本地垂迹 - 新纂浄土宗大辞典 

 

  本来の境地と、後から現れた姿。 本地としての仏・菩薩 と 垂迹としての神。

 日本の神は 世の中の人たちを救うため仏・菩薩が現れたものとみる神仏同体説は、神仏習合思想の

 発達したもので 平安中期ごろから見える。

  神は 仏が(カ)に現れたものとして、八幡大権現・熊野権現のように権現(ゴンゲン)号が付けられた。

  神社は 祭神の本地仏を安置し、社僧を置くことで、神仏両方の利益享受の場となった。

 

      ※  9世紀の頃、それぞれの神の権現号がみられるようになる。

       日本で、神仏の関係を表すために本地垂迹説が唱えられたのは、 貞観元年(859)

       賀茂・春日両社に 天台宗年分度者を申請する延暦寺僧恵亮の上表文(『日本三代実録』所収

       である。 ここに 「 大士垂迹、或王 或神 」という文言がみえ、神祗に関して「垂迹」という語が

       はじめて使用され、 平安時代中期には本地垂迹説が確立されたと考えられている。

        熊野権現、白山権現など『権現』の神号は 10世紀前半。

 

   中世には 自然霊や死霊という民俗神を 実類神・実社神として、垂迹神である権社神と区別して崇敬

  する必要はない とも主張された。 鎌倉中期から室町期にかけて 神本仏迹の理論化もすすめられ、

  室町期には 吉田兼俱は、仏教は花実 ・ 儒教は枝葉・万法 の根源は 神道にあり とする唯一神道を

 主張