大黒寺 | 京都恋慕

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京都が大好き。京都検定1級所持。自らの足で訪れ感じた京都の魅力を、解説を混じえて発信していきます。

 

薩摩藩ゆかりのお寺 大黒寺

 

京都には多くの「七福神巡り」があります。

毎年1月1日~15日に伏見では、伏見の5つの社寺(藤森神社・乃木神社・御香宮神社・長建寺・大黒寺)を巡ってご朱印を集める「伏見五福めぐり」が行われます。

伏見五福めぐりの参拝方法は…

 

①最初に参拝した神社仏閣で色紙を購入 

②5つの社寺を巡って御朱印を集める

③記念品の土鈴が授与✨

 

今回はそのうちの1つ、大黒寺についてのご紹介です💁

 

概要

 

山号:円通山 開山:真如法親王 宗派:真言宗

 

歴史

 

大黒寺は薩摩藩ととてもゆかりの深いお寺です。

その歴史は1615年にさかのぼります。


当時の薩摩藩主・島津義弘が、伏見の薩摩藩邸からほど近いこのお寺に

自身の守り本尊と同じ「出世大黒天」が祀られていることをしり、

伏見奉行・山口駿河守に頼んで、このお寺を薩摩藩の祈願所としました。
以来、現在に至るまでの薩摩藩との深い繋がりができましたハート


その際に御本尊を大黒天とし、

お寺の名前もそれまで「長福寺」だったものを「大黒寺」へと改めました。
また、開山の真如法親王は桓武天皇の孫にあたり、弘法大師空海の弟子でもあった方ですにっこり
 

 

ご本尊「大黒天」

 

御本尊の大黒天像は高さ24cmほどの小さな像で、

出世開運・商売繁盛・家内安全などの御利益がありますキラキラ
通常は公開されていない秘仏のため、普段は厨子の中に安置されています。
公開されるのは60年に一度、甲子の年。

次回の御開帳は2044年ですびっくり

お寺のちょっとしたところに大黒さんがいらっしゃるのも、

大黒寺を楽しさの1つです流れ星

 

お寺の山門の上を見上げるとそこには大黒様が!

 

本堂の前にも大黒天さんの像が安置されています花

 

金運清水

 

本堂の前に「金運清水」という名水が湧き出ています。

伏見七名水の1つにも数えられていますにっこり

 


平成13年に新しく掘られたもので、霊験あらたかなお水とされ

金運良好・資産増加・子孫繁栄などの御利益があるとされていますキラキラ

約60年前に京都の北山に降った雨水が長い時間をかけて濾過され、

伏見のこの地からら湧き出ています。
 

毎月1日にはこの金運清水のお水が、御本尊の大黒天の前に供えられます。

 

 

書院

 

本堂の隣にある書院。
この書院で幕末、西郷隆盛や大久保利通ら志士が集まり

国事や薩長同盟について議論していたとされています。

書院のうちの1つ「会談の間」の欄間には龍の彫刻が施されており

西郷隆盛はこの欄間をとても気に入っていたと伝わっています🐉

 

本堂。本堂の左側に書院があります。

 

 

薩摩九烈士のお墓

 

本堂裏手に寺田屋騒動で粛清された「薩摩九烈士」のお墓があります。


薩摩九烈士とは、1862年の薩摩藩内の同士討ち・寺田屋騒動で亡くなった

薩摩藩の尊王攘夷派の志士9名のことです。

坂本龍馬の寺田屋事件とはまた別の事件です。

つまり寺田屋では幕末に2回の寺田屋騒動が起こっているんです!!

さてその薩摩藩の寺田屋騒動とは…

1862年、事実上、薩摩藩を動かしていた島津久光は公武合体を強く推しており、

その実現のために藩兵1000名を率いて上洛します。

しかし当時は幕末の動乱期。

薩摩藩士の中には
・公武合体=幕府と天皇が手を取り合って政治をしていこう!
・尊王攘夷=これからは天皇中心の政治をしていこう!
という別々の考えをもつ藩士たちが混在していました。

その尊王攘夷派の筆頭が有馬新七でした。
有馬新七を中心とする薩摩藩尊王攘夷派は寺田屋に集まり、

久光が率いてきた藩兵を倒幕攘夷に利用して

関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を襲撃する計画を密かに立てていました。


久光はこの計画を察知し、有馬らに使者を遣わして説得を試みます。

しかし、何度使者をだしても有馬らは応じません。

そして1862年4月23日の夜。

使者側と尊王攘夷派に分けれて話し合いをしますが、だんだんとヒートアップ。

ついには斬り合いに発展して寺田屋騒動が勃発しますハッ

 

有馬新七は敵を壁に押さえつけた状態で味方に「おいごと刺せ!」と叫びます。

「おいごと刺せ」=「自分ごと刺せ!」という意味です。

有馬の必死の叫びを聞き入れた橋口吉之丞は、有馬とともに敵を刺し殺します。

 

そうした壮絶な戦いの末、有馬新七含む尊王攘夷派9名が亡くなりました。

この騒動を聞きつけた大黒寺檀家総代の井筒屋伊兵衛が寺田屋に駆けつけ

9名の亡骸をつつみ、大黒寺へ葬ります。


当初、彼らは藩の意向に歯向かった反逆者とされたため、

立派なお墓を作ることは許されず

土を盛っただけの大変簡素なお墓しか作れませんでした。

しかしその後、薩摩藩はそれまでとは真逆の「開国・討幕派」の方針へ変更。

有馬ら9名はむしろ時代を先駆けした英雄「薩摩九烈士」として

汚名を返上することとなります。

 

そして大黒寺を訪れた西郷隆盛は自ら筆をとり

墓碑を刻んで九烈士のために立派なお墓を作りました。

 

 

平田靱負のお墓

 

薩摩九烈士とともに薩摩藩家老の平田靱負(ひらたゆきえ)がねむっています。


平田靱負は江戸時代の難工事・宝暦治水を指揮した人物です。
濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川の三河川は複雑に合流と分流を繰り返し

暴れ川として古くから周辺地域に大きな被害をもたらしていました。
 

そこで幕府は1753年に人手や資金など全て薩摩藩に負担させ

この三河川の治水工事を命じます。


この難工事の責任者に任命されたのが薩摩藩家老の平田靱負です。

工事は幕府からの嫌がらせがあったり、

幕府に対して抗議のために自害する薩摩藩士がでたり、

病気が蔓延したり、資金が不足したり…と工事は困難を極めました。

そうした苦境の中でも平田靱負は藩士らを指揮し

1755年に工事を無事完成へと導きます。
 

所説ありますが、

工事の総費用は約200億円、犠牲者は80名にものぼったと伝わっています驚き

工事終了後、平田靱負は多数の死者と多大な費用を出してしまった事への責任と

幕府への抗議の意味を込めて切腹します。


その亡骸は京都の薩摩藩の菩提寺のこの大黒寺へと運ばれて葬られました。

 

 

アクセス

 

📍京都市伏見区鷹匠町4
🚃近鉄or京阪「丹波橋駅」より徒歩10分

 

 

 

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