか、
「むしろ、無い方が良くないか?」
ってことも実は多い。
……激しく脱線しました。
リュウジ師匠の料理本。レシピ本ではなく、料理の哲学書です。とても楽しく「味わい」ました。

🐶🐢
上沼恵美子が好きな人もそうでない人も、中高年の男は彼女の言葉に耳を傾けた方がいいです。