ひとつ前の記事で智くんの舞台について
智くん、そしてきださんの言葉を引用しながら
自分なりに書いてはみたんだけど
なんかまだスッキリしなくて。
アートと踊りが智くんにとって大切なものであり
智くんの根底にあるものだというのはわかっていて
舞台もそれに近い位置にあるものなんじゃないか、と思っているんだけど
それを裏付けるものがないから
ただの自分の想いでしかなくて。
なんとなくずっと
智くんの舞台のこと考えてた
そしたら…なんか少し見えてきた気がする
書きながらもう少し、見えてくるかもしれないから
とにかく、思うことを書いてみる
まずは智くんの舞台を時系列順にまとめた自分の記事からのスクショ⬇️これがないと私、先に進めない
まず
『ジャニーズファンタジーKYO TO KYO』。
これを外して智くんの舞台は語れない。
これ⬇️も自分の記事のスクショ
VHSで映像になっているのは1997年公演のほう。
でもこうして見ると1998年のほうが断然長い期間やっているのがわかる。ほぼ半年、京都での公演。
『アラシゴト』に高校を3日で辞めた話から
でも高校に通ってたら、京都には行けなかった。ボクの選択はまちがってなかったと思う。京都での経験は、ボクの中でものすごく大きなものになってるから。と。
京都1年目の1997年
劇中フライングしながら「東京に帰りたい」と
涙が止まらなくなってしまった智くん。
それでも、
2年目(1998年)の公演も自分から「行きたい」っていったの。ソロで踊れるって話を聞いて、行きたくて行きたくて。東京でいろんなビデオを見て練習して行った。
このときのソロ『COOL』は、初めて納得のいく踊りができた思い出の曲。今でもあれほどは踊れないって思うくらい、思ったとおりに体が動いた。
映像になっている1997年公演のほうに智くんのソロ『COOL』がないのは、そもそもソロ曲ができたのが1998年公演のほうだったということだと、今気付いた笑
だから『COOL』は
嵐ファーストコンサートが収録されている
『スッピンアラシ』で初めて映像化になったんだね
『スッピンアラシ』のメイキングで
ファンの子たちが大野くんには踊ってほしいっていう、踊りがもっかい観たいって言われたから…じゃあ踊ろって思って…じゃ曲はなんにしよっかなって言われて、ファンレターたくさん読んだら『COOL』やってほしいって言われて、じゃあ『COOL』やりますわって。
この『COOL』についてはその20年以上を経て
Voyage で当時の気持ちを語ってくれて。
当初は自分の踊りが下手くそすぎてショックだったから、そこからずっと練習してた、という話から。
初めてちゃんと見れたのは、京都…2年間居た時の…17歳の時かな。ソロ…ソロ曲が当時できてて、そこで初めて自分のようやく見れた。初めて納得できたから。だからそれずっと見てた。チッ上手いなぁ、とか言いながらひとりで笑。それ初めて見れた。
ソロ曲『COOL』ひとつとってみても
この『KYO TO KYO』が智くんの踊りの原点であろうとわかる。
『アラシゴト』で
ショータイムも自分たちで考えて
2年目はどんどんいいステージになっていったと思う。
2年目はすごく充実してた。
お客さんもけっこう入った。
その1998年公演はその9月に
座長であり、智くんが慕っていた原くんが東京での舞台出演のため東京に帰ることになって、代わりに智くんが座長をつとめることになる。
それはもう不安だった、と別の雑誌で。
その11月29日、千秋楽で智くん涙。
全ての面で''やり切った''のであろう智くん。
「芸能界はもういいかな」って思ったのもそのとき。
その頃、絵を描きだしてたから
自分の納得のいく踊りもできたし、東京に戻ったら事務所をやめて、新しく絵の関係の仕事につこうと思った
そこから、
一応「やめる」って意思は伝えたんだよ。でもなぜか『MASK』に出ることになって、そのままズルズルと『PLAY ZONE』にも出ることになっちゃった。
それが1999年1月 堂本光一くん主演
『SHOW劇99 MASK』。
