柵原鉱山 岡山県久米郡柵原町(現・美咲町)

                岡山県久米郡美咲町柵原 - Yahoo!マップ
 
         1953年(昭28)4月1日 - 倭文西村・西川村・垪和村 → 旭町
           7月1日 - 旭町、御津郡江与味村の一部(江与味)を編入
   1955年(昭30)1月1日 大井町・久米村・倭文村 →   久米町 
               加美町・三保村・打穴村・大垪和村 →   中央町 
               吉岡村、勝田郡飯岡村・北和気村・南和気村 →  柵原町 
                               2月1日    福渡町・鶴田村が合併し、改めて福渡町 発足
        1961年(昭36)10月1日 - 旭町、真庭郡落合町の一部を編入
    1967年(昭42)1月15日 - 福渡町・御津郡建部町と合併し、改めて御津郡建部町 発足

    2005年(平17) 2月28日 - 久米町が津山市に編入
            3月22日 中央町・旭町・柵原町との対等合併 → 美咲町
 
 黄鉄鉱を中心とした硫化鉄鉱を主に産出した鉱山。
 岩手県の松尾鉱山とともに日本を代表する硫化鉄鉱の鉱山であった
   古生代ペルム紀( 約2億9900万年~約2億5100万年前 )中期に形成された 火山性の
  硫化物鉱床とされる。同時期に中国地方各地で同様の鉱床が形成されたが、柵原鉱山の鉱床が
  最も規模が大きく、総埋蔵量3700万トン以上と見積もられており、他の鉱床は小規模。
 
     ペルム紀の終わり(P-T境界)に、地球史上最大規模とも言われる大量絶滅が起こった。
   このとき絶滅したは、海洋生物のうちの96%。全ての生物種の90%から95%に達する。
 
   鉱床は、吉井川沿いの柵原本鉱床とその周囲に複数の小鉱床がある。柵原本鉱床は黄鉄鉱を
  中心としており、黄銅鉱、閃亜鉛鉱が少量含まれる。また柵原鉱山周辺は 白亜紀に花崗岩の
  貫入が起きたことによって 接触変成作用を受けており、柵原本鉱床も 変成作用を受けて
  黄鉄鉱の一部が 磁硫鉄鉱となっている。そして 柵原鉱山最深部に分布する深部鉱床は変成作用
  の影響が強く、多くの鉱石が 磁硫鉄鉱や磁鉄鉱となっている。また柵原本鉱床の周囲に分布
      する小鉱床からは斑銅鉱、黄銅鉱なども産出。
 
 
 🔷  柵原鉱山は 慶長年間に 津山城を築城時、石材を集める際 褐鉄鉱の露頭を見つけたのが最初。
しかし 江戸時代の間、地元では発見された褐鉄鉱のことを「焼石」と呼ぶのみで 全く利用される
ことはなかった。
 1882年  柵原本鉱体の隣・下柵原鉱体に当たる場所で、硫化鉄鉱の採掘を開始。
当時の硫化鉄鉱の用途は 塗料と緑礬の製造くらいしかなかったため、鉱山の経営は 困難で 鉱山の
所有者は転々と変わった。
  84年 地質学者・巨智部忠承、褐鉄鉱の露頭(柵原本鉱床)を発見、製鉄材料に有望と判断。
    93年   吉井川対岸の久木地区から 銅を含有する硫化鉱の露頭が発見(久木鉱床)。
この頃、硫化鉄鉱は 化学工業で多用される硫酸の原料として注目されるようになり、硫化鉄鉱の
採掘もまた軌道に乗り出した。
 
1900年 柵原本鉱床を露天掘りで褐鉄鉱の採掘を開始、八幡製鉄所に送られる。
  02年 八幡製鉄所の事業が一時的に縮小された影響で一時休山。
   日露戦争の開戦に伴う 鉄鋼増産のために再開。
  05年 鉱山の経営権は 鳩山和夫ら3名の手に渡る。 鳩山和夫 - Wikipedia
   柵原本鉱床から硫化鉄鉱が発見され、硫酸の需要増大のために一時的に盛んに採掘されたが、
  日露戦争終結後の不況で 硫化鉄鉱の採掘は中断。坑内湧水の増大によって鉱山自体の経営が
  困難となっり、1907年には再び休山。
   
