「円売り vs 日本銀行」という未来

      唐鎌大輔(みずほ銀行 チーフマーケット・エコノミスト)

               2023年8月9日 日経

 

毎回ライブミーティングという怖さ

    国内外の金融市場において日銀への注目度が にわかに高まっています。海外における関心度は

アベノミクスが最も注目された 2013年以来の大きさを感じます。7月28日に決断された政策決定は

実質的には イールドカーブ・コントロール(YCC)の撤廃とも言えるもので、日銀がどのように

説明しようと 長期金利上昇を伴う利上げであります

                        :日銀、YCCを修正 長期金利0.5%超え容認 - 日本経済新聞

 

    同時に 正真正銘の利上げであるマイナス金利解除は 正副総裁が全面的に否定していることから

「 もう日銀発のタカ派材料はない 」と金融市場が確信するに至っており、逆に 円売り安心感も醸成

されているのが現状と見受けられます。こうなると 今後の日銀政策決定会合は 常に円安耐久度を試す

ライブミーティングになる恐れがあります。今年4月以降、日銀が 日本国債の貸出制限に踏み切った

ことで 債券市場における「円金利上昇(日本国債売り)で引き締めが煽られる」という展開は封じ

られています

 

   しかし、為替市場は そうはいかないでしょう。今後、日銀が警戒すべきは「 円安(円売り)で

引き締めが煽られる 」という最も忌避したかった状況ではないかと思います。かつて 円高で緩和を

煽られ 手持ちカードを はぎ取られたのが 白川体制でした。植田体制は その逆の展開を警戒したい

ところです。

   既に 危うい兆候はあります。8月3日、10年金利が 0.6%台後半まで上昇してきたところを

臨時国債買い入れオペで抑制するという動きがありました

                            債券15時 長期金利0.65%に上昇、日銀臨時オペの効果限定 - 日本経済新聞

   これによって「 0.65%前後が新しい誘導目途 」という理解が浸透した可能性があるでしょう。

ということは、0.65%付近の臨時オペで 一時的な金利低下と円安が誘発されることを前提に投機的に

円売りを進めれば そこに収益機会が生まれます。投機筋からすれば「 予見できるボラティリティ 」

を使わない手はありません。実際、臨時オペ後のドル/円相場は 大きな振幅を伴っている。

   本来、日銀は「 円安を無視する 」という姿勢が望ましいと思います。円安が進んでいる状況に

(引き締めで)呼応するという構図は 自ら投機筋のゲームに参加するようなものだからです。

    その意味で「 円安は 日本経済全体にとってプラス 」と一貫して 円売りの挑発を無視し続けた

黒田体制は -その意図するところはどうあれ- それほど悪手ではなかったと筆者は思います。

そうして 思惑を一蹴している間に 昨年11月、米国で CPIショックが起きて、そのまま 円安は 一旦

終息するに至りました。多分 これが正解の対応だったのではないかと思います。

 

マイナス金利解除、現時点では「兆し」の段階

   日銀が 投機筋の円売りゲームに参加した場合、もはや YCCが実質的に撤廃されている以上、

マイナス金利解除が 必然的に視野に入るでしょう。もちろん、形式的に YCCは健在ですから、

10年国債利回りは 未だに「ゼロ%程度」が誘導の目途です。それ故、誘導する目途を「0.5%程度」

へ(公式に)引き上げたり、誘導目標年限自体を短期化(10年→5年)したりする正常化のステップ

は考えられます。

 しかし、投機的な円売りが勢いづく局面に至った場合、本丸である「マイナス金利解除」に辿り

着くまで 催促が続く恐れがあります。しかも、従前の説明と整合性を取るために 日銀はマイナス金利

解除に至るまでは「 これは引き締めではない 」という色合いを残そうとするはずです。 余計に

投機的な円売りを制御しづらい状況が予想されます。かくして、真の引き締めであるマイナス金利解除

の可能性について 市場の注目は集まり、実際、筆者においても 内外からの照会が増えてきていること

を感じます。

   その実現可能性は どう考えても 名目賃金の行方に依存するでしょう。植田体制発足以降、声明文

では『賃金の上昇を伴う形で、2%の「物価安定の目標」を持続的・安定的に実現すること』と明記

されています。マイナス金利解除の可否も 当然、賃金情勢との見合いで決まるでしょう。この点、2023年春闘では 基本給底上げに相当するベースアップ(ベア)と定期昇給を合わせた平均賃上げ率

が 1993年以来、30年ぶりの高水準に達しています。構造的に存在している人手不足に歴史的な物価高

が重なったことで実現した数字であり、これを定常状態と見なすかどうかは未だ議論があります。

 

   しかし、「 マイナス金利政策が正当化されるような状況ではない 」と言われれば そうかも

しれません。 もっとも、今のところ日銀が名目賃金上昇を背景として マイナス金利解除という本丸に

至る可能性は 非常に低いでしょう。

  7月の展望レポートでは リスク要因として「 物価や賃金が上がりにくいことを前提とした慣行や

考え方が根強く残り続ける場合、来年以降は 賃上げの動きが想定ほど強まらず、物価も下振れる

可能性がある 」と明記されています。

 

  また、内田日銀副総裁は 8月2日の千葉県金融経済懇談会における挨拶で「 現状は まだ『兆し』の

段階ですが、ようやく 日本経済が変わるチャンスが来ているかもしれないのですから、粘り強く

金融緩和を続けることで、こうした『変化の兆し』を大切に育てていくべき 」と時期尚早の引き締め

で芽を摘むべきではないとの考えを明言しています。

 

