7月7日、東京都知事選の投開票が行われる。多数の候補者が手を挙げそうだ。
「 地方自治は民主主義の学校 」と言われるが、日本の地方自治は機能しているのだろうか。
首都東京は、日本最大の地方自治体である。 都知事経験者として、都政の実態を明らかにし、
その闇に迫りたいーー。
国政から見た地方政治
日本の首都、東京都の人口は 1400万人であり、2024年度の一般会計の予算規模は 8兆4530億円、
それに 特別会計と公営企業会計を合わせた 都全体の予算規模は 16兆5584億円である。
これは、スウェーデンの国家予算に匹敵する。また、都の職員定数は 3万8289人である。
これだけの大都市の首長となると、一国の大統領並みの権限を持つ。国の専管事項である外交や
国防、司法についての権限がないだけである。しかし、都政の実態は、そのような巨大さ、華麗さ
とは 対極的な泥臭い闇が広がっている。
私は、国会議員、閣僚を経験してから 都知事になった。霞ヶ関・永田町から新宿に降り立つと、
そこは 全く別の世界であった。同じ政治・行政の世界なのに、ここまで違うのか と愕然としたもの
である。国政で発揮できた能力も、有効だった手法も 全く通じない。
その理由は 様々である。 都議会議員や都庁職員の能力や資質の問題もあるが、制度設計そのもの
にも 機能不全の原因がある。
これは 東京都に限った話ではなく、日本の自治体全てに当てはまる。今回の都知事選には、
広島県安芸高田市の石丸伸二前市長が 立候補の意向を示しているが、安芸高田市でも 市長と議会の
対立が激化し、全国的な話題になった。
現在41歳の石丸は 銀行出身で、2020年の市長選に当選したが、都知事選に立候補するため、
任期終了前の6月9日に辞任した。
石丸は、2020年9月に、議会を批判して、「 いびきをかいて、ゆうに 30分は居眠りする議員
が 1名 」とSNSに投稿した。これに対して、数名の議員から、「 議会の批判をするな。敵に回す
なら政策に反対するぞ 」と恫喝されたという。
この件以来、市長と議会の対立が深まり、市長の人事や政策が 議会によって否決され、2023年6月
には 市長への問責決議案が議会で可決された。
その後も 両者の対立は続き、3ヵ月後の9月には、2023年度の一般会計の決算認定案について、
最大会派の議員たちが反対した。その理由は、「 昨年9月の大型台風接近と報道されているなかで、
市長が千葉県で行われたトライアスロン大会に参加して不在で 市民に不安と不信を与えた 」という
ことであった。このような泥仕合が続いたのである。
この安芸高田市の例は、石丸が 全国から注目を浴びるために意図的に演出した面もあり、
市長が正しいのか、議会が正しいのか 容易には判定しがたい。しかし、全国の自治体で 同じような
対立図式が生じていると思われる。
「二元代表制」の弊害
現代民主主義国家では、イギリスや日本のように 議院内閣制を採用している国もあれば、
アメリカのように大統領制の国もある。
日本の地方政治は 大統領制であり、首長が 有権者の直接選挙によって選ばれる。
内閣総理大臣は、有権者が直接選ぶのではなく、国会の多数派が選ぶ。地方議会の議員も 住民の
直接選挙によって選ばれる。
小池百合子という政治家の特質は、利用できる者は利用し、使い途がなくなったら見向きもしない
ことである。ある意味で マキャベリズムを体現した政治家の典型である。捨てる相手は、細川護熙、
小沢一郎、小泉純一郎、そして 二階俊博と続く。
国政だと、衆議院選挙で大敗すれば、内閣は 吹き飛ぶ。それは 議院内閣制だからである。
これに対して、都政は 大統領制であり、アメリカの大統領制よりも、議会は 独立性が強く、都知事を
利用するだけで、遙かに勝 手気ままな行動をする。
知事の人気が高いと、すり寄って 知事側近であるかのように振る舞い、選挙の道具にする。
しかし、ひとたび 知事の人気が陰り始めると、さっさと袖にする。その典型が 公明党であり、
裏切りも平気である。
しかも、都議会議員は「 二元代表制 」という言葉を声高に叫ぶ。つまり、「 知事と同じように、
自分たちも 有権者に 直接選ばれた代表なのだから 知事と同等の権力を持っているのだ 」と豪語する
のである。そこから来るのは、知事は利用すべき対象であり、邪魔になれば 捨てれば良いといった
奢りである。
予算案にしても 議会の承認がいるし、条例も 議会が反対すれば可決されない。そこで、知事の
目の届かないところで、都議会議員たちは 都庁の役人を呼びつけ、様々な要求を出したり、陳情
したりする。とりわけ、議会の多数派に属する議員の力は 絶大である。
長年 第一党の地位にあった自民党では、故内田茂議員のようなフィクサー的なドンが誕生する
のである。潤沢な税収のある東京都では、官僚機構を意のままに動かせれば、配分できる利権は
