※平安京の内裏(皇居)の内郭・外郭の配置図
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 平安京創建時の内裏の配置図です。京都御所の配置図とは異なる。



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                  ウイキペディアフリー百科事典:平安京

①延暦13年(794年)桓武天皇の創建時の平安京は京都御所より1.7Km西の千本通りにありました。
大内裏(だいだいり)の中に造られた天皇の住まいである内裏。
 しかし、幾度も火災に遭い、天皇は摂関家の邸宅などを里内裏(仮皇居)として利用されていました。
 安
貞元年(1227年)に火災で内裏が焼失した際を最後に再建されることはありませんでした。(当時
の天皇は後堀河天皇、鎌倉幕府の将軍は藤原頼経、執権は北条泰時)
 
②現在の京都御所は、平安京内裏の焼失等の際に、天皇の仮住まいとなった里内裏の一つであった東洞院土御門殿(つちみかどひがしのとういんどの)に由来し、元弘元年(1331年)、光厳天皇(こうごんてんのう )即位され、明徳3年(1392年)南北朝の合一により名実ともに内裏(皇居)となりました。
 ※現在の建物の多くは安政2年(1855年)に再建されたものであります。

③明治2年(1869年)明治天皇の遷幸されるまでの約500年もの間、天皇のお住まいでした。


源氏物語と古典こてん イメージ 2 
  上記画像提供者(著作権は放棄されていません。印刷物無断転用不可です。)
平安時代の文学年表や源氏物語などの古典を解りやすくイラストで描かれて楽しく紹介されています。☆☽

・京都通

・平安宮内裏を歩く
  ※A.事前レクチャー B.昼食会 C.平安宮内裏散策
現在の住宅地図と平安宮内裏の建物配置図を重ね合わせた地図を片手に、
1000年後の内裏を歩いて回るというわくわくする企画♪
  ※本文
『平安京提要』 角川書店, 総監修・角田文衞の「平安宮内裏復元図」をもとに、平安宮内裏址を実際に歩きながら学んだことなどを紹介。

・古典総合研究所
特に源氏物語を中心に和歌、古典用語、植物なども詳しく解説されています。

・四神相応(しじんそうおう)
 日本の平安京においても、北の丹波高地を玄武、東の大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、南にあった巨椋池を朱雀とする対応付けが可能で、背山臨水を左右から砂で守るという風水の観点から正しく京都は四神相応の地であった。
 

(ウイキペディアフリー百科事典)   
平安時代(へいあんじだい)
  延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)
延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。

南北朝時代(なんぼくちょう)
 京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥ってしまった。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
 鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。

光厳天皇(こうごんてんのう )
 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日)
後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。

光明天皇(こうみょうてんのう)
 北朝二代として扱われている。

源氏物語(げんじものがたり):文献初出は1008年(寛弘五年) 
 平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説である。文献初出は1008年(寛弘五年)で、この頃には相当な部分までが成立していたと思われる。