「なぜ報道機関が市民に判決を下すんや」書類送検で呼び捨て報道に怒り
2023年12月28日 弁護士ドットコム
どうして警察の発表だけをもとに 報道機関に呼び捨てにされて 自分が報じられなければいけない
のか。そう憤った 一人の男性が 1980年代、日本の報道に一石を投じた。
1984(昭和59年)1月、三重県鳥羽市で起きたゴミ収集車の死亡事故。その約3カ月後、
鳥羽警察署が 清掃会社社長の品野隆史さん(82)を 業務上過失致死の疑いで書類送検したと
記者会見で発表する。
翌日、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞は 品野さんを呼び捨てで報じた。この事件に限らず、
当時は他の事件でも呼び捨てが当たり前だったいう。
これに怒った品野さんは その後、3社と三重県を相手取り慰謝料を求めて提訴。
津地裁、名古屋高裁、最高裁のいずれも 品野さんの訴えを認めなかったが、多くの報道機関は
1989年から、逮捕時に呼び捨てをやめ「●●容疑者」とつけるようになった。
しかし 品野さんは、それから 40年近く経った今も納得していない。「 報道機関は 何を偉そうに
“容疑者”と言うんですか。裁判所ではなく、なぜ報道機関が市民に判決を下すんや 」と。
(弁護士ドットコムニュース編集部・山口紗貴子)
・ 報道機関が「被疑者」ではなく「容疑者」を使う理由 1980年代の大転換、山田健太教授に聞く
・ なぜ報道機関は逮捕者の「呼び捨て」から「容疑者」呼びに変えたのか 歴史的裁判を追う
●ゴミ収集車のふたに挟まれ、従業員2名が亡くなる
昭和17年、品野さんは 7人兄弟の末っ子として、京都市内で生まれた。日本画家の父には
「 職人にはなるな 」と諭され、母からは「 プライドだけでは生きていけへん 」と教えられ、
高校卒業する頃には 自然と、商売人を志すようになった。
大阪の食品会社や船場、外資系企業などで商売を学んだ後、1972年(昭和47年)、妻の実家が
ある三重県伊勢市で水質や汚泥調査などを行う会社を創業した。徐々に運送などにも事業を広げ、
鳥羽市、伊勢市、二見町(現在は伊勢市)の3カ所で事業所を開くまでに発展していく。
1977年(昭和52年)からは 鳥羽市の委託を受け、ごみ収集の事業も始めた。事故が起きたのは、
1984年のことだった。
「 忘れもしません。1月9日の午前11時過ぎのことです。鳥羽市の空き地で 作業を行っていた
従業員2人が、空き缶が詰まったので 後ろの扉をあけて取り出そうとしたところ、収集車の鉄製
のフタに 上半身を挟まれ亡くなったのです。1人は 父の兄の孫にあたる、私の身内でした。
自動車会社を辞めて 私のところに入ってくれて、機械に強い、いい男でした。弟のように思って
いましたけど、他の社員の手前、身内だからこそ あえて厳しくしていた。
かわいそうなことをした、自分の命を代えてでも、と何度思ったことか。2人を亡くしたことは
一生背負っていかなければいけません。今も私の肩に重くあります 」
収集車は 1976年(昭和51年)から使っており、油圧式でふたが上下する仕組みで、事故当時、
運転席にあるレバーは ふたを上げる方に入っていたという。事故後、警察が事業所を訪れることは
あったが、品野さんに対しては 同情的であるようにも感じていた。
「 亡くなった2人は ベテランでしたから、操作上の問題ではなく、もしかしたら 収集車の問題が
あるのではないか。そう考えて調べたところ、同じメーカー、同じ型の収集車が全国各地で 同様
の死傷事故を起こしていることがわかったんです。
警察にはそのことも伝えたんですが、『そんな大企業相手に裁判やっても勝てませんよ』と。
むしろ 従業員を亡くして落ち込んでいる私に対して、刑事は『死んだらあきまへんで』と慰める
こともありました。警察署に呼ばれたこともなかったですし、まさか 私が疑われているとは
思いもしませんでした 」
●青天の霹靂、書類送検されたことを報道で知る
事故から 約3カ月後の4月20日、三重県警鳥羽署は 品野さんを業務上過失致死の疑いで
津地検伊勢支部に書類送検したと明らかにする。翌日の朝刊で、新聞各紙は 品野さんを呼び捨て
で報じた。
記事の内容は 警察の発表に基づくもので「 ごみ収集車には ふたを支える安全棒が付いていたが、
さびついて使えなかった。品野隆史は これを知っていたのに ごみ収集車の安全点検や修理を怠った
疑い 」(朝日新聞、4月21日朝刊)などと報じた。中日新聞だけは「品野隆史社長」と書いた。
書類送検は、品野さんにとっては 青天の霹靂だった。
