中華人民共和国大飢饉 (1959~61 or 1958~62)

     人類史上最大級の人為的災害の1つ。

    推定死亡者数は 数千万( 1,500万〜5,500万以上 )人。

 

    大躍進政策 - Wikipedia(毛沢東が主導した農作物と鉄鋼製品の増産政策)

   1958年5月 第二次五ヵ年計画

     当時世界第2位の経済大国イギリスを 農工業の生産指標において15年で追い越し、

     アメリカに追いつくという、壮大な計画を立案。
      しかし、市場原理を無視して 一部の農工業生産指標のみにおいて 3年間で英米を

     追い越すほどのノルマを人民に課し、杜撰な管理の下 これらの農工業製品のみで

     無理な増産を指示したため、却って生産力低下をもたらした。
   1959年 7~8月、廬山会議(江西省廬山)

               彭徳懐国防部長(元帥)は 大躍進政策の問題点を諫めるが、毛沢東は労働者を搾取する

     制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否した。

     毛沢東の激しい反撃の前に 多くの共産党有力者は日和見的態度をとるか、彭徳懐を支持

     した少数の者らも 毛沢東側に自己批判を迫られる状態となり、彭徳懐は孤立化、失脚。

                 この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課される

     ようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。

     そして、その報告を受け取った毛沢東は 実態を把握しないまま 更なる増産を命令する

     という悪循環に陥っていった

 

   大製鉄・製鋼運動

     1958年10月から鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が

    全国の都市、農村で展開されたが、金属工学の専門家も それに適した設備もなく、原材料

    も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなかった。
   ・建設資材
     土法炉を建設するための主な資材である耐火煉瓦の供給は皆無に等しく、一般住居用の

    煉瓦ですら供給不足の状態だった。このため、煉瓦製の塔・寺院・城壁など、全土で

    多数の歴史的建造物が 土法炉建設用の煉瓦採取の目的で 解体・破壊された。
   ・燃料の確保
     目標としていた英米に比べ電化が遅れていたことから、農村部など ほとんどの地方では

    木炭を燃料としていたため、必然的に土法炉の還元剤にも 木炭を使用することになった。

    この事は木炭を生産する目的で、全土で 樹木の大規模な伐採が開始されることを意味した。
               伐採の対象は 事実上 無差別・無分別であり、果樹園の果樹・園芸用の灌木も 例外では

            無かった。石炭が 入手可能な都市部でも、コークス炉を備えていない場合が多く、石炭を

    地上で 直接燃やして コークスを生産する方法を採用したことにより、結果的に 大量の石炭

    を浪費することになった。
   ・原料の確保
     鉄鉱石は 石炭 同様産地が限られている上に 供給不足の状態であり、多くの地方では

    砂鉄の入手すら困難な状況にあった。このため、都市部では 鉄製の各種設備・構築物を

    解体した。農村部では 人民公社で 農業と食事を集約化するので不要になるという名目で、

            各家庭の鉄製の農機具・炊事用具を供出させた。これらの供出された屑鉄を 土法炉に投入

    するという、鉄製器具で 屑鉄を生産する本末転倒な状態に陥った。

   ・結果
     1117万トン生産された鉄の内、60%が全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。

    それでも 増産計画に従って生産を続けたため 資源を大量に浪費する結果となった。

               さらに これらの無理な増産計画によって作られた粗悪なものを含む鉄の用途、さらに

    販売流通も 全く考慮されていなかったために、工業生産から流通までに長期間にわたり

    悪影響を残した。
     また、この時の製鉄事業により 大量の木材が伐採された為、2010年代に至っても

            中華人民共和国では 毎年洪水が発生している。しかも 農民が大量に駆り出された為に

            管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまい、ノルマ達成のために 農民の保有する鍋釜・

            農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

 

         四害駆除運動
               1958年2月から四害(伝染病を媒介するハエ・蚊・ネズミ、農作物を食い荒らすスズメ)

    の大量捕獲作戦が展開された。

       スズメを大量に駆除したことから、「打麻雀運動、消滅麻雀運動」とも呼ばれる。

    しかし、スズメの駆除は かえって ハエ・蚊・イナゴ(蝗害)・ウンカなどの害虫の大量発生

            を招き、農業生産は大打撃を被った。
             スズメは 農作物を食べると同時に 害虫となる昆虫類も食べ、特に 繁殖期には雛の餌として

            大量の昆虫を消費しており、食物連鎖の生態バランスを完全に無視した結果だった。

    後に 駆除対象は 雀から 南京虫に変更され、ソ連から大量のスズメが送られたと言われる。

        密植・深耕運動
               伝統的な農法も 科学的知識に基づく近代農法も 全く無視した政策が実行に移された結果、

            農業などに さらに大きなダメージを与えることとなった。

            まず第一に、人民公社の設立などによって 農村のコミューン化を強力に推し進めた。

    これは生産意欲の減退に繋がったが、1978年12月に 生産責任制が導入されるまで

    一応システムとしては存在した。
     また、ルイセンコの学説に基づいた農業開発を行った。これは 度を越えた 密植や種を

    2m以上のの深い穴に埋める事であり、農業技師の助けも借りずに 素人を動員して灌漑機構

    を作ったりするなどという稚拙なものであった。当然のごとく これらの手法は全く効果を

            上げず、凄まじいまでの凶作になった。



 チベット地域
      1958年5月に始まった大躍進政策は、軍事侵攻の末 同国に併合されて間もないチベットでも

   行われた。しかし 餓死者は続出し、1989年の中国社会科学院の調査では、飢饉で死亡した数は

   1500万人とされる。この他、人口統計学者のジュディス・バニスターは、3000万人と推計。

  1980年代の北京経済制度研究所による報告書では、パンチェン・ラマの故郷である青海省では、

 人口の 45%に当たる90万人が死亡し、四川省では 900万人が死亡したという。

   飢饉について研究したジェスパー・ベッカーは、「 中国のいかなる民族も、この飢饉によって

   チベット人ほどの苛酷な苦難に直面した人々はいない 」と指摘。