山ほどある。それが、政治資金や票に変わっていく。役人にしても、自らの好む方向に議会が 舵を
切ってくれれば万々歳である。
こうして、政官業の癒着が生まれるのである。
「フィクサー政治」の弊害
議員は 細分された選挙区から選ばれる。例えば、足立区から選出される 6人の都議は、足立区の
有権者の要求を最優先する。そこで、悪く言うと、地元の利益のための利権政治に終始するフィクサー
になるケースが多い。 フィクサー政治は、都議の選挙区の集票・集金活動ということである。
知事が 東京全体の改革を試みても、それが 地元の利益を侵害するときには、フィクサー議員たち
は抵抗集団となる。
単純化して言えば、知事に残された選択肢は、彼らと手を組んで 改革の旗を降ろすか、マスコミ
などの力を借りて 対決するかである。後者を選択しても、勝つとは限らない。前者を選択すれば
政治的には安泰だが、改革は 頓挫する。それが 今の小池都政である。
さらには、市区町村長との調整も必要となってくる。都知事は、彼らに配分する予算を持っている
ので、ほとんどの問題が カネの力で片付くが、案件によっては 対立することもある。
首都のリーダーとして、国との調整もまた、都知事の大事な仕事である。私が足繁く首相官邸に
行き、当時の安倍首相や菅官房長官と議論したのは そのためである。
道路一つをとってみても、東京都には、国道、都道、市区町村道がある。都知事には 勝手に手を
出せない道がたくさんある。
国会の場合、議員が経験を重ねて 大臣になるので、与党の議員と内閣が 利権で対立するような
ことはない。国会議員も 選挙区の利益を大事にするが、自分の所属する党内で 国全体の利益と調整
できるようになっている。
自民党の場合、全議員が参加できる政務調査会があり、多くの専門部会があって、そこで 政策の
審議をする。官僚も、そこに出て、政府提出法案を説明し、与党の承認を得る。このように、
政策決定過程ができあがっている。
ところが、都政の場合には、それがない。与党である自民党や公明党と 政策を詰める制度化された
仕組みがないのである。そこで、フィクサーのドンと話を詰めるようなことになる。不透明だし、
党内には 反フィクサーの集団もいる。そもそも、フィクサーの頭目のようなドンと対立すれば、
政策遂行の邪魔をされることになる。 国政の自民党のような 透明性のある仕組みができていない
のである。
また、議会には、百条委員会という首長攻撃手段もある。地方自治法100条に定められた百条委員会
とは、地方議会が必要に応じて設置する特別委員会で、正当な理由なく 関係者が出頭、証言、記録の
提出を拒否したときには 禁固または罰金に処すことができるようになっている。
議会は、これを武器にして、「 辞任しないなら 百条員会を設置するぞ 」と恫喝するのである。
まさに、政治的武器である。
予定調和の都議会運営
国会議員として、また 大臣として 国政の場に身を置いた経験からすると、都議会は冬眠している
ようなものである。都議会では すべてが予定調和で、政策論議などはほとんどない。国会のような
丁々発止の激論など期待できないのである。
国会では、大臣として、予算委員会などで 野党議員の激しい質問に答えた。事前の質問通告とは
異なる質問も出てくる。それにも きちんと対応できなければ 大臣としての資格はない。質問通告、
そして 官僚の用意した答弁メモ…… これが 第一の矢だとすれば、二の矢、三の矢が飛んでくる。
同じ事を予想して 都知事として 初議会に臨んだ私は、役人の準備したメモをあまり見ずに、
自らの言葉で答えた。ところが、議員からも役人からも 苦情が来た。そのような答弁では 予定した
時間までに終わらなくなってしまうと言うのである。
質問( それは答弁を書く役人と同じ役人が書くこともある )の文字数も、答弁の文字数もきちんと
計算されており、その通りに読めば、時間通りに 質疑が終わるようになっている。その都議会の
「良き習慣」を守らないのは 何事か という訳である。
結局、私は 指示通りに用意されたメモを読むようにした。これで、都議会散会時間が予定通りと
なった。
大臣の場合、定例記者会見は 週に2回あるが、都知事は1回のみである。私は 大車輪で改革を
進めたので、それに見合った情報提供をしようとして、定例会見回数を 2回にした。ところが、
これには、役人から 都庁記者クラブからも苦情が来た。仕事が増えるから 1回に戻してくれと言う。
かつては、都庁の記者になるというのは メディア各社で登竜門だった。ところが、今は この惨状
である。それに加えて、小池都知事になってから、質問者として指名する記者も 事前調整で規制して
いるという。
自由な報道もできない東京都に 輝かしい希望と改革の灯火は いつ再点火されるのであろうか。