  最初に開発された下柵原鉱床(下柵原鉱山)は、久木鉱山とともに柵原鉱山の浮沈とは
 関係なく順調な経営を続けていた。

 1912年、下柵原鉱山の経営者が 柵原鉱山を買収。下柵原鉱山と柵原鉱山は合併して柵原鉱山
と呼ぶようになる。 柵原本鉱床の再開発が開始されたが、鉱床が 吉井川に近いこともあって
湧水量が多く、開発は困難を極めた。
  この頃、彦島、直島など、瀬戸内海沿岸の各地に 古河鉱業や鈴木商店などが 非鉄金属の
 精錬所建設を進めていて、精錬する鉱石を得るために 財閥間で 瀬戸内地方の鉱山の買収が
 盛んになった。
  そのような中、1915年 藤田組は 柵原鉱山以外の鉱山、鉱区の買収を行い、綿密な調査の
 結果有望との結論が出た上で1916年、柵原鉱山を買収。
 
藤田組の柵原鉱山経営
 1918年7月、中国地方一帯に大豪雨。
  柵原鉱山では かつての露天掘りの褐鉄鉱採掘跡が地すべりを起こし、土砂が すぐ側を流れる
 吉井川を閉塞して 周囲一帯が冠水し、多くの犠牲者とともに 柵原本鉱床の坑道全体も水没した。
  久木鉱床の坑道は水没を免れたために豪雨後まもなく採掘を再開したが、本鉱床は坑内の
 排水作業が 1919年2月までかかり、本格的操業再開は 1920年。
   水害の後遺症は大きく、鉱山周辺の多くの住民は 恐怖心から柵原鉱山で働きたがらず、また
 鉱山労働者も 雨が降ると欠勤する者が続出。そこで 豪雨で生産中断となる前から進めていた
 本鉱床内の坑道などの鉱山設備の一新化を推し進め、生産性と安全性を高めた。
 また、これまでの手掘りから削岩機の導入も進められた。
 
  折りしも各種工業の発展は 化学工業の原料としての硫酸の需要増大を招いており、硫酸の
 主要原料としての硫化鉄鉱の需要も増大しつつあり、藤田組は柵原鉱山の生産力強化に注力。

  鉱山経営が順調になるにつれて 鉱石の輸送が問題となった。それまで 吉井川の川舟である
 高瀬舟に頼っていた鉱石の輸送では間に合わなくなって、柵原から索道によって矢田まで鉱石を
 輸送し、矢田から瀬戸内海の鉱石積み出し港・片上港まで鉄道を敷設
 1923年 索道と片上鉄道、運転開始。鉱石の輸送能力は高瀬舟利用時と比べて飛躍的に伸びた。

  もともと鉱石の品位が高く埋蔵量が豊富な上に、鉱床が掘りやすく かつ夾雑物の少ないなど、
 他の鉱山と比べて競争力の高さが備わっていた柵原鉱山は、藤田組の本格的てこ入れによって
 大正時代末には 日本を代表する硫化鉄鉱の鉱山へと成長を遂げた

     鉱山の発展に伴い
鉱害も発生した。特に問題となったのは 酸性度の高い坑内排水を そのまま
 吉井川に放流していたことにより、吉井川下流住民からの鉱害についての訴えが多発
 1924~25年 酸性度の高い坑内排水を石灰で中和させるための沈殿池などの整備。

  大正末期、セルロイド や 硫安、そして 特に 化学繊維のレーヨンの材料として 硫酸の需要は
    増大し続け、柵原鉱山の増産に拍車がかかる
 1926年 これまで主に採掘が行われていた第一鉱体の奥に第二鉱体が発見され、ますます
  柵原鉱山は発展を続けた。
  昭和初期、藤田組は 所属する小坂鉱山が 銅価格低迷のあおりを受けて不調。 折からの
 昭和金融恐慌と それに続く昭和恐慌の影響もあって 日銀特融を受けるなど経営困難に陥ったが、
   柵原鉱山は 1928年野口遵率いる日窒コンツェルンの水俣、延岡、そして 朝鮮半島の興南の
 化学工場で使用する硫化鉄鉱として 年15万トンという大量供給を行う契約を締結するなど
 順調に経営を進め、藤田組の経営を支えた。

  日窒コンツェルンからの硫化鉄鉱の大量受注は、必然的に更なる増産の必要性を招いた。
 当時採掘の中心を担っていた 第一鉱体と第二鉱体での採掘体制は 増産に対応可能だが、
 採掘された鉱石の選鉱と輸送全体にわたっての処理能力が著しく不足。
   日銀特融を受けている藤田組は 基本的に新規事業の立ち上げは許可されなかったが、収益増が
   見込まれる柵原鉱山の新規事業は 特別に許可が下り、まず 坑内で採掘された鉱石の巻き上げ機
   と大規模な選鉱場の新設が行われた。
 