  確かに、内田副総裁は「 いわば『早い者勝ち』の獲得競争が始まったりしています 」、「 多くの

経営者の方と接してきて、『 こうしたデフレ期の企業行動は、変えるべきだし、環境が許せば

変えたい 』というのが実感なのではないか、と感じます 」とも述べており、名目賃金上昇の機運が

高まっていることを認めている節もありますが、基本的に 現在の日銀のメインシナリオは「 『変化

の兆し』を大切に育てていくべき 」ということに集約されそうです。あくまで マイナス金利解除自体

は まだリスクシナリオに類するものだと思います。今後、日銀の言う「兆し」が確かなものと判断

されれば、メインシナリオへの格上げも検討される状況と見受けられますが、少なくとも近い未来

ではなさそうに思います。

 

マイナス金利解除でも「焼け石に水」の可能性

    さておき、それが リスクシナリオだとしても、マイナス金利解除が視野に入るような状況は

これまで考えられるものではありませんでした。この点、円金利上昇や円高相場の可能性を検討する

余地は確かにあるかもしれません。

   しかし、過去のnoteでも執拗に述べてきた点ですが、今の円相場は「投機は円売り、実需も円売り

という環境に置かれています:過去の円安局面との類似点と相違点~「投機は円安、実需も円安」~|唐鎌大輔(みずほ銀行 チーフマーケット・エコノミスト) (nikkei.com)

 

    勢いのある円安相場を演出する投機的な円売りが終息しても、ファンダメンタルズ(実需)で見た

円売りが残るという点が 過去との大きな違いだ と筆者は思っています。

こうした状況に対してマイナス金利解除という大きなカードをぶつけたとしても 円安の潮流が変わる

保証はありません。

   この点、最近では「 既に 貿易赤字はピークアウトしており、昨年とは劇的に異なる 」という論調

をよく見かけます。確かに 貿易赤字は 今年1月の約▲3.5兆円をピークとして縮小傾向にあります。

ですが、2023年上半期(1~6月計)の貿易収支は 約▲7.0兆円と歴史的に見て相応に大きいものです。

少なくとも 現時点(今わかっている最新統計)では 昨年上半期(約▲8.0兆円)とさほど大きな違い

が出ているわけではありません。

    下半期以降、前年比で見た改善幅がメディアで騒がれるでしょうが、安定的に黒字を記録すること

が無い限り、「 円を売りたい人の方が多い 」という需給環境が根本的に変わるわけではないはずです。

 

   なお、国際収支の観点から 需給を評価しても、インバウンド需要の劇的な回復から旅行収支黒字の

拡大が取りざたされることが多いものの、話は そう単純ではありません。

確かに、旅行収支について 1~5月合計を見ると、昨年の+1013億円から 今年は 約+1.3兆円へ

10倍以上に膨らんでいます。インバウンド需要は 為替取引を伴うでしょうから、これは 明確な

円高要因です。

   しかし、旅行収支を含めたサービス収支全体を 1~5月合計で見ると 約▲2.3兆円から▲1.8兆円へ

縮小しているものの、旅行収支黒字の急拡大ほど改善しているわけではありません:

画像
 

 

   これは デジタルやコンサル、研究開発といったソフト面での「新しい赤字」として注目される

その他サービス収支が 約▲2.0兆円から約▲2.7兆円へ増えていることに起因しています。

これも過去のnoteで扱いました: 日本が直面する新しい外貨流出源の今~デジタル、コンサルそして研究開発~|唐鎌大輔(みずほ銀行 チーフマーケット・エコノミスト) 

 

    また、これも 過去のnoteで議論しましたが、第一次所得収支黒字の一部が還流しないことを

踏まえたキャッシュフロー(CF)ベースの経常収支は 慢性的に赤字化している疑いが強く、筆者試算

では 2023年上半期の経常収支は統計上、+8兆132億円と前年同期(+7兆2103億円)から黒字幅が

増えているものの、CFベースでは約▲3.6兆円程度の赤字だった疑いがあると見ています。

   単月の貿易収支改善や外れ値だった 昨年からの改善を囃し立てるのは視野狭窄であり、俯瞰すれば

実需が 円安を正当化する状況は まだ残っているように思います。この辺りの考え方は 以下の記事で

取材して頂きました:経常黒字、円高の要因にならず? 投資収益の還流乏しく -

 

日銀の単騎突撃はカードを浪費するだけ

  こうした状況の下、継続的な円高・ドル安を期待したければ、米国経済の はっきりとした悪化と

それに伴う 米金利低下、これに加えて 本邦貿易収支が 継続的に黒字を記録するような展開が必要

と筆者は考えます。

  少なくとも 円安がテーマ化している状況で、需給環境も 円安を支持するような地合いの中、日銀が

これを覆そうと 単騎突撃しても 貴重なカードを浪費するだけで 大した時間稼ぎにならないというのが

過去の教訓ではないかと思います。

  これは 2008年以降の超円高局面が 白川体制による断続的な緩和では 全く終息せず、結局のところ、

FRBの正常化プロセス開始や欧州債務危機終息が重なる 2013年まで待つ必要があったことを

思い返せば明らかでもあります。 当時は 海外環境(内外金利差)の変化を待てば 潮流が変わった

ものの、今次局面は 需給環境の変化も必要という意味で 難易度が高いように感じます。