2024/06/07

 

 

 

 

最高哲学責任者(CPO)が権限をもつ? 

『倫理的資本主義の時代』が示す次の時代はくるのか?

       2024.8.1   榎本憲男   AERA dot. (アエラドット)

 資本主義の限界が 方々で叫ばれている。多くの経済学者が独自の論を唱えるなか、注目を集める

のは、なんと哲学者であるマルクス・ガブリエル(1980~)の資本主義論『倫理資本主義の時代』

(ハヤカワ新書)。同じく 経済をテーマに物語を描く小説家、榎本憲男氏によるコラムをお届けする。

          * * *

  資本主義についての警鐘が強く鳴り響くようになっている。ソ連崩壊と中国の改革開放路線に

よって、資本主義の独り勝ちと思われた短い期間を経て、格差や環境が問題視されるようになり、

「 本当に資本主義は大丈夫なのか 」という声が徐々に大きくなっている。

   また、成長のために 新たな市場を必要とするのが資本主義だが、地球上には 市場となる場所は

ほぼすべて開拓されてしまった、という警告もある。

 

■哲学者のロックスターが描く資本主義の「真の姿」  

   ことしの6月、『倫理資本主義の時代』(ハヤカワ新書)という書物が出た。本書は、

「経済的利益は 道徳的に優れた行為の結果として得られる」という考え方に基づいて 新たな資本主義

へのギアチェンジを促す書だ。著者は 経済学者ではなく、「哲学界のロックスター」マルクス・ガブリエル。

 

 資本主義は 大丈夫かという問いに対しては、「 いや、もう無理だ 」と資本主義に異を唱える派と、

「 いろいろ問題はあるが 資本主義でいくしかない 」という消極的な賛成派が目立つ。

しかし、現代を代表する哲学者は 「資本主義、超オーケー」とばかり パワフルに肯定し、新たな

希望を指し示す。その内容を ごくごく かいつまんで紹介し、その魅力と鋭い洞察にうなずきつつ、

わだかまる疑問を表明するのが このコラムの目的である。 

 

 まず先に、本書の骨子を要約するのだが、これに際しては、著者の文章が かなり難渋でわかり

にくいので、厳密な引用ではなく、僕の言葉に大胆に翻訳して記すことにする。ただし、僕は

経済も哲学も ともにアカデミックな訓練を受けていないので、かなり乱暴な要約や、ひょっとしたら

誤読もあるかもしれない。また、かっこ内は、引用ではなく、読みやすさを考慮して付けたもので

あることもお断りしておく。

 

■資本主義は「システム」ではなく、もはや カオス?! 

 本書は、「 企業の目的は 善行であり、倫理と資本主義は融合させられる 」という魅力的な結論に

向かって論を進めていく。これに際して、著者は まず資本主義の定義から揺さぶりをかける。

 

   資本主義とはなにか? 標準的な答えは、

「『利潤』を目的として 企業活動が行われる経済システム」だ。しかし、資本主義は「 システム

ではない 」と著者は言う。では、なんだというのか。

「条件群」だ。条件群? なんの? 「 価値を交換するための、剰余価値生産のために ユルく

結びついた条件の集合が資本主義だ 」という。

  わかりにくいが、資本主義は 複雑で強固なメカニズムではなく、ある種のカオス状態だ と言って

いるようだ。そして、資本主義を 剰余価値生産の無秩序なプロセスとして捉えることによって、

中央機関からの強烈なコントロールから逃れた 消極的自由が獲得される。

ここは 明確に、もういちど 共産主義に希望を見いだそうとするのはまちがいだと言っている。 

 

 そして 次に 自由が語られる。自由とは 平等や連帯と結びついたものだという積極的自由論が

展開される。人間の自由とは 「~の自由」という消極的な自由だけでは足りず、「 ともに自由である

こと 」を目指す積極的自由でもあるべきだ。 簡単に言うと、あなたが自由でなければ 私も 真に

自由にはなれない、というような自由だ。

   人間が 本当に自由に活動するということは、社会的な自由を生きることだと述べる。このあたりは

哲学者ならではの論の展開である。  

 

    そして、これまで資本主義に向けられていた批判の多くを、「 そもそも それは 資本主義に責めを

負わすべきものではない 」と退ける。たとえば、「 資本主義を強烈にドライブしたら、新自由主義が

生まれ、これが環境を破壊し、格差を産み、金権政治を生んだ。だから、資本主義はもう駄目だ 」

という内容が語られがちだが、マルクス・ガブリエルは、「 新自由主義は 資本主義らしくない

資本主義だ 」と述べ、この論が的外れであると主張する。

つまり、「 新自由主義なんてものは 資本主義の王道からはずれたもので、新種の封建体制であり、

倫理資本主義こそが 資本主義の真の姿だ 」と喝破するのである。

 

 