    1929年着工、1931年2月開通    柵原から鉄道で 鉱石の輸送が行われるようになった。
  鉱石の輸送手段の改良は、鉄道の延長に止まらず、積出港である片上港の近代化も図られた。
 片上港は これまで水深が浅いため 大型貨物船の着岸ができず、艀の利用も行われていたが、
 内務省が 地域産業の振興に重要な港と認め、指定港として港湾近代化の国庫補助の対象となり、
 浚渫で水深を深くするとともに鉱石の積み込みの機械化も行われた。
  このような増産体制の強化が行われている最中の1929年、第二鉱体の奥に更に大規模な
 第三鉱体も発見され、1936年には 硫化鉄鉱の年生産高は 戦前最高の約50万トンに達した。
 
 
    硫化鉄鉱は成分の硫黄が 主に肥料や繊維などといった化学工業の原料として用いられるため、
軍需工業との関連性は 比較的薄かった。そのため 戦時下の国家統制下に入るのは 他の金属類に
比べて 比較的遅く、1941年になってからのことだった。
 藤田組は 重要軍事物資である銅の増産に努め、柵原鉱山でも 含銅硫化鉱から少量の銅が生産
されていたことから 1943年には銅山にも指定され、1944年には 鉄資源の不足から かつて採掘
されていた褐鉄鉱の採掘も再開された。
   そのような中、藤田組の銅生産は 低迷を続け、ついには 1943年 藤田組の全株式は帝国鉱業開発
に買収され、柵原鉱山も 帝国鉱業開発の傘下に入った。

    戦況の悪化に伴い 柵原鉱山で働く 熟練労働者の不足が顕著となり、労働力不足を補うために
徴用工、朝鮮人や中国人の労務者、更には 勤労動員された学生などといった不熟練労働者が 大量に
就労するようになった。人員ばかりではなく 物資の不足も顕著で、そのような中で 増産を厳しく
求められた結果、計画性に欠ける その場しのぎの乱掘が横行する結果となった。
   そのため 柵原鉱山では 1944年後半頃からは生産力が低下し、また鉄道、船舶などの輸送力の
低下も著しく、採掘された鉱石の輸送も困難となった。
 
    更には 陸軍が 柵原鉱山の硬い岩盤に注目して、宇治市にあった 火薬工場の疎開先として、
1945年5月から 地下工場建設のための大規模な掘削工事を 柵原鉱山に請け負わせた。地下工場の
建設のために 主に関西方面から 多くの人員が徴用されてきたが、陸軍から請け負った仕事である
こともあって、柵原鉱山としては 仕事の納期を守るために 鉱山で働く労働者も作業に駆り出される
ことになり、鉱山の生産力の低下に拍車がかかることになった。

同和鉱業時代の柵原鉱山
    戦時中、硫化鉄鉱を使用していた化学工場の一部は 火薬工場となっており、また 戦災を受けた
工場も多く、終戦後まもなくは 硫化鉄鉱の需要は少なかった。
また 柵原鉱山自身も 戦時中の無計画な乱掘によって 坑内状態が悪化しているにもかかわらず、
修理や設備の改善に必要な物資は 極度に不足しており、また 鉱山で働く多くの中国人、朝鮮人の
労務者が帰国したために 労働力不足も顕著であった。

   そのような状況に追い討ちをかけたのが、西日本一帯に大きな被害をもたらした枕崎台風の襲来
だった。1945年9月17日、枕崎台風による豪雨で 吉井川が氾濫を起こし、柵原鉱山の坑道の多くが
水没。また 片上鉄道の鉄橋も 2ヵ所で流出してしまい、鉱石の輸送手段も大きな打撃を蒙った。

    終戦後、柵原鉱山の経営体制も大きく変わった。帝国鉱業開発は解散となって 1945年12月には
同和鉱業が創立され、柵原鉱山は 同和鉱業傘下の鉱山となった。
しかし 日銀特融の利子返済問題 や 集中排除法による規制などで 同和鉱業の経営体制は なかなか
安定しなかった。同和鉱業の経営体制が整うのは 1949年になってからであった。。
 
 終戦後の混乱と枕崎台風の被害で痛手を蒙った柵原鉱山であったが、食糧不足が深刻化していた
当時の日本では、食糧不足解消のために 化学肥料の増産は急務であった。
そのため 化学肥料の原料となる硫化鉄鉱の増産が強く望まれるようになった。柵原鉱山では まず
水没した坑道の復旧に全力を挙げ、1946年3月  片上鉄道の鉄橋が復旧して運行が再開したのと
同時に、柵原鉱山も採掘を再開した。
坑内の復旧は 物資と労働力不足のために難航したが、1946年後期には ほぼ復旧が終わった。
    そして 1947年4月、政府は「硫化鉱の緊急増産」を閣議決定し、硫化鉄鉱を産出する鉱山には
資金と物資を優先的に配分することが決定され、中でも 柵原鉱山は 松尾鉱山とともに最優先の鉱山
とされた。