1997年のほうは坂本くん、井ノ原くん、岡田くん主演で、パンフレットに智くんの名前も載ってるけど、1999年のほうは智くん出演が急に決まって、パンフに名前も間に合わなくて載ってないそう。
あ、話しがどんどん広がっていっちゃうけど笑
この1999年は、
智くんとしては事務所を辞めようと思っていたけど、その意思に逆らうように仕事が入る。ジャニーさんが智くんをどれだけ辞めさせたくなかったか、がわかるような、1999年。
初めての舞台。智くん16歳から17歳。
他の東京のジュニアたちがテレビに出ていた時に、自ら京都行きを志願し茨の道を選んだ。たくさんビデオを見て練習して、初めて納得いく踊りが出来た。
智くん本人の言葉通り
「京都での経験はボクの中でものすごく大きなもの」と。
20年以上を経て、活動休止前 Voyage で語ってくれるくらいに。
『KYO TO KYO』だけで長くなっちゃった笑
少年隊ミュージカル『PLAY ZONE』。
こちらも1999年と2001年の2回出演しているけど
嵐デビュー前の1999年のほうは、ちょっぴりセリフがあったくらい。
嵐デビュー後の2001年『新世紀〜EMOSION〜』の方が松岡くん、井ノ原くんとトリプルキャストでKARE役。
『忍びの国』メイキング映像で
石原さとみちゃんとの対談で、''俳優としての転機''というタイトルでこの、プレゾンでの経験を語っていた智くん。
2014年『Cut』。大野智への30のQ&A。
今まで演じてきた中で苦労した役は?
猿の役。
ふふふ。猿の役はたぶんやったことないと思うから、猿みたいな役、ね
『アラシゴト』
なかでも舞台の仕事は自分の変化を感じることが多くて、思い出も濃厚な気がする。
'01年の舞台『PLAYZONE』は本当に最高だったの。幸せすぎた。
1999年のほうの1回目のプレゾンの時のことを
(当時)ボク、事務所を辞めようと思ってたでしょ。注意されてもイマイチやる気のない感じで、すごい失礼だったんだよね。少し反省して、最終的には「よくなったよ」っていってもらえたんだけど。
当時の智くんの本音が正直に語られて。
2001年のプレゾンの時、井ノ原くんに
「大野、恥じらいがあるだろ?」と言われた有名なエピソード。そこから吹っ切れて思いっきりやれるようになって。
稽古も中盤に入ったころ。感動させる大事なシーンで、演出家にいわれるまま思いきりやってみた。そしたら女性ダンサーが泣いちゃったんだよ。ビックリした。ボクの芝居で泣く人がいるんだって。そのころにはもう恥じらいなんて、どこかにいっちゃってた。
千秋楽。いろいろ気にかけてくれていた植草さんと目があったとき泣いちゃった、と。
だってボクが4歳のときから続いてる舞台に立ったんだよ。それも悔いなく演じることができて、なんか自分に勝った気がした。すごく大きな経験になったと思ってる。
『KYO TO KYO』と『プレゾン』。
このふたつの舞台は後年も本人が語るくらいに、智くんにとって大きな転機であり、経験になったであろうことは間違いないとは思っていたけど、こうしてあらためて書いてみると、智くんの気持ちの流れや時系列的にもよく伝わってくる。
そのふたつの舞台を経て
2002年
初めての主演舞台『青木さんちの奥さん』。
『アラシゴト』
ほとんどアドリブの芝居だから毎日ホントに追いつめられてた。このとき1番やせたんじゃないかな。毎日何をいおうか必死で、恥じらうことも忘れてた。
この舞台についてはこちらに詳しく⬇️
https://ameblo.jp/kyonmama3104/entry-12783204349.html
2002年『演劇ぶっく』。
ピカンチシリーズでもお世話になった演出家の河原雅彦さんとの対談
もう、いっぱいいっぱいでした。すっごいつらかった。
そう話す智くん。
アドリブだらけのグダグダな芝居ですが大野君の演じるサトシの(中略)感情のラインを常に大野君がキープしてないと、ただのバラエティショーになってしまう。彼は、その部分をよく引き受けてくれたと思います。
そこが難しい部分でした。サトシの芝居をやるために集中しないといけないし、でもアドリブも考えなきゃいけない。アドリブがおもしろすぎて、素になりすぎたら終わりだから。
その若さでそれができるってすごいことですよ。
