kyoritsu-utsunomiyaのブログ

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今日は北関東へ日帰り旅です。

目的地は2つ、最初は高崎市の外れに在る小栗上野介のお墓参り、2番目は足利学校です。

小栗上野介忠順(ただまさ)は江戸幕府の旗本幕臣で幕末に大活躍し、あまり知られてはいませんが(実際には隠されていたのですが)日本近代化の礎を築いた方です。

足利学校は言わずと知れた日本最古の大学です。

小栗上野介のお墓は群馬県高崎市の東善寺にあります

高速道路の高崎ICを降りてからは結構な距離がありました。

バス便もありましたが、車でないと不便な場所です。

上野介、いかにも聡明な顔立ちです

17歳で江戸城に登城して幕府に仕えています。

若くして頭角を表し、外国奉行、勘定奉行、南町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、軍艦奉行、海軍奉行などを歴任、兼任しています。

奉行は現在で言うと各省の局長クラス、良くて事務次官に相当する役職だと思います。

大名が務める老中は大臣職に相当しますので、奉行職はあくまでも実務的な役職です。

しかし、殆ど全ての奉行職を歴任・兼任したことになりますので、実務官僚としては八面六臂の活躍だったと推測されます。

その才能を妬まれて敵も多かったようです。

ちなみに登城は籠ではなく馬だったようで、その馬蹄の響きの早さから「これは小栗殿の途上也」と分かった、と言う逸話があります。

赤枠が小栗上野介の生家、現在の千代田区駿河台です

生まれはいわゆる旗本です。

小栗家の石高は2700石、1万石を超えると大名なので結構な身分だったと思われます。

小栗上野介は東京のど真ん中で生まれた江戸っ子でした

お屋敷は970坪との事で広すぎて想像もつきません。

江戸後期の地図による小栗上野介の生家

区画整理はされているとは思いますが、江戸後期と現在の東京は基本的には一緒なのですね。

小栗上野介忠順、忠道の本墓

墓石の左側に名前のある「忠道」は小栗上野介忠順の養女「鉞子(よきこ)」の婿です

西軍(後の新政府軍)によって裁判も行われず、家臣3名と共に一方的に斬首されてしまったのです

幕府(15代将軍慶喜)に自分の建議(あくまでも西軍と決戦を行う)が容れられず、地所の上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)に戻って静かに暮らしていたところを襲われています。

容疑は「地所で兵を鍛錬し反乱の準備をしている」と言う根も葉もないものでだったようです。

これも明治維新の側面でもあります。

のちに福沢諭吉が小栗上野介を「鞠躬尽瘁の人」と評しています。

鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)とは「身を低くして自分のことを顧みずに国のために命を懸けて尽くすこと」とあります。

そのような人物が昔は数多くいたのでしょう。

今の政治家にはおそらく一人も居ないでしょう。

 

話は戻ります。

小栗上野介は万延元年(1860年)、遣米使節団の一員に選ばれてアメリカ(サンフランシスコ、フィラデルフィア、ワシントン)に向かいます。

正使の新見正興を補佐する目付(監察役)と言う役職でしたが、さぞかし優秀だったのでしょう。

その際に乗船した船が「ポウハタン号」です。

有名な咸臨丸ではありませんよ!

小栗上野介が渡米した際に乗船した「ポウハタン号」の模型

2400トンの「帆船+蒸気船」ですね。

日本には和船しかなかった時代、乗船した武士達はさぞかし驚愕したことでしょう。

しかし、小栗上野介は左程驚いていなかったようです。

浦賀にペリーが来航した後に「異国船に対処する詰警備役」という役職に就いた事があったので、蒸気船や外国人に接する機会が多く、臆する事がなかったようです。

ポウハタン号、今回初めて知りました

遣米使節団の船として有名なのは勝海舟が艦長として乗船した咸臨丸ですが、これはポウハタン号の付き添いの随行艦としてサンフランシスコまで行って帰ってきただけの船でした。

軍艦奉行の木村芥舟が司令官として乗船していましたが、この木村の従者として乗船していたのが福沢諭吉でした。

福沢諭吉と小栗上野介は面識があったのですね。

勝海舟も木村芥舟も福沢諭吉も遣米使節ではありません。

もちろん勝海舟はワシントンを訪れてはいません。

しかし、この幕府側の遣米使節団の功績を快く思わなかった明治政府(勝海舟?)がポウハタン号の行動を故意に隠し、随行艦でしかなかった咸臨丸を必要以上に知らしめ、あたかも勝海舟が遣米使節団の一員のようなイメージを作り出して流布させたのでした。

明治政府の陰謀です。(小栗上野介を殺害させたのも勝海舟だ、という説も根強いです)

ポウハタン号は途中、石炭や水の補給のためにハワイに立ち寄っています。

カメハメハ国王夫妻の写真

国王が身に纏っているのはドイツ軍の軍服だと思います。

僕の記憶ではドイツに留学していたはず。

小栗上野介はカメハメハ国王にも会っているのですね。

この後、明治27年(1894年)にハワイ王国は共和国にさせらてしまい、ついには明治30年(1897年)にハワイはアメリカに併合されてしまうのですが、日本の近代化、戦艦などの軍備の強化があと10年早かったならばハワイは日本が統治する事となっていた可能性もあったのです。

