#25白井くんから紹介を受けました、#Mgr空井春佳です。白井くんは名前の表記が「H.SHIRAI」「H.SORAI」で似ているので、ビジターの試合の際に荷物をよく間違えそうになります笑

今年の阿南合宿では、私のSpotifyで室内練習場に曲を流していたのですが、その中に白井くんのリクエストでIVEの曲が入っていて、それから私のSpotifyにIVEの曲が流れてくるようになり、今ではすっかりIVEにハマってしまっています!

あと、バスで会った時に話しかけていいのかいつも迷ってしまうので、ぜひ話しかけてほしいです!

くれしまとかの席に混ざってみたいと思いつつ、いつもひよっています。
また2回生みんなでご飯に行きたいです!⸒⸒⸜( ˶’ᵕ’˶)⸝
ビュッフェだと遠慮せず食べられるので嬉しいです!!

授業が忙しくかなり息が詰まった生活(#24神作さんからしたらまだまだぬるいのかもしれません)の中での楽しみはみんながいる時間帯に部室に来て部員に会うこと2回生のキセキを読むことです!!キセキはみんなの知らない姿などが見れて嬉しいです!

あまり面白い内容を蓄えていないので、何を書こうか悩んだのですが、これまでの部活動か趣味の古代エジプト🐫かで迷った結果、今回はこれまでの部活動について書こうと思います!

知っている方も多いと思いますが、私は日本語が苦手です。
ところどころ読みにくいかもしれませんが、温かい目で見ていただけたら嬉しいです!!

私の本格的な部活動は、中学校のソフトボール部から始まりました。
入部した頃はルールもポジションも分からないところからのスタートで、運動も得意ではなかったので、バットにボールを当てるのも、塁までボールを投げるのも一苦労でした。

チームの目標は市大会優勝、北河内大会ベスト4(大阪大会進出)でした。
実際に市大会準優勝、北河内大会ベスト8まで行くことが出来ましたが目標達成することはできませんでした。

そんな初めての部活動ですが、結果以上に自分自身の今後の人生を左右する期間だったと思います。
ソフトボールが大好きで毎日部活を生きがいに頑張っていた日々を過ごしていましたが、1年の春にコロナで部活ができなくなってしまいました。
体力を落とさないようにとチームメイトと一緒に天の川沿いを毎朝走っていたのは、今ではいい思い出です。


2年生の後半になって部活が再開してからは徐々に規制は元に戻っていきましたが、練習を続ける中で肘を痛めてしまいました。

そこからは選手兼マネージャーのような立場になり、ノックを打ったり、練習準備やグラウンド整備をしたり、スコアを書いたりと、いろんな役割をやっていました。


この経験がきっかけで、高校野球部のマネージャーに憧れるようになりました。

次に高校生活についてです。
高校は東海大学付属大阪仰星高校に進学しました。当時は「家から近くて野球部がある」という理由で選んだだけで、大阪の高校野球のレベルは全く知りませんでした笑
今思うと、ここから想像もしていなかった生活が始まります。

高校では硬式野球部のマネージャーとして活動しました。
週6日、平日は夜7時半まで、土日は練習試合を1~3試合をこなし、長期休みもほとんど休みがないという、かなりハードな生活でした。


この写真は三重遠征(A遠征)の時の写真です!
四日市市のホテルに泊まり、雨の中お風呂屋さんを探し回って見つけたお風呂屋さんです。もしかしたら#4西塚さん、#12加藤さんと会っていたかもしれませんね!

によりなかなか試合ができず、遠征後のオフが練習になった事実を知り、残留組がオフで楽しんでいるのを見て怒ったのも懐かしいです(普段はそんなに怒らないんですよ!笑)
いろいろありましたが、四日市市はいいところでした!

