東日本大震災の危機に駆けつけた巨大ポンプ車「大キリン」は中国企業の無償提供

  …処理水海洋放出に当時の担当者は「お互いに大切な国家」

              2024年3月7日   福島中央テレNEWS NNN

 

 あまり知られていない、あるいは 忘れられてしまった重要な事実がある。約13年前に起きた

福島第一原発の事故で 最大の危機とされたのは 水素爆発や漏れ出た放射性物質による被曝ではなく、

4号機の核燃料を保管するプールだったプールの水が干上がれば 1535体の核燃料が溶けだし、

膨大な量の放射性物質が 人々が暮らす環境中に放出され、東日本に人が住めなくなると予測された

  その危機を食い止め、暴走する原発を安定化させるに至った背景には、ある中国企業の「善意」が

あった。

 

 【 死と隣り合わせの現場 …「何かできないか」中国出身男性の思い 】

   その光景は 現場で 事故収束作業にあたった人たちの脳裏に 今も こびりついている。

2011年の 3月12日と14日、15日に起きた 福島第一原発の水素爆発。 吹き飛ばされた無数の

コンクリート片が 地上に砕け落ち、大量の放射性物質が周囲に撒き散らされた。死と隣り合わせの

状況下で、原子炉建屋の すぐ傍にいた作業員や自衛官たちは「 まるで戦場のようだった 」と語る。

  「 ものすごい音がして、何かが吹っ飛んできて建物のガラスとかも一気に壊れて… 」。

「 人の頭ほどのコンクリートが 空から降ってくる、あたったら死ぬと思った 」。「 (爆発は)

響く音でした。そして 放射能を含んだ煙が迫ってきて、被曝しないために、みんなで 一斉に

車の中に逃げて … 息を殺して 煙が通り過ぎるのを待って… 」。

   汚染された無数のガレキが散乱する現場では 作業員らが 被曝を覚悟で作業にあたった。

1、2、3号機では 核燃料が溶ける メルトダウンが起き、消防ポンプ車による懸命の冷却が行われて

いた。 都内の会社事務所のテレビの前で、この状況を固唾をのんで見守っていたのが、建設機械の

販売会社の社長で、中国出身の龍潤生(りゅう・じゅんせい)さん。「何か自分にできることは…」

と強く感じたという。

  「 1993年に 日本に留学してから 大学院修了まで、学校やアルバイト先などで 多くの日本人に

親切にしてもらった。『 一滴の水をもらったら、できるときは バケツで返す 』と親から教えて

もらっていたから、日本を救いたいという気持ちだった 」。

 

【東日本壊滅の危機…「 (費用は)いくらでもいいから、持ってきて 」】

   この時、最大の危機とされたのは 核燃料プールだった。1号機には 392体、2号機には

615体、3号機には 566体、そして 4号機には 1535体もの核燃料が高さ50メートル

ある原子炉建屋の最上階のプールの中に保管されていた。

    特に 4号機の発熱量は大きく、14日の午前4時頃のプールの温度は 84℃にまで上昇していた。

プールに注水することができなければ、3月下旬には 水位が下がり燃料が露出する恐れがあった。

水が干上がれば 膨大な量の放射性物質が 環境中に放出され、東日本に 人が住めないほど汚染される

と予測された。
 

   3月17日から自衛隊は ヘリによる上空からの注水を決行したが、プールに ピンポイントに入れる

ことはできなかった。東京消防庁による放水で なんとか状況の悪化を食い止めていたが、効果的な

一手を打てない状況だった。

 

  「 水をいれるなら私たちの専門分野だ 」

   龍さんは、自身が 販売代理店を務める中国の建設機械企業・
三一重工SANY)が 高層ビルの

建設などで使用される世界一長い62メートルのアームを持つコンクリートポンプ車を製造していた

ことを思い出す。すぐさま、東京電力に電話すると、担当者は 興奮気味に即答した。

  「 もう(費用は)いくらでもいいから、持ってきてください、すぐに! 」

 

【日本に「販売」しない 会長の決断】

   龍さんは、この巨大ポンプ車を製造した 三一重工の梁穏根会長に連絡を入れ、日本に運びたいと

提案した。すると、梁会長の反応は 予想を上回るものだった。

  「(巨大ポンプ車を)日本に販売してはいけません。利益はいらない。寄付しましょう。こういう

   時は みんな助け合いです。技術的なサポートも提供しましょう 」。

   巨大ポンプ車の販売価格は 約1億5000万円。すでに ドイツの企業への販売が決まっていて、

上海の港で 出荷待ちの状態だった。ドイツ企業の快諾もあり、すぐに 日本に向け出発した。しかし、

大型機械の輸送は 通常なら通関の手続きなどで数週間、場合によっては数ヶ月かかってしまう。

 