アメリカの艦砲外交を嫌っていたカラカウア国王(カメハメハ国王の次の次の国王)は日本の皇室と姻戚関係を結ぼうとしました。

カラカウア国王は明治14年(1881年)来日して明治天皇と会談しています。

カラカウア国王の姪のカイウラニ王女の婿に皇族の山階宮定麿親王を迎えたい、という希望を出したのです。

この政略結婚はアメリカの反感を買う、と判断した明治政府は断ったのですが、ハワイ王国がアメリカよりも日本に救いを求めていた時代があったのです。

政略結婚は断った日本でしたが、ハワイへの日本人移民を増やして欲しい、というカラカウア国王の要望は快諾しました。

アメリカからの移民(入植者)が増えてハワイ王国議会の多くを占めるようになり、このままではアメリカに併合されてしまう、という危機感から出た提案です。

実際、この提案のお陰で日本人のハワイへの移民は加速度的に増える事になりました。

カメハメハ国王もカラカウア国王も実は選挙で選ばれた国王なのです。(以前からハワイはとても民主的な国だったのです)

しかし、アメリカ移民の勢力が強くなり、実質的な権力を失って失意のうちに亡くなったカラカウア国王の跡を継いで1891年に国王になったのは妹のリリウオカラニす。ハワイ王国第8代の国王です。(これだけは選挙ではありませんでしたが)

しかし、彼女がハワイ王国の最後の国王となってしまいました。

今でもハワイで歌い継がれている「アロハ・オエ」の作詞作曲者としても有名です。

ハワイの歴史が長くなってしまいました。

 

遣米使節団はサンフランシスコ、パナマまでポウハタン号に乗船し、パナマの東岸からはロアノーク号に乗り換えてワシントン、ニューヨークに向かいました。

パナマ運河の開通は1914年(大正3年)ですので、この時点ではパナマの西岸から東岸への移動は陸路、パナマ鉄道でした。

このパナマ鉄道は株式会社で「出資者を募り鉄道を建設し、出資高に応じて利益を還元する」という株式会社の仕組みを小栗上野介はここで学習したと言われています。

日本に帰国してからの株式会社の設立に大いに役立ったと思われます。

ロアノーク号の模型

ロアノーク号は3400トン

ポウハタン号の2400トンよりも一回り大きな船だったようです。

パナマの東岸の街、アスペンウォールからワシントンまで遣米使節団を運びました。

ワシントン(もちろんアメリカの首都です)に着いた遣米使節団一行は結構な歓迎を受けていたようです。

ニューヨークタイムズ紙などでも取り上げられていたようです。

ワシントン海軍造船所を見学した際の写真

氏名が分かるイラスト、小栗上野介は前列右から2番目

ワシントン海軍造船所の見学が一番の訪米の成果だったのではないでしょうか?

ワシントンでは近代化、特に軍備の近代化を学んだのです。

ここを小栗上野介が訪れなかったならば日本の近代化は10年以上も遅れていたに違いありません。

日清戦争、日露戦争も行われてなかったかもしれません。

それほど日本近代化への貢献は著しいものがありました。

金属製のネジ釘を沢山持ち帰りました

日本にはなかったものです。

さぞかし驚いたと思います。

これが小栗上野介が持ち帰った金属ネジ釘の実物

当時の日本人にしてみれば画期的なものでした。

外国から機械や船舶を輸入するだけではなく、その修理や消耗品の補充も国内で出来なければ本当の近代化では無い、と思った人物でした。

フィラデルフィアでは通貨の交換比率の不平等の解消にも取り組んでいます(残念ながら結果的には交換比率の変更は叶いませんでした

が、その理路整然とした交渉にアメリカ人も感銘を受けたそうです)

15代ブキャナン大統領とも面会しています

ニューヨークタイムズでも取り上げられています

1860年、明治維新のずっと前です。

アメリカの「文明の利器」を日本に導入する事は一種の使命だったに違いありません。

ワシントンを後にしてニューヨークからは3番目の船、ナイアガラ号に乗船して日本に帰国しています。

小栗上野介らの遣米使節団の航海経路

大西洋から希望峰を回ってインド洋経由で帰国しています。

これも殆ど知られていないですよね。

世界一周した初めての日本人と言われています。

 

帰国後に小栗上野介の尽力で造られたものが数多くあります。

 

 

中でも一番重要だったのが横須賀製鉄所でした。

のちの横須賀造船所です。

現在も使用されているドライドック

慶応2年(1866年)に着工されて明治4年(1871年)に完成しています

実際にはアメリカの基地内にあるので見学は叶いません。

もちろん、小栗上野介はその完成を目にしていません。

栗本鋤雲の胸像

横須賀製鉄所建設の功労者

小栗上野介と共に幕末の日本近代化に尽力した方です。

初めて知りました。

この方も旗本なのでしょう。

築地ホテル館の錦絵

小栗上野介の提案で慶応3年に着工して翌慶応4年に完成しています。

日本で初めての西洋式ホテルで、資金を民間から募り株式会社方式で建設されています。

水洗トイレやシャワー、ビリヤード室、バーなどを備えた本格的なホテルでした。

築地ホテルの模型

ちなみに建築を請け負ったのは清水喜助、現存している清水建設の2代目でした。

残念ながら明治5年に焼失してしまいました。

東善寺の前の県道脇に建てられている道標

小栗上野介の生家へは131.5km、造船所のある横須賀までは189.2kmと記されています。(横須賀に行く予定が出来ました)

 

東善寺を後にして足利学校に向かいました。

16時半が最終入場だったので急ぎました。

足利学校の入り口

正面は少し分かりにくかったです。

日本最古の大学です。