かなり脱線してしまいました。その他にもたくさん大変なこともありましたが、選手が本気で甲子園を目指している姿を一番近くで支えられるのはすごくやりがいがあり、しんどい中でも続けられていました。

正直に言うと、選手とすごく仲が良かったわけではなく、マネージャー同士でもいろいろありました。それでも「仰星のマネージャーであること」は自分の中で大きな誇りでした。

しかし、高校2年の6月頃にクラスで仲良かった友達が亡くなり、同じ時期にマネージャー間で意見の食い違いが起き、学校や部活に行くのがしんどくなってしまいました。
そして、自分たちの代になるタイミングで退部しました。




退部後の夏休みは、何をすればいいか分からず、気持ちが楽になることもなく、後悔と自分への情けなさでしんどい時間を過ごしていました。
そんな時、同じクラスの軟式野球部の友人が、軟式野球部のマネージャーをしないかと声をかけてくれました。

私は「誰かのために動くこと」が自分の原動力だと気づき、もう一度野球部のマネージャーとして関わることを決意し、軟式野球部に入りました。

軟式野球部では、硬式とは異なり練習補助などはなく、主にスコア記録やアナウンスを担当していました。練習場所がなく教室で練習したり、人数が少なくても選手たちは純粋に野球を楽しみながら、「自分たちが大阪で一番だ」
と本気で信じてプレーをしていました。その姿を見て、もう一度“頂点”を目指したいと思うようになりました。

選手たちは本当に優しくて、試合のたびに「来てくれてありがとう」を言ってくれたり、大会に負けてしまった時は「勝ちスコアをつけれなくてごめん次は絶対に勝つ」と声を掛けてくれたりと最後まで気を遣ってくれたりして、すごく温かいチームでした。

結果は強豪の興國高校に負けてしまいましたが、あの試合ほど勝つことに集中し、気づいたら9回が終わっていた試合はなかったと思います。

高校卒業後、何をするか迷っていた中で出会ったのが京都大学硬式野球部でした。
最初は京都女子大学の食物栄養学科が関わっているというきっかけでしたが、高校の時に憧れていた先輩のように、もう一度大学野球でマネージャーをやりたいと思い、体験に参加しました。

あの体験からもう1年経っていると思うと、少し不思議な感じがします。
#Mgr若葉さんの本気で勝利を目指している姿や、優しい先輩方を見て、「このチームで優勝したい」と思い、今に至ります。

まだまだ未熟で頼りない部分も多いですが、優勝した時に「マネージャーのおかげで勝てた」と思ってもらえるように、これからも頑張っていきます!


ちなみに、趣味の古代エジプトについても、若葉さんともっと話したいですし、好きな人がいればぜひお話ししたいです!

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました!

次は、“まっちょ”こと#23松原悠樹くんです!
体調を崩しがちで、花粉にも苦しんでいる様子が少し心配ですが、それでも日々頑張っている姿が印象的です!リーグ戦で松原くんらしい力強いヒットを放ち、チームに勢いをもたらす姿を見られるのを楽しみにしています!

#35木村くんのキセキでは、私と話している時に松原くんが笑顔になると書かれていましたが、実際は#13窪くんの真似(真似されているとはびっくりです!)を見ているときに笑顔になっているのではないかと思います!私の印象では、どちらかというとキリッとしているイメージです!
あと、私の話し方はそんなに特徴的ではないと思います!

新しく1回生に#65松原くんが入部して、なんて呼べばいいか迷っています。まだ決まっていないので、なんて呼べばいいか教えてください!
いつも優しくてムキムキな彼のキセキ、ぜひ注目してください!

#Staff服部から紹介を受けました2回生の#25白井秀宜です。彼は構内で見かけるといつも声を掛けてくれて話してくれます。いつも勉強に忙しそうな様子ですが良い意味での休部らしいのでチーム宇治線ユーザーとしてお互い頑張っていこうね!


