幕末維新史探訪2024(14)

英国外交官アーネスト・サトウと幕末維新ー日英関係を決定した偉人③

 

アーネスト・サトウが著した「英国策論」

 幕府に大きな衝撃を与え、倒幕派の精神的支柱となったその内容とは? 

            2024.4.3(水)町田 明広   JBpress

 

英国策論の成立とサトウの動向

 1865年(慶応1)4月1日、アーネスト・サトウは 通訳生から通訳官に昇進した。

イギリス公使館に、初めて 日本語を自在に駆使する外交官が誕生した瞬間である。サトウの同僚

である、3歳年少のアレクサンダー・フォン・シーボルトは、1859年(安政6)に再来日した父

シーボルトに連れられ、13歳で 日本の地を踏んでおり、日本語の会話に能力を発揮していた。

とは言え、サトウは シーボルトより、読む・書くという点でも 遥かに優秀であった。

 

 サトウは 西国での情報収集のかたわら、日本の書物の翻訳や日本語辞書の編纂を行った。

なお、サトウは「薩道懇之助」「薩道愛之助」等の名前で、日本人の間で 周知の存在であった。

  1865年7月、第2代駐日公使として パークスが横浜に到着した。 11月、サトウは 4ヶ国代表による

大坂での条約勅許・兵庫開港・関税改訂交渉のため、パークスに同行して 初めて兵庫に上陸した。

 

 このように、順調にキャリアを積んでいたサトウは、日本来日から これまでの体験や見聞を踏まえ、1866年(慶応2)3月16日から5月19日にかけて3回、横浜で発行されていた週間新聞『ジャパン・

タイムズ』に 無題・無署名の論説を発表した。サトウの日本語教師である、徳島藩士沼田虎三郎の

サポートを受けて 翻訳し、沼田を介して 藩主蜂須賀斉裕の閲覧のために提供した。

 

 この写本が「英国策論」として 広範囲に流布し、1867年(慶応3)以降には、印刷されたものが

大坂や京都の書店で販売されるに至った。「英国策論」は、朝廷・諸藩・幕府といった すべての勢力

に広く知られ、例えば 『近衛家書類』『中山忠能履歴資料』に写本が収録されている。また、

1866年12月3日にサトウが 宇和島を訪問した際、伊達宗城は 既に読んでいることを、直接、サトウ

に話している。

 

「英国策論」と幕府・朝廷の反応

 老中稲葉正邦は 一橋慶喜宛に上申書(1866年12月30日)を提出し、外国公使謁見に外様大名を

列席させることを提案した。その中で、「 日本語に精通するサトウ著述の「英国策論」についての

伝聞 」を伝えている。

 

 それによると、サトウは 国内の状況について、これまでの幕府の失政を明らかにするとして、

幕府の権威など ないとの事例を様々書き連ねた。そして、日本が 真に開化の進歩を遂げるためには、

諸侯会議の国体に変更すること が喫緊の課題であると弁論している。

 

 さらに サトウは、「英国策論」をパークスに差し出しただけでなく、各国公使へも回覧しており、

異存がない場合は 欧州諸国の公式文書にしようとしており、万が一 そのような展開になってしまうと、

容易ならざる大害となり心配であると、過剰なまでの警戒感を吐露している。

 幕府の中枢にある老中の意見として、軽視できないものである。「英国策論」は、幕府に大きな

衝撃を与えたのだ。

 

 また、「岩倉具視関係文書」(国立公文書館内閣文庫蔵)の中に、英国士官サトウ著「策論」が

存在し、末尾に「薩摩藩某翻訳」と記載されている。廃幕を志向する薩摩藩にとって、朝廷内の最大

のパートナーが 岩倉具視であり、薩摩藩から「英国策論」が その岩倉に渡っていることは重要である。

このことから、「英国策論」は 廃幕を志向する勢力にとって、イギリスの後ろ盾を期待できる

精神的支柱ですらあった可能性を指摘できる。「英国策論」は、想像を超えて 様々な方面に流布して

おり、老中が イギリスの見解と見なすほどの公式なレベルのものと捉えられ、これ以降の政局に

極めて甚大な影響を与えたのだ。

 