   もともと 採掘条件が良い柵原鉱山は 戦後の復興の結果、急速に生産力を回復させることに成功し、
更なる増産が望まれるようになった。そこで 増産のために坑内設備の近代化が進められたが、
今度は 硫化鉄鉱の埋蔵量の減少が問題になってきた。
   そのため 探鉱を実施して 新鉱脈の発見と開発に努めることになった。1950年以降進められた
探鉱の結果、まず 下柵原鉱床に埋蔵量約140万トンの有望な鉱床を発見するなどの成果を挙げたが、
最大の発見は 1951年の柵原本鉱床の下部鉱体の発見であった。
下部鉱体は 第三鉱体の奥にあって 総埋蔵量は約1890万トンと、第一、第二、第三鉱体の合計埋蔵量
を越える大鉱床であり、下部鉱体の発見によって 柵原鉱山は 更なる増産を達成することが可能に
なった。
    そして 採掘された鉱石の有効利用を進めるため、これまでほとんど使い道がなかった磁硫鉄鉱
の利用法や、硫黄分を除いた後の 硫化鉄鉱や磁硫鉄鉱を 良質な製鉄原料に加工する技術を開発し、
副産物としての 銅やコバルトの回収技術も開発して、柵原鉱山は 1950年代から1960年代にかけて
全盛期を迎えた。
   全盛期も 下部鉱体の更に地中深部に深部鉱床を発見、開発したり、柵原本鉱床東部に銅の含有率
が高い 火の谷鉱床を発見、開発するなど、新たな鉱床開発も盛んに行われ続け、柵原鉱山の総生産量
は 1966年には 80万トンを突破し、最高値を記録した。

   また 柵原鉱山の発展に伴い 一体化が進んだ吉岡村、北和気村、南和気村、飯岡村の四ヵ村は
1955年に合併することになった。柵原鉱山を中心として 四ヵ村が合併して 新町が誕生することに
なった経緯や柵原の名が全国的にも知名度が高いことなどから、新町名は 柵原鉱山の名を取って
柵原町とすることになった。

鉱山の閉山
   1960年代、全盛期を迎えた柵原鉱山であったが、その衰えは 急速であった。その最大の原因は
石油精製時に 水素化脱硫装置、硫黄回収装置を用いることによって 副産物として生産される
回収硫黄が 急速に市場に出回るようになったためであった。
   また 減反政策の影響で 化学肥料の国内消費量が減少し、諸外国でも 化学肥料の自給が進み
輸出も減少するなどといった事態が重なり、1970年までは 年産70万トン台を維持していた柵原鉱山
の硫化鉄鉱生産量は 激減して、1972年には ほぼ半分の36万トンにまで落ち込んだ
    そして 1970年代半ばには 硫酸の原料としての硫化鉄鉱の利用が ほぼ途絶え、松尾鉱山など
他の硫化鉄鉱の鉱山が 次々と閉山に追い込まれる中、柵原鉱山は 酸化鉄、重量骨材 や 重量 コンクリート
の原料用の硫化鉄鉱を採掘する鉱山として生き残りを図ることになった。
   1978年には 深部鉱床の採掘を中止し、柵原鉱山は 最大の下部鉱体の採掘に集中することになり、
採掘量を大幅に減らし、人員の削減など大規模な経営の合理化も断行した。

     経営の縮小、合理化によって生き残りを図った柵原鉱山の息の根を止めたのが 1985年以降の
円高であった。円高の影響で 輸入鉱石の価格が下落したため、国内鉱山の競争力は 著しく低下し、
柵原鉱山でも 鉱石の販路の縮小を余儀なくされた。
  そして 1991年3月、柵原鉱山は 閉山。
閉山までに硫化鉄鉱を中心として 確認された埋蔵量の約7割にあたる 2650万トンの鉱石が採掘され、
まだ 採掘が可能である鉱石を 1000万トンを残した状態だったが、主要な鉱物である硫化鉄鉱の
利用価値が低下したこと と 円高によって 外国産の安価な鉱石によって販路を失ったことにより、
閉山を余儀なくされた。坑道の最深部は 地下1000mにおよび、坑道の総延長距離は1400kmに
達していた。