さて初めてのキセキ執筆ということで書く内容を迷い散らかして決めかねていましたが皆さんに「ありえないです。」と言われない公式ブログにふさわしいテーマとしてオフの過ごし方について書こうと思います。僕は休みは専ら電車で一人旅に出かけます。その目的は様々で、
①ただ電車に揺られる時間が欲しい、②引退する車両を見に行く、③少し遠出して旅行と兼ねる、の大きく3つです。①に関しては気分転換的要素が強いです。受験生が休憩時間にTikTok見るのと似ています。どこに行くと決めるわけでもなくふらっと京都駅とかに行って気分で電車に乗って適当に乗り換えてまた京都駅に戻ってくるようにうまいこと路線を乗り継ぎます。特急とかも乗る時もあります。これは普段のイメージトレーニングが大切ですね。最低でも関西の路線図は頭に入れておくと楽だからです。その場で思いついた乗り換えコースと時刻表を照らし合わせてルートを決める超マルチタスキングな作業です。正直京大文系数学2025より険しいです。(詳細は#36拓歩のキセキを参照)
沢山乗り換えするときもあるので興味のある人は鉄オタ#32髙井のキセキで乗り換えの極意を学んでください。#6田澤#27山下にこのことを言ったら金払ってなんでわざわざ時間潰しに行くんかわからんと言われました。彼らは全く見えてないと言いたいところですが変に刺激して目を付けられるのも御免なのでそれはそれでナイス、としておきます。


また新大阪の駅ナカに好きな串カツ屋があり、そこに行くときも道中を楽しむために色んな行き方でいきます。
京都⇒草津→(草津線)→柘植→(関西本線)→加茂→(大和路線)→大阪→新大阪
京都→(奈良線)木津→(片町線)京橋→(東西線)尼崎→新大阪

これでどうだ、とドヤ顔であぐらをかきたくなるルートです。最初のルートなんて最速で2時間半かかります。遠回りルートについて#34太我からは移動手段なんて何でもいいし、はよ着いた方がええやろ、と全く見えてない事を言われました。そら5か月出せへんわけや。この後髙井から愛のある指導が入っていました。懐かしいです。あのイチローも稲葉篤紀さんとの対談で遠回りってすごく大事と仰っていたので多分僕の敷居がイチローと同じくらいだということだとおもいます。ただまだまだ#35木村の敷居の高さには及ばないので精進していきます。

②については僕が葬式鉄気質なのもあって引退が囁かれる車両を見に行って記録しています。(③でも触れますが)今年のダイヤ改正前後は忙しかったです。JR貨物のEF66の100番台の定期運用が終わったり、岡山地区の115系の置き換え、東海地区の213引退など飛び回りました。66の時はInstagramでロクロク引退カウントダウンみたいなことしてる人がいて、それに感化されて(?)2月の強化練の中日のオフで吹田機関区に行って目に焼き付けました。


③もはや旅行するために鉄道に乗るのか、鉄道に乗るために旅行しているのかわからなくなってきてますが、この春休みは岡山と高山に行きました。山ばっかですね。岡山は国鉄時代の車両がまだ残っており、それらを拝むために2月前半に行きました。のぞみで小一時間揺られて岡山に到着。ひかりレールスターとドクターイエローと10年越しの対面を済ませたところで在来線ホームでお目当ての115系岡山色やキハ40などを堪能しました。


とくにこの写真の115系の先頭車は元々中間車だったもので、無理やり運転台を取り付けて先頭車にしています。国鉄車両によくある改良方法で、この車両は輪郭などが由来となって食パンと呼ばれています。お目当てが見れて満足でした。そのまま#29徳成の地元高松までマリンライナーで行って瀬戸内海に癒されました。彼曰く中心地には飲み屋が沢山あるらしいのでいつか酒とネパール人には適性SSS太我も呼んで行きたいと思います。その後岡山まで戻って時間もあったので新幹線ではあえて帰らず、普通で相生まで行き、スーパーはくとで京都まで帰還しました。帰りにスーパーはくとが使えることに気づいたのと、上郡でなくあえて乗り換えの楽でコンビニのある相生で特急に乗り換える決断をした自分を褒めたいです。ちなみに木村は相生に住んでたことがあるらしいですが、相生は彼の中身くらいなにも無かったです。嘘です。木村泣くなよ! スーパーはくとは智頭急行所有の気動車特急で何気に初乗車でしたがディーゼルとは思えないほど静かでいい感じでした。
高山には3月下旬特急ひだに乗りたかったので京都から4時間かかりましたがやっと小京都と言われる高山に着きました。