 著者は これを証明するために、資本主義の元祖とも言うべきアダム・スミスを召喚する。

アダム・スミスと言えば、資本主義批判者からすれば 自由放任主義の提唱者であり、新自由主義の

生みの親とも目される経済学者だが、ここで参照されるのは 経済学の教科書で 必ず取り上げられる

『国富論』ではなく、その前に書かれた『道徳感情論』だ。 この書物から、「 共感できる、共感に

基づいて価値判断できるということが 人間の本質である 」というメッセージを 著者は引き継ぐ。

  そして、「 自分の行動は、自己利益の延長だけでなく 他者に影響を与える、これが 経済活動の

基盤である 」とアダム・スミスは 理解していたと述べる。

  なので、市場の自己調整機能として理解されている「 見えざる手 」は、新自由主義に親和性の

高い自由放任主義ではなく、共感の実現を表現しているものだ という再解釈をおこなうのである。

 

 

■企業には、最高哲学責任者・CPOの設置が必要? 

 ここまで セットアップできたら、あとは「共生」や「持続可能性社会」に向かって 力強く歩んで

行けばいい。「持続可能性」は 脱成長として捉えずに、人間にとって 最も重要な価値観として考える

(つまりSDGsは 一過性のはやりではない)。

  そして、先に述べたように、資本主義は システムではなく ある種の無秩序であるから、そこから

創造的破壊が生まれうる と説き、AIは 持続可能な未来創造のエンジンにしなければならないと

注意を促し、また 我々の欲望についても 再構築が必要だと提言する。

   さらに具体的なアイデアとしては、企業に倫理部門を置き、この部門のトップには 哲学者をCPO

(最高哲学責任者)として据えるという斬新な構想を打ち出す。

 

 本書に対する僕の気持ちは 賛同と疑問に裂かれている。賛同の部分は 人間観についてだ。

著者は、人間を、経済学者が言うような、合理的で理性的な個人としては捉えていない。マルクス

・ガブリエルは このような人間観を廃して、共生する存在こそが 人間の本質だという人間観の上に、

倫理資本主義を築こうとしている。 そこには 強く共感する。 

 

 ただ、本書の議論から 宗教がきれいに排除されているのが気になる。イスラム教徒は 現在4人に

1人と言われ、現在も増え続け、まもなく 3人に1人になるとも言われている。資本主義の最先端を

走るアメリカでは、宗教的な見地から、人工中絶が 大統領選を左右する大きなイシューとなっている。

ウクライナ戦争でも 宗教問題がくすぶり続けている。

   宗教的人間に、本書の議論は通じるのだろうか。 自律とは「 自分は このような人間だ 」という

自己認識であると著者は説明しているが、「 私は 神のしもべである 」という自己認識を持つ人々を、

徹底的に自由主義の立場に立って無視する著者の態度は、あまりにも 世俗的にすぎるような気がして

ならない。そして、資本主義経済とは、僕に言わせれば、貨幣 と 信用(信仰)によって編み上げられ

たある種の宗教的世界だ。

 

 
 また、アダム・スミスの『道徳感情論』は、“ 神抜き ”で どのような道徳を打ち立てられるだろうか
という問題意識の上に書かれた書である。道徳的なふるまいは 共感を求める各人の欲求から 自然に
導かれる、多くの共感を得るものが 道徳的だと述べたアダム・スミスだって、共感に基づく行為が
まちがいをもたらすことを認めている。バブル経済を生む原因は、「沸騰する共感」に一因がある。
 

■リーマンショックの時代に「倫理」は通用したか? 

 また、著者が 経済活動の例として語るのは、製造業とサービス業が多いが、金融経済についても、

本書の議論は 当てはまるだろうか。たとえば、企業に 倫理部門を置くという著者のアイデアについて

考えてみよう。

   リーマンショックが起きる前に この事件で破綻した投資銀行に倫理部門が据えられていたと仮定

する。倫理部門のトップを務めるCPOは サブプライムローンにまつわる金融派生商品に対して

「 待った 」をかけられただろうか。 難しかっただろう、と想像する。

住宅ローン担保証券などのアイデアについて、倫理部門のメンバーの経済学者らは、「問題ない」

と唱えた可能性が高い。(実際、主流派経済学者や金融経済学者の第一人者たちの多くが そう言って

いた)。また、やっかいなことに、これらの商品は、「 裕福でない人にも 家が持てるようにする

画期的な商品だ 」という ある種の道徳性がはらんでいるようにも見える。 

 

 ただし、僕自身は CPOという考え方そのものに異を唱えるつもりはない。万能ではないし、

楽観視もできないが、国家による規制ではなく、ボトムアップされた倫理を通して 世の中を改善する

可能性を秘めているアイデアだとは思う。 

 道徳によって 資本主義をバージョンアップしなければならないという問題意識を僕は共有している。

そして、この問題意識に促されて 僕は小説を書いている。しかし、バージョンアップの方法は、

マルクス・ガブリエルとは まったくちがう。その違いは、「“宗教的なるもの”と人は手を切れない」

という認識に立ち、アジア的に思考しているからではないか、と考えている