遼河文明(2)

 

紅山文化(BC4700頃~BC2900頃) 

        

   中国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部にあった 新石器時代の文化。

  万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、

  農業を主とした文化で、龍などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化

 や宗教の存在の可能性が考えられている。

                                                                                  ↓ 燕山山脈 

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                        Xiliao:西遼河    Liáo: 遼河

     

       紅山文化の名は、1908年 満蒙調査を行っていた考古学者の鳥居龍蔵内モンゴル自治区赤峰市

    で発見した紅山後(こうざんご)遺跡に由来。1935年 濱田耕作(浜田青陵)や水野清一により 大規模な

    調査が行われた。戦後各地で 発掘が相次ぎ、彩陶細石器に特徴付けられるこの文化は 1954年、

    紅山後にちなんで 紅山文化と命名される。

 

 

  この文化の主な遺跡は、西遼河上流の支流、潢水 および 土河の流域に広がっている。

 その年代は現在から5000年以上さかのぼり、南の黄河流域の仰韶文化の中期および晩期に

 相当する。 発見された石器は 打製石器磨製石器細石器など、そのほとんどは農具で、

 石耜・石犁・石鋤などのすき類が多い。

 

   紅山文化では農業が主で、ブタやヒツジの飼育も発達していた。

 一方では 狩猟採集などで野生動物を狩ったり 野草を採ったりすることもあった。

 

  陶器は、泥質紅陶 ∧ 夾沙灰陶の2種類。 泥で作り 筆で絵付けした彩陶(彩文土器)は

  煮炊きや食事などに使われ、紋様が刻まれた夾沙灰陶は 食事の盛り付けなどに使われた。

  そのほかの陶器では、妊婦をかたどった胸像が各地から出土。

                       

  紅山文化では 仰韶文化のような彩陶文化は発達しなかったが、龍山文化の黒陶の洗練

 された造形には近いものがある。また 後期の遺跡からは青銅の環も発見されている。

 

    墳墓からは、ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。

  ブタトラのほか、を刻んだものも見つかっている。 

                象頭の玉器

   工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている。

  「猪竜/ 玉猪竜」(燭陰とは別)と呼ばれる玉竜(竜を彫った玉)の造形は 単純であり、

 竜が円形になっているものが多いが、後期には 盤竜・紋竜などの区別が はっきりする。

 後に 中原で始まった竜への崇拝は、紅山文化にその源を発するという見方もある。

 

                                                      C-shaped jade dragon.jpg玉龍

 

 

            1983年に 遼寧省凌源市から建平県にかけて 広い範囲の 牛河梁遺跡ぎゅうがりょう

    からは 紅山文化とかかわりの深い祭祀施設が発見されている。

     5km² におよぶ広い範囲に石を積んで作られた墳墓や祭壇が整然と分布し、石の床と

    彩色を施された壁のあった神殿が見つかり、目がヒスイでできた陶製の女性頭像が発見

    されたことから「女神廟」と呼ばれることになった。発掘の過程で、地下1mから祭祀の場

    や祭壇、壁画、ケアン(石塚)が発見された

     女神廟の中には、人間の3倍近い大きさの陶製の像が並んでいた。これらの像は 恐らく

    神像であるが、現在の中国文化では 類を見ないものである

           牛河梁で発見された記念碑的な建築物の存在、また 様々な土地との交易の証拠から、

    この時期には 先史時代の「首長国」「王国」があったと考えられる

 

     女神廟では 彩陶も発見されている。付近の60以上の墳丘墓も発掘が行われたが、

    これらは石を組んで石室が作られ、その上に礫をかぶせて塚が作られており、中から

    玉などの遺物も発見されている。近くの2箇所の丘の上には ケアンが発見され、

    その近くには 石灰岩を段々に積み上げて作った円墳や方墳もある。 これらの墳丘墓の

    中からは龍や亀の彫刻が発見された。  

     紅山文化では いけにえが捧げられたという指摘もある

 

 

          仰韶文化初期の遺跡から発見された遺物が語るように、紅山文化の遺跡からも

    初期の風水の証拠とされるものが見つかっている。牛河梁遺跡など、紅山文化の祭祀遺跡

    にみられる円形や方形は、天円地方の宇宙観がすでに存在していたことを示唆している

 

     

     紅山文化時代の古人骨のY染色体ハプログループ分析によると、

    ウラル系諸族ヤクート人に高頻度で観察されるハプログループNが67%の高頻度で

    観察され、遼河文明の担い手がウラル語族の言語を話していた可能性も考えられる。

 

    

    扶余 そして、高句麗、百済との関連

      韓国の研究家は 満州にあった扶余が 高句麗百済などを建国したという伝承に

     紅山文化を関連付けている。 「古朝鮮」と「遼河文明」を同じと考え、古朝鮮が遼河文明

     を通じ中国文明を築いたという説である。

      紅山文化の土器が、中国大陸の物より 韓国の櫛文土器に似ているという主張もある。

     2007年 江原道高城郡と全羅南道麗水市には 紅山文化の玉石と同じ形の玉石(BC 6000)

     が発見されている。

               韓国在野史学 (民間のアマチュア歴史愛好家)には、紅山文化 と 古朝鮮とを

     関連付ける見解があるが、講壇史学界(大学教員などのアカデミズム)では否定的な見解

     が主流であり、朝鮮古代史学界の権威である盧泰敦노태돈、ソウル大)や盧泰敦の弟子

     の宋鎬晸(송호정、韓国教員大)なども否定している

      韓国の古代史学界は、中国東北部青銅器時代の典型的遺物である 琵琶形銅剣

     シャムシール美松里式土器の使用開始年代は BC1000であり、朝鮮半島には 

     それ以降に伝播した、つまり、国家が形成されるには青銅器時代が必要なことから古朝鮮

     の建国・出現は 早くとも BC900以降に比定され、 BC3000頃 消滅した紅山文化と

     古朝鮮との時間的隔りが あまりにも大きく、紅山文化と古朝鮮との関係性を見出し難い、

     としている。