「 新聞に載る前、どの社からも 取材依頼はなかったですよ。朝、新聞を読んで、自分が書類送検
されたことを知ったんです。朝日だけは 久留米市で同じような事故が起きたことを書いてくれ
ましたけど、どこも 警察の言い分ばかりで 私の主張すら聞かずに、私を呼び捨てで 犯人扱い
してきたわけです。せめて 私の言い分は聞かんと。言い分あるやろ? と聞いてくれたら、
それでよろしいんや 」
周囲には「 人の噂も七十五日 」と言われたし、小学生から高校生まで 4人の子は 学校で
いじめられることもなかった。取引先も品野さんを信頼して、変わらず契約を続けてくれた。
そのまま見過ごすこともできたが、品野さんには どうしても引き下がることはできなかった。
「 それまでも、本人には 避けられなかったであろう、どうしようもない事故でも 呼び捨てに
されていることは気になっていました。でも 他人事だったんでしょうね。いざ 自分に
ふりかかって、このままにしてはいかんな と思ったわけです。お金と時間がかかるのも
わかったし、裁判で勝つのは 難しいのもわかっていた。
でも 名誉を傷つけられるのがイヤだったわけです。裁判に負けても、裁判の事実が知られる
ことで 私の名誉を回復したい という思いで提訴することを決めました 」
●「実名、呼び捨ての形で表記した点に違法性は認められない」
品野さんは 書類送検されたものの、結局は 起訴猶予となった。
ついに 品野さんは、朝日、毎日、中部読売、警察(被告は三重県)を相手取り、「 呼び捨てと
犯人扱いはけしからん 」として、慰謝料 1000万円を求めて 津地裁に提訴した。提訴の記者会見には
各社集まったが、報じた社は 皆無だったという。
「 ある新聞社では、記者が記事にしようとしたのに、デスクが『 こんなことが知られたら、
他にも 何百という裁判を起こされる 』として 止められて大喧嘩になったと言うんですね 」
裁判では 報道部長らが証人に立って、呼び捨て報道に違法性はない との主張を繰り返した。
代理人の中村亀雄弁護士によれば、裁判で被告側は「 警察の発表した事実を正確に報道した以上
過失がない 」「 被疑者の呼び捨ては 数十年にわたる慣行であり、社会通念である 」「 匿名にすると逆に無関係の人々が疑われる弊害が生ずる 」「 公益をはかる目的だから違法性がない 」などと
主張したという。(出典:『法学セミナー』1988年01号)
裁判は 津地裁、名古屋高裁、最高裁で すべて敗訴となる。最高裁小法廷は 1999年3月2日、
「 報道に際し、実名により、かつ呼び捨ての形で表記した点に違法性は認められない、として
二審の判断は正当として是認できる 」とし、1、2審判決を支持し、上告を棄却した。
品野さんは この判決について「 裁判官は バカだと思いましたよ。体制に応じた判決でしかない。
慣例だからと 惰性でやっている報道機関に “間違っているんや”と言って欲しかったですね 」と
悔しがるが、この裁判とともに 報道のあり方に関する議論が活発化していった。
●「 国民に判決を下してもらいたいんや 」
「 裁判の判決では負けても、国民に判決を下してもらいたいんや、と思っていました。
裁判を起こしたことで、新聞社やらの シンポジウムに招かれて東京で話をさせてもらったり、
いろいろな雑誌や書籍で 私の言い分を聞いてもらったり。偉い大学の先生や弁護士さんに、
そうだそうだ、品野さんの言っていることが正しい と言ってもらうこともありましたね 」
1989年末には、ほとんどの報道機関が呼び捨てをやめ 「容疑者」との呼称をつけるようになった。
しかし、これにも 品野さんは納得していない。
「 なんで “容疑者”なんや と。疑いがあるということやからね。それでなぜ、実名を出すんですか。
せめて 判決が下りるまでは “●●さん”や“●●氏”と呼べばいいんじゃないですか。
無罪推定なんだから 逮捕や書類送検時に公表する必要だってない。マスコミだって調べるわけ
ではなくて、ただ 警察の発表に基づいて、自分たちの推量で書いてますんや。判決が下りてから
報じてもいいのではないですか。
大体、裁判所ではなく 報道機関が なんで判決を下すんや。呼び捨てから 容疑者と言うように
なって変わった と思っているかもしれないですけど、自分たちが偉い という姿勢は変わって
いないんじゃないでしょうか。弱い者を叩き、強い者に阿(おもね)って、商売の利益を優先する。
それでいいんでしょうか 」
現在81歳の品野さんは、今も 新聞各紙を読み、社会や政治、報道のあり方に厳しい視線を
送っている