RADWIMPSの飛騨探訪を聞いて気持ちも高山に染め上げました。そして駅前をぶらぶらしました。これ金沢にも言えるんですが小京都と言われる所ってマジで京都でもなんでもないのでそんな変な名前で名乗らんといて欲しいというのが20年京都に住んできた人間の意見です。「『小』ってつけたはるあたり謙虚なんか図々しいんかよう分からんねぇ、」 高山駅は自動改札が無く、手動で切符が切られておりおもしろかったです。自動券売機もなく駅員が切符を販売していました。高山本線は観光路線として知られていて4月とかなら沿線桜並木だったので綺麗だっただろうなーとか思ってました。あと日本人リアルに1車両に僕だけでした。観光シーズンというのも相まって一瞬攘夷運動おこしたろかと思うくらい四面楚歌でしたが、伏見稲荷が近所の僕はまだ耐性がついていたようで快適な旅でした。全然関係ないですが(?)稲荷でも昔無尽蔵にいらっしゃった支那方面からの観光客を最近見かけなくなりました。面長グローバリストでお馴染みの#62兼岩の意見も聞きたいものです。


高山に行ったのをストーリーに上げたら#42藤田さんが反応してくれましたが、あの人も東京遠征の空き時間に電車を見に行く鉄オタなのが最近判明しました。ちなみに#68安藤も鉄オタらしいです。僕とは違う人種ですね。話を戻して高山本線は岐阜から富山までを結ぶ観光路線で僕のプランではもう一度ひだに乗って富山まで行って富山の路面電車を見て新幹線とかで帰ろうと思ってましたが線路の不具合で富山まで行けなかったので名古屋まで戻って名古屋駅を探検(名古屋駅は通称名駅で構造がややこしすぎて別名迷駅)し、疲れたまま京都までしれっとグリーンで帰還しました。かなり険しい、乳酸のたまる旅でしたが(詳細は#37和輝のキセキを参照)とても楽しいオフでした。
 ざっくりオフの過ごし方を述べましたがかなり独特な過ごし方ではないかと自負しています。次は和歌山を周回しようと思っています。多分くろしおと南紀にお世話になると思います。あと別にオフは旅行ばっかしてるわけではなく、北白川の方で文化的活動にも精を出しています。#30高山絶対勝つぞ。

次は2回生マネージャーの#Mgr空井春佳ちゃんです。彼女の日々の献身的なサポートには部員全員感謝しています。ありがとう。いつもニコニコしている彼女ですがえげつなく大食いらしいのでいつか2回生プレイヤーとの大食い対決も見てみたいです。そんな彼女のキセキもお楽しみに!!

お久しぶりです。そして1回生の皆さん、初めまして。#26島から紹介を受けた、絶賛休部中のくせに何かと野球部に首を突っ込んでいる2回生アナライザーの#Staff服部龍生です。彼とは行き帰りに同じ電車に乗り合わせることがあり、そのたびに視線を送っているのですが、なかなか気づいてくれません。悲しいです。


さて、本題に入りたいところですが、僕は仕事の特性上、選手と関わる機会が少なかったため、僕のことをあまりご存じでない方も多いと思います。そこで今回は自己紹介を兼ねて、高校に入るまで野球の経験がなかった僕が京大野球部に入るまでのターニングポイントとなった出来事を中心に、これまでの人生を振り返ってみたいと思います。

