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よく眠っている純です。

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📗📚

鈴木邦男・白井聡『憂国論』を読了。

一部分を抜粋して論っても、たぶん何も伝わらないだろうと承知の上で。
「極限の言論」
というフレーズを白井聡さんが本書の中で使っている。三島由紀夫と野村秋介を並べて語るくだりで、だ。
……こう書くとピンとくる人はいるだろう。

僕はこのくだりを読みながら西部邁を想起した。西部邁は高校生の頃に熟読、傾倒した。
三島にしても野村にしても西部にしても、彼らが最後に選んだ「ああいう行為」を肯定するか否かはおくとして、あれらが「極限の言論」であるのは間違いないと感じたのだった。

そして、これは自らの恥の歴史として語るが、若い頃、一時期、石原慎太郎に「かぶれた」季節があった。
今にして思えば石原なんぞは保守でもなんでもなく、ただの頑迷で、見栄っ張りで傲慢で、弱者に対して威張り散らすことだけが「取り柄」の、ヘタレなチンピラとしか思えないんだけど、彼の「強さ」に(誤って)かぶれた時期があった……。
その石原と前述の三人の間に流れる余りに深くて太い川の存在を今なら明晰に知覚することができる。

北一輝と頭山満が、「右翼」と呼ばれることを快く思わず、自分たちの在り方は(右寄りなんかではなく)「中庸」なんだと主張していた、ということを鈴木邦男さんが語っている。実に興味深い。