【「1分1秒の争い」“善意”から広がった助け合いの輪】

   刻一刻と迫る危機。 龍さんは、三一重工の社員などと チームを組み。最短で 巨大ポンプ車を

日本へ運ぶ作戦を考えた。

  「 政府対政府だ と時間がかかる。一番早いルートは 赤十字だ 」。

   巨大ポンプ車を 日本赤十字に渡るよう手配し、空きがあった船や港を抑え、上海港出発から

わずか2日で 大阪の港に届けた。

  「 1分1秒の争い、そんな緊迫感の中でやっていた 」。

   龍さんは 事前に関係各所との協議を済ませ、巨大ポンプ車は 日本に上陸した後、パトカーによる

先導と護衛の下、運ばれた。
  巨大ポンプ車は 千葉県野田市に到着し、そこで 2日間、三一重工の技術者が 東京電力の社員に

遠隔での操作方法などを教えた。ここにくるまで、龍さんをはじめ、三一重工、港 や 千葉県での

訓練土地を確保した 大阪や東京の企業など 日中の様々な立場の人たちが関わっていた。

国境を越えて、立ちはだかる巨大な危機を前に、手を取り合った。

 

【「宝物」の経験…日本を救ったのは中国企業の“善意”】

   3月下旬、他社の大型コンクリートポンプ車も 第一原発に 続々と集結し、核燃料プールへの

注水作業が開始された。龍さんらが手配した巨大ポンプ車も 3月31日から注水作業に加わった。

62メートルのアームが 空に向かって伸ばされると、アームの先に放水口が 悠々と原子炉建屋の

頭上を超えていった。真上からトン単位という大量の水が ピンポイントで燃料プールに注がれた。

直後、東京電力から「 冷却できました!ありがとう!! 」と感謝の報告を受け、龍さんと仲間たちは

歓声をあげて喜んだという。

  「 嬉しくて、全員嬉しかった。社会の役に立ったことは いまでも宝物 」。

  この注水作業によって 危機は食い止められ、暴走する原発は 安定化へ向かった。龍さんの

アイディアから わずか1週間ほどの出来事だった。東日本壊滅の危機を回避できた背景には、一人の

善意から広まった助け合いがあった。大活躍を果たした巨大ポンプ車は その後、「大キリン」という

愛称をつけられ、今も 非常時に備え、福島第一原発の構内にある。龍さんの会社は 今も 定期的に

部品の交換やメンテナンス作業を無償で続けている。

 

【「対話が足りない」始まる処理水の放出、深まる日中関係の溝 】

   あの日の危機から まもなく13年。今、日本と中国は 大きな問題を抱えている。去年8月、

日本政府と東京電力は第一原発に溜まり続けていた「処理水」の海への放出を開始した。

放出される処理水は 汚染水を浄化後、国の安全基準値の40分の1に海水で薄めたものだ。日本政府

は安全と言うが、中国政府は処理水を「核汚染水」と表現し、猛抗議した。さらに、日本からの

水産物を全面的に禁輸する措置を打ち出し、日中関係に大きな亀裂が入った。

 

   「 本来であれば お互いに大切な国家のはずです 」

   龍さんも 今の日中関係を危機的だと感じている。禁輸措置は 日本で水産業などを営む人に、

中国国内で日本食店を展開する人にも、大きな影響を与える。しかし、科学的に安全と説明する

日本政府の姿勢には疑問も残る。

  「 普通なら、なぜ 十数年溜めたのに 今放出するのか、影響がないなら なぜ 今まで放出しなかった

のかと思われる。政府の決定プロセスは もちろんあるが、国が違えば、関心や得られる情報量は

当然 変わる。日本で ずっと生活しているからこそ納得できたこともある 」。

   その上で、龍さんは 国際的に理解を深めていくためには 継続的な対話が欠かせないという。

まずは、その対話を始められる きっかけを見出すことが 日中両政府に求められているのかもしれない。

  「 処理水について 正しく海外に理解してもらうためには、もっと国家間の会話と説明が必要。

お互いの相互理解と助け合いが大事。国と国、あるいは国民と国民の相互理解が深まっていけば、

友好にもつながっていく 」。

コロナ禍を経て、世界中で人と人との交流が再び始まっている。立ちはだかる国家間の壁に、「善意」の輪が再び広がることを期待したい。