「英国策論」の内容とは

 サトウは 「英国策論」の中で、将軍は 日本を代表しておらず、将軍とのみの条約を維持することは

できないとする。そして、諸侯は 将軍の命令を聞かず、貿易の利益にも与っていないとの認識を

示した。外国は 条約改革を評議すべきであり、一諸侯(将軍)ではなく、他の同等諸侯と 結び直すべきであると切言したのだ。

 

 

 天皇こそが 日本の陛下であり、勅許は必須であるが、実権は 諸侯にあるので、両者と結び直すべき

であると主張した。なお、外国が 将軍と条約を結んだことが 大きな間違いであったことに気づいた

のは、生麦事件からであると述べる。 生麦事件によって、将軍は 諸侯を統制できないことが明白と

なり、諸侯が 割拠を始めた契機であると指摘する。そして、外国は 今の通商条約を破棄して、

新条約を結ぶべきであると結論づけた。

 

 サトウは 日本の実情を鋭く分析しており、かつ 薩長の主張とも軌を一にする内容であった。

薩摩スチューデントの寺島宗則によって、ロンドンでの外交交渉で主張された内容と一致している

ことは、極めて重要であろう。

  一方で、サトウは この段階で 伊藤博文や井土馨と 既に文通を継続しており、間違いなく 彼らから

の情報も参考にしていたと考える。 「英国策論」は、イギリスと長州藩の合作の可能性も 否定

できない、極めて 政治的な論考であるのだ。

 

「英国策論」の意義と重要性

 「英国策論」は、世界最強国家の大英帝国の官吏であるサトウが 幕府を否定し、「天皇・諸侯連合」

との通商条約の結び直しを謳っている事実は 重要である。サトウ個人の非公式な見解が、イギリスの

対日政策を代弁するものと受けとられたことは、その後の政局にも 大きな影響を与えた。

 

 幕府は 一層フランスとの結びつきを強め、薩摩藩の後ろにイギリスの影を見ることになった。

そして、薩摩藩は イギリスの後押しがあることに自信を深め、抗幕姿勢を より強固にすることが

叶ったのだ。

 

 ちなみに、サトウは パークスが「英国策論」の存在を知らなかったと回顧している。しかし、

果たして それは事実であろうか。当時であっても、イギリスの外交官は 他国と違って 制度が

確立しており、その倫理観も比較にならない。サトウが 上司であるパークスの意向を確認せずに、

「英国策論」を投稿したことは考え難く、パークスは黙認していたのではなかろうか。むしろ、

イギリスの政治的主張を 非公式に発信するために用いた 一策かも知れない。 

   いずれにしろ、パークスが 折に触れて言及するものが「英国策論」の内容には含まれており、

文字通り、在日イギリス外交官の対日政策を発露したものであったのだ.

 

 次回は、サトウと横浜の関わり、西国諸国での情報収集、大政奉還前後の動向について、

詳しく追ってみたい。

 

 

 

  「金は後でいい」に好感 艦船、武器売買で巨利 トーマス・グラバー(上)

       2017/6/23    (THE PAGE) - Yahoo!ニュース

    スコットランド出身の貿易商、トーマス・ブレーク・グラバーは 21歳のときに来日した。

        幕末の混乱の中、欧米の貿易商人たちと競うようにして、西南雄藩に艦船・武器・弾薬の類

        を売り込み、1860年代半ばには 長崎の外国商館の最大手となった。また幕末の志士たちの

    討幕に賛同し、渡英や訪欧を手助けすることで、日本の近代化に大きく貢献した。  

           ずぼらとも抜け目なく世渡り上手とも言われるグラバーの商才はどこにあったのか? 