2002年『Olive』。これも河原さんと対談。
あの芝居は半分バラエティ。かといって、大野くんは主役でキャラクター設定があるから、好き勝手はできない。その微妙な加減をちゃんとやってくれた。
僕はこの先、またこの舞台をやれと言われても、主役は大野くんでないと引き受けないよ。
智くん21歳。舞台初主演で痩せるほど、頑張って
演出家の人に
「この先、主役は大野くんでないと引き受けない」
と言わしめる。
で、『アラシゴト』っていっぱい本人の言葉が知れてすごくよくて、舞台についての言葉もすごく印象的。
いつも舞台の仕事が決まるとブルーになっちゃう(笑)。不安で逃げ出したくて。台本もギリギリまで読めないの、怖くて。1度読んだら、それで頭の中がいっぱいになっちゃうから。
でもドラマや映画にくらべれば、舞台のほうが向いているかもしれない、と思う。
こんなにも
不安に押しつぶされそうな状況でも、
「舞台のほうが向いているかもしれない」。
なんかね、こうしてひとつひとつの智くんの言葉を書いていってると、智くんの思い入れの深さというか…どれくらいの深さなのかがわかる気がして。
智くんがどこに重きを置いていて
何を大切にしてるか
『FREESTYLE』作品集で
舞台でも不安だったもん。と智くん。そこから
舞台『WSS』について語る時に
うん…なんかね、
やっぱ基本、舞台で自信がついてる。
『テンセイクンプー』でカンパニーの素晴らしさと座長の意識が芽生えた話しから
そういう
精神的な成長って、舞台は特にあるんだよね。
インタビュアーの米川さんが
そういう舞台での経験っていうのは、やっぱり大きな自信になるんだろうね。と。
負けず嫌いの努力家。完璧主義ゆえに「本当に自分に出来るのか?」と不安に思ってしまう気弱な一面がありながら、自ら思い描くイメージに「最終的には勝つ」強さを併せ持つ、なんとも不思議な人。そんな不安をねじ伏せながら、懸命に努力し続けてきた、数々の舞台。そこで培った''精神面での成長''は、大野の中で大きな自信となった。
なんか、この…
米川さんの言葉に集約されてるような。
舞台の仕事が決まると、不安で怖くて台本をギリギリまであけることが出来ない。1度読んだら頭の中がそれでいっぱいになるから。
そんな不安で気弱な面と
自ら思い描くイメージに「最終的には勝つ」
強さ。
その両方を併せ持つ「不思議な人」。
その最終的に勝つまで
不安と闘いながら、不安をねじ伏せながら
その振り幅が智くんを「達成感」へと導く。
『怪物くん』
『世界一難しい恋』の櫨山プロデューサーが
セカムズ期の雑誌で語っていたのを思い出す。
櫨山Pは『KYO TO KYO』ですでに智くんと出逢っていてその時のことを…
お客さんがはけたあとの次の公演までの合間は、出演している子たちが客席でお喋りしてるっていうような状況だったんです。そういう時間も…人懐っこく、よく喋る子っていうのはいるんですね。そういう子はまとまって喋っていて。大野君だけ、ひとりポツネンといるんです。その時に''この人…大変だなぁ''と思って。
愛想があるタイプじゃないから。
そんな出逢いから、しばらくして大野智天才論みたいな噂を聞いて、怪物くんでご一緒することになった、と。
なんでも出来ちゃうイメージの智くんだけど、生き方はどちらかというと不器用なところがある気がしてて
器用ではないからこそ
尋常じゃない努力をすることになる。
要領よく立ち回ることは出来ないから
エンタメの質を上げることだけに努力してきて
その結果が伴ってきた。
生田斗真くんの言う''ツチノコ的存在''
とか
中丸くんの言うジュニアのなかでの''特別感''
とか
大倉くんの言う''ラスボス感''
とか
努力の賜物、なんだよね。
その、出来ちゃうところまで行く彼の努力は、あまり言わないけど本当はとてつもなく大きな振り幅。
だから
彼のなかで達成感がすごく大きいんだろうって
そういう達成感を感じてきた…
おおお…
なんか少しずつ見えてきた気がするぞぉ
『センゴクプー』からのプーシリーズと
『TRUE WEST』『WEST SIDE STORY』を
次に書けるか
書けたらいいな