僕は小学生時代から阪神ファンです。関西人なので当然ですね(2回生の中には大阪出身を謳いながらオレンジ色の関東球団Gを応援している人がいます。許せません)。阪神を応援し始めた頃から鳥谷選手のファンでした。何事においても、能力のバランスがよく安定感があるタイプを好む癖は当時から健在だったようです。この頃の野球の経験といえば祖父とのキャッチボール程度。時々テレビで見るプロ野球の真似をして、祖父に投げてもらったゴロやフライを捕ることはありました。
この頃にそこそこ真面目にやっていたスポーツは、どちらも親に習わせられていた水泳(3歳〜小4)と空手(小1〜中2)で(余談ですがNiziUのリクも同じところで空手を習っていました)。中学校では卓球部に入ります。もともと卓球をするのが好きだったのと、練習・トレーニングや雰囲気が真剣ながらも適度に緩くて楽しめそうというのが入部した理由だった気がします。


一つ目のターニングポイントは高校入学です。最終的には堀川高校に入学するわけですが、そこを受験することになったのは親と塾長に勧められたからという極めて消極的な理由でした。受験当日も最悪落ちてもいいかと思っていましたが、入学後に周りの影響もあってとりあえず志望大学を京大と言っているうちに、いつのまにか京大に拘るようになっていたことを考えると、落ちなくてよかったと心の底から思います。

二つ目は高校の部活選びです。コロナ禍だった中3の夏は市大会のみの開催となり、例年であれば進めたはずの府大会等が開催されず不完全燃焼に終わっていました。そのため、高校でも卓球を続けたかったのですが、あいにく高校に卓球部がなく、部活選びに頭を悩ませます。球技には多少の自信があったのでひとまずサッカーとテニスの体験に行ってみたものの、どこかしっくりきていませんでした。そんなある日、同じクラスで席が近かった人が野球部だったので、彼についていって野球部の体験に行ってみたところ、(人数が少なかったせいか)初心者でも温かく迎えてくれ、その雰囲気の良さにも惹かれて入部を決意します。こうして卓球部→野球部という珍奇な経歴の外野手が誕生しました。

しかしながら高校から野球を始めたばかりの選手が目覚ましい活躍をするわけもなく、壊滅的な打撃と絶望的な走塁でチームの得点期待値を下げ続けます。言うなれば、身体能力を低くした江越選手といったところでしょうか。ただ、バントだけはチームで一番うまいと自負していました。最初の方こそマシンのボールとバットで親指を挟んで爪がとれたこともありましたが、高3になってからのバントミスはなかった気がします。


中でも象徴的だったのが、投球と同時に1塁走者がスタートを切って僕はバントの構えに入り、バントの構えにつられて前に出てきた投手と一塁手の間を抜くようにプッシュバントをするというものです。盗塁だと思って2塁に寄った二塁手が1塁に入れなかったり、投手と一塁手が二人仲良くボールを追いかけたりする間に1塁はセーフになるという寸法ですが、こんな机上の空論がそう簡単にうまくいくはずもなく......と思いきや、これが毎回のように決まるんですね。おかげでなんとかギリギリかろうじて見ていられる打率は維持していました。特に、最後の夏の大会でこのバントをし、僕が一塁手と競走する間に1塁走者が3塁まで到達していたときはドーパミンがドパドパ出まくっていました。この形を編み出して、打つ方はなんとかしてくれた高校時代の監督には感謝してもしきれません。


加えて、バント大好き芸人と化した僕には走者3塁の場面で必ずと言っていいほどセーフティースクイズのサインが出されたり、四球もそこそこ選んでいたりしたため、ヒッティングでのヒットが極端に少ない割には、やけに打点と出塁率を稼ぐという非常に気持ちの悪い成績でした。8番を打つ僕の一つ前で大暴れしていた誰かさんにも感謝しないといけませんね。


▲高3時の打撃成績(こんな活躍をまた見せてほしいものです)

ちなみに僕が高3のときの外野の布陣は
左翼:ケガで外野に回っていた投手(3年)
中堅:高校から野球を始めた元卓球部(3年)
右翼:中学時代は陸上部だった少年野球経験者(2年)
でした。これを上回る“ファイヤーフォーメーション”はそうそうないと思います。

