
当寺は応永二十二年(1415)日隆上人によって創建された本門法華宗の大本山で、はじめ五条坊門にあって、本応寺と号したが、天文十四年(1545)に、油小路蛸薬師の地に移った。この地で天正十年(1582)、織田信長が家臣明智光秀に襲撃され自刃した。いわゆる本能寺の変である。現在地へは秀吉の区画整理によって天正十五年(1587)年に移転した。
明智 光秀(1528? -1582)
通称は十兵衛。正式な名のりは、源光秀(みなもとの・みつひで)生年は不詳であるが、妻は妻木載煕の娘の煕子。娘は細川忠興正室玉子(細川ガラシャ)、その系統は現在の細川護煕元首相に続く。
本能寺の変
1582年、羽柴秀吉の毛利征伐支援を命ぜられて出陣する途上早朝、主君である信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して信長を自害させた。この謀反事件、いわゆる本能寺の変で、なぜ光秀が信長を襲ったのか、さまざまな理由が指摘されているが、いまに到るも確固たる原因は不明である。
1.長年の恨み説 明智光秀は主君・織田信長と相性は良くなかったらしい。しばしば「きんかん頭」とからかわれ、陽性の秀吉に比べやや陰性の感もあり、遠ざけられていたと言われる。また、丹波攻略の最中、信長の指令で母親を見殺しにした経過もある。これに加え、本能寺襲撃の直接な引き金になったのは、滋賀郡・丹波を返上し中国2国に移るよう命ぜられたことによる。
2.将軍・足利義昭の指令説。或いは朝廷の令旨説 明智光秀は足利義昭のお供として織田信長に仕えた経歴があり、彼が主に京都近辺で活躍したのは足利義昭主従であった細川藤孝・和田惟政及び興福寺(義昭出家の寺)を支配させるためであったろう。結果的に京追放に関わったとはいえ、恩義も関係も深い義昭から幾度となく誘われれば光秀とて断りにくくなったのではないか。1582年頃には信長は強引な朝廷工作を行い始めている。これに閉口した朝廷から命ぜられれば光秀とて考えるのではあるまいか。
3.四国説 比較的新しい説。織田信長は明智光秀に四国の長宗我部氏を懐柔させるべく命ぜられていた。そして斎藤利三の娘を長宗我部元親と婚姻関係を結ぶまでこぎつけたが、1580年に入ると織田信長は武力による四国平定に方針を変更し光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀(正確には利三)が本能寺を襲撃した。この説は井沢元彦氏著「逆説の日本史」より抜粋
南光坊天海説
山崎の戦いで敗戦後、光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説もある。南光坊天海は江戸時代初期に徳川家康のブレーンとして活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。日光東照宮に明智の紋である桔梗の彫り細工が多数あること、日光に明智平と呼ばれる区域があること、秀忠の秀と家光の光は光秀の名に由来してつけたなどが異説の根拠として挙げられている。 もし本当だとすると116歳(記録では108歳で没)で没したことになり、いささか無理が生じる。筆跡鑑定では他人と判断されている。
境内自由
JR京都駅から市バス17,205番で京都市役所前下車、寺町御池下がったところです。徒歩約3分
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