        貿易商グラバーの前半の人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説する。

 

   倒幕運動を 側面支援 武器を売るも侠気も示す

            長崎観光の目玉「グラバー園」は長崎港を眼下に見下ろす景勝の地にあり、「行ってみたい
         庭園」のナンバー1に選ばれたこともある。幕末に イギリスから渡来した豪商トーマス・
   グラバーの旧邸は 今では 国の重要文化財、世界文化遺産に指定されている。  
           1905(明治38)年、三菱財閥の2代目社長 岩崎弥之助邸で行われた東郷平八郎元帥の
        「日露戦争凱旋祝賀会」の記念写真をみると、元帥の真後ろに山高帽をかぶったグラバーの
   巨躯がそびえている。同41年他界すると 明治政府は勲二等旭日章を授けた。
           幕末から明治維新にかけて グラバーが 日本の近代化にいかに貢献したかを物語る厚遇ぶり
         といえよう。時の政府指導者たちが 若き日、グラバーの恩恵を受けていたことも手伝っている
         のかもしれない。
         グラバーは薩長土肥、いわゆる 西南雄藩を主たる顧客として倒幕運動を側面支援した。
        「 おれは 幕府に対する最大の反逆者だった 」などと嘯いた。維新後、武器の需要が激減し、
   倒産するが、岩崎弥太郎に取り入り、三菱顧問に就任したり、抜け目がない。日本人を妻とし、
         滞日52年に及んだが、日本に帰化することはなかった。 
          1862(文久2)年、幕府が 国防力強化のため諸藩に外国艦船の輸入を許可する頃から
   各藩が競って 軍艦、武器を買い始めたため、軍需インフレの波に乗ってグラバーはボロ儲け。
         長崎に 2万坪の屋敷を買い、お市という愛妾を囲い、豪奢な生活を営んだ。 
         「 彼は スコットランド人特有の熱血漢で、商売をしながらも、3分の侠気を示した。今は
         金がないといえば、金は 後でいいから船を持って行けという具合だったので、日本人の間では
         大変評判がよかった。1866(慶応2)年の長州再征の際、長州が幕軍を敗走させた精鋭の武器
         も このグラバーを通じて買ったものだった。(神長倉真民著『日本資本主義由来』)
 
         武器取引以外に、九州茶を買い付けも

         幕末における 欧米と日本の貿易事情は 生糸、(蚕卵紙を含む)、紙おむつ、茶を輸出して、

         織物、砂糖、帆船、武器を輸入するパターンである。横浜が輸出港であり、長崎は輸入港で

         あった。これには わけがある。  「 長崎が江戸から遠く離れているため幕府の支配力が弱く、

         それゆえ 薩摩、長州、土佐、佐賀藩などの西南雄藩によって 絶好の艦船や武器の購入市場

         になったからである 」(杉山伸也著『明治維新とイギリス商人』)  

            グラバーにとって 運搬や武器の取引は 金額が大きく 利幅がケタ違いであったが、同時に

         茶の買い付けも収入源として大きかった。名産「嬉野茶」(うれしのちゃ)など 九州には

         茶どころが多く、これらを買い占めて、ジャーデン・マセソン紹介を通じて 本国へ送ると

         大きな利益を生んだ。

       その場合、よく乾燥していないと カビが発生して損害をこうむるので 乾燥場をこしらえ

         日本人1000人以上を雇い入れて 茶の加工業に力を入れた。

          貿易業に携わる者は 為替相場の変動から避けて通れない。グラバーは 当時の基軸通貨である

         洋銀(メキシコドル)の横浜、長崎間の値差に目をつけて 為替売買にも乗り出していく。  

         グラバー商会は 1870(明治3)年に経営破綻するが、それは武器、弾薬の需要が急減したこと

         のほかに 経理の杜撰さが指摘されている。前出の杉山伸也慶大教授は こう指摘している。

 

       「 帳簿は 極めて杜撰で、ジャ-ディン・マセソン商会の勘定についても 別帳簿をつくらず、

           自己勘定と混同し、ジャーディン・マセソン商会の資金を しばしば流用していた 」 

        この時期 グラバーは 自らのグラバー商会主人であると同時にジャーディン・マセソン商会の

   代理を かけ持ちしていた。米国の南北戦争(1861~65)が終わったこともあって武器、弾薬

         の売りが急増したことも 長崎の商いが 一段と盛り上げた

           グラバーの艦船取引は ジャーディン・マセソン商会と幕府、諸藩の間に立って 新造船、

         中古船を仲介するわけだが、利益は ジャーディン・マセソン商会と50%ずつ折半する取り決め

         になっていた。