部活を引退し、先ほども話したように京大以外には行けない体になってしまっていた僕は受験勉強に勤しみます。ところが、二次試験本番で数学の確率を求める大問では場合の数を求め、さらに数年ぶりに出題され後で解こうと思って一旦飛ばした英語の記号問題(4問)を解き忘れるという大失態を犯します。この2つだけで25~30点くらいは落としたでしょう。この結果、-6点で不合格となります。一体何をしているのかと言いたいところですが、結果的にはこれが3つ目のターニングポイントとなります。
一応後期で受けた神戸大学には合格していたのでひとまずそちらに入学します。実を言うと神大に行ったのは後期試験の日が初めてで、そもそもあまり詳しく調べもせず受験していたので、一度入学してみてそれでも京大への思いが消えなければ浪人しようと考えていました。僕のせいで落ちてしまった人、本当にすみません。しかし、やはりその思いが消えることはなく(あと家から神大まで2時間程と遠く、もっと通いやすい大学がいい等の他の事情も影響して)、5月ごろには早々に後期は休学して仮面浪人することを決めます。

一応大学生としての生活を送っていた2024年の7月、後輩の夏季大会の応援にわかさスタジアムに行ったときのことです。同じく応援に来ていた#39神﨑神﨑さんに浪人する旨を伝えると、京大野球部でアナライザーをやらないかと誘われました。ただ、それまで大学でも野球部に入るつもりは微塵もなく、この勧誘を受けたときもさほど僕の心には響きませんでした。
8月を迎え、神大生としての生活も一区切りつくと徐々に受験勉強を再開させ、9月からはエンジン全開で丸一日勉強漬けの日々が始まりました。ここで軽く浪人期についても触れておくと、大手予備校ではなく、高校の同期が浪人期に通い始めた個人塾に僕も入りました。塾といっても自習場所欲しさに通っていたのでほぼ宅浪みたいな感じです。この塾では基本的に日中は僕と高校の同期の2人だけで、話す友達もそんなにいない生活だったため、せっかく思いついたのに行き場のないボケをInstagramに垂れ流して供養するという奇行に走っていました。


僕が京大野球部への入部を選択肢に入れ始めたのはこの時期です。神﨑から野球部の話を聞いているうちに少しずつ興味を持つようになりました。この時点では入部を決めていたわけではありませんが、京大合格を目指すモチベーションの一つにはなっていました。勧誘を受けた当初は入るつもりがなく、話を聞いているうちにそれもいいかもしれないと思い始めたので、現役で受かっていた場合は多分野球部には入っていなかったと思います。一度不合格になって正解でしたね。

そうして迎えた2度目の二次試験では、二度と同じ過ちは繰り返すまいとこれでもかというほど見直しをしたかいがあったのか、無事合格を果たしました。

入学後も、神﨑からだけでなく、運動科学の授業に行ったときには神﨑父からも再び熱烈な勧誘をしていただき、一度見学に行って#53赤尾さんからアナライザーの説明などを受けたものの覚悟が決まらず(心のどこかでは入部するつもりだったと思いますが)1ヶ月ほど入部をためらって赤尾さんを焦らしまくってしまいましたが、リーグ戦が終わったころにようやく覚悟を決めて入部することになりました。

こうして振り返ってみると、人生は偶然の連続なんだなとつくづく思います。どこかで一つでも違う道を選んでいたら京大野球部には入っていなかったでしょうし、そもそも中学校で部活を決める段階では最初から野球部は選択肢から除外していましたから、人生何があるか分かりませんね。

徒然なるままに話を盛り込んでいったのでかなり長くなってしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

次は2回生内野手の#25白井です。彼は去年2回もスマホをなくし、しかもそれをとある先輩Kのせいにしていました。そして最近では練習中に歯を折ってしまったようです。そんな不運が尽きない彼はいったい何を語ってくれるのでしょうか。ぜひご覧ください。