昭和をカタルシス[5] 天才・天然パーマ | 創業280年★京都の石屋イシモの伝言

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私の髪の毛は、父親譲りの天然パーマである。

今は髪にボリュームもなく、短いカットなので気にならないが、
学生の時は、クルクルした、天然パーマの髪がとても嫌だった。

天然パーマは“天パー”や“クルクル頭”“ちぢれ毛”など、
不名誉な呼び名も多く、寝ぐせは酷いし、櫛の通りも宜しくない。

幼児期は、流行りの(?)坊っちゃん刈なので、パーマ・パワーの、
洗礼はないが、中学、高校生と髪を伸ばし始めると、とたんに、
髪が主張し始め、特に外巻きの為、先がピンと跳ね上がっていた。

湿気を良く感知し、朝の髪の巻具合で雨予報ができるほどである。

そんな有難く無い“天パー”だが、確かに、この父の子だという
証でもあって、DNAって奴はキッチリ仕事をするな、と関心した。

                            ◆

父が東海林太郎似で、本人も満更でなさそうだった話を前回した。

ほそ面の色白で、ロイド眼鏡をかけた“天然パーマ”の好男子。
その東海林太郎が同じ早大出なのも、気にいた理由かも知れない。

父は大学では、東洋哲学科に席をおき、仏教学を学んだと聞く。

仏教学者の鈴木大拙に親しみ“悟り”と云う言葉を、良く使った。

“この世の一切の捉われから解放された時、悟りの世界が広がる”
“何事にも捉われず「無」になることが、大切”だと‥

いま思えば、般若心経の世界観を説いていたのかも知れないが、
他界した人に聞く術も無く、今の私には、父の真意は計れない。

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ところで、当時“天パー”の有名人と云えば、もう一人、天才がいた。

初代 林家三平師匠だ。クルクルの“天パー頭”に、拳をおいて
「どうもすいません」と、愛嬌良く詫びる仕草は、文句なく楽しい。

 

他にも、「もう大変なんすから」「身体だけは大事にして下さい」
など、観客を巻き込んだギャグを連発した。初代の爆笑王として、
テレビジョンの黎明期に、第一次の演芸ブームを築いていった。

私はリアルタイムで、三平師匠をテレビで視てないが、改めて今、
動画を視ても面白い。古典落語としての評価は知らぬが、面白い。

豊かな表情に、オーバーアクション。ネタから離れたり戻ったり、
立ち上ったり、アドリブのギャグも入って、観客を飽きさせない。
素晴らしい、笑いのエンターティナーである。

ところで、父が、この三平師匠の落語を好んだかは、知らない。
なにぶん、真面目すぎるきらいのある人だったから。

「こんなのは古典落語と違う」と、TVを消してたかも知れない。

                   ◆

父は勤勉で、新たな知識を得ることに無上の喜びを感じていた。
晩年も、サンスクリット語やイタリア語を、家の炬燵で独学していた。

毎日、言語の本を読み、辞書で調べた事を細かくノートに写し、
喜々として、日々を過ごしていた。本当に幸せそうだった。

「昨日、覚えたことが今日は、半分忘れているよ」と笑ってたが、
そんな生産性は無いが、父にとっては意義のあることが、
父の求めていた“悟り”という、世界だったかも知れない。

私の父親譲りの天然パーマは、年とともにパワーを失った。

求めて得れるものではなく、また、今さらのことだが‥
老いて衰えぬ父の勤勉さは、見習いたいものである。