この標題の内実に切り込んでいくには、今少し ウォーミングアップが必要なようです。

   それで、第2回は ちょっと道草をして、

  心理学で 父と子との葛藤に注目したフロイトの 「エディプスコンプレックス」 との対比で

  古沢平作が提唱し、小此木啓吾が世に広めた、 「阿闍世コンプレックス」 という母と子の葛藤

  (恨み)に注目した精神分析の概念があるが、この概念の元になった 「観無量寿経」の主人公・

  韋提希夫人(阿闍世の母)について、少し考えてみたい。

                           阿闍世コンプレックス - Wikipedia

                            韋提希 - Wikipedia

                          現代語 観無量寿経 - WikiArc

 

     

   古代インドのマガダ国の都・王舎城(ラージャグリハ)は、

  インド亜大陸がユーラシア大陸に衝突する 太古からの造山活動で地層が褶曲し、

  数千万年の風雨に土砂が削られて 鷲の嘴のような岩肌が山頂にむき出しとなって

  いる霊鷲山(耆闍崛山の眼下に 木々の間からかすかに見下ろせる位置にある。

                ⊛ 霊鷲山(りょうじゅせん) 耆闍崛山(ぎしゃくっせん) 

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   やがて、ほぼインドを統一するマウリヤ朝の前駆的な役割を果たす マガダ国の都・  

  王舎城で、釈迦在世時、 父王・頻婆沙羅1をクーデタで殺害し 王となった阿闍世2

  (アジャータシャトル)の母・韋提希⊛3を主人公とするのが、この「観無量寿経」である。

           1 びんばしゃら  2 あじゃせ   3 いだいけ  

             4 浄土三部経、「大無量寿経」・「観無量寿経」・「阿弥陀経」のうちの1つ。

 

    韋提希は、わが子・阿闍世の怒りを買って 抜き身の剣で殺されそうになるが、 

  家臣に 命を助けられ、 深宮に閉じ込められて 自由を奪われた。

  ――― 「観無量寿経」(以下、観経)は この事件の叙述から始まる。

  

   浄土教は、このような 生々しい人間の生の現実を踏まえて説かれているのだが、

  ここに 韋提希夫人に関して いくつか注意しておきたいことがある。

 

 

 A。 まず、観経の主人公は 女性であるということ。

  浄土教は、この「観経」をとおして、女性の救いを 高らかに表明しているのである。

 

   一方、「大無量寿経」の第35番目の願文には「変成男子の願」がある。

  これと、観経の女人成仏とは どんな関係にあるか?

     ⊛ 設我得仏、十方無量不可思議諸仏世界、其有女人、聞我名字、

        歓喜信楽、発菩提心、厭悪女身。寿終之後、復為女像者、不取正覚 

 

   このことについて、伝統教学は 必ずしも じゅうぶんな解明をしていない。

  しかし、家父長的家制度が崩壊し、性の差別意識が炙り出されている昨今、

  浄土教徒は、これを問わずには済ますわけにいかなくなっている。

 

 

 

 B。 韋提希は 悲劇のヒロインとして、世に これほどの悲痛があろうか?! と、

  この世の苦悩の代表者と扱われてきた。

 

   たしかに、韋提希の愁憂憔悴は 痛々しいものであったが、だからといって、

  彼女の懊悩以上のものが、この世にはないとはいえない。

  

   彼女は わが子に宮廷の一室に閉じ込められて自由を奪われたのだが、

  しかし それでも、身の回りの世話をする「五百人の侍女」は奪われなかったのだ。

 

   人の苦悩は さまざまな形があり、それらは比較すべきではないが、

  韋提希の懊悩は 世にありふれたものの一つであろう。

 

   その苦悩の一々は、

  心が引き裂かれてしまいそうになるので、多くは挙げれないが、

 

   たとえば、国家の政策で 若者を人間魚雷や特攻機にのせるという酷薄や

  権力を持つ者が その地位を利用して、乙女を己が欲望の餌食にする業などなど、

 

   人間の歴史のなかでは、無数に さまざまな形で、

  たえず どこでも 悪業に踏みにじられたイノチがあったのだ。

 

 

 

 C。 浄土教の旗幟は、

    願普共諸衆生 往生安楽国

       ( 願わくは あまねく もろもろの衆生とともに 安楽国に往生せん

  である。

 

   韋提希は、わが子を 「悪子」と呼んだ。 

  しかし、悪いのは わが子ではないと思いたくて、提婆や釈迦を悪者にしようとした。

 

   その悲痛な心は 理解できないわけではない。

  だが、世には 本当に 「悪鬼」のような許しがたい者がいる。

 

   若者に 国家政策といって過酷な死に方を強要するのは、鬼の業であろう。

  これを正当化することができる者は、悪鬼の心をもっている。

 

   また、己が権力や地位等をバックに、乙女やこどもを己が欲望の犠牲に供し、

  これを死に追いやるのも、卑劣極まりない業で、同情の余地はない。

 

   こういう悪鬼の業を為す者とともに、同じ国に生まれたいと、

  その犠牲者たちは思うだろうか? 願えるだろうか?!

 

   こういう厳しい問題が、今日の社会にはあるのだ。

  この現実を踏まえて、なお この浄土教の旗幟を掲げられるか?

 

  ――― ということが、その「真実信心」の真贋を決めるものであろう。

  また、 仏教の命脈、その存在意義は ここにあるのであろう。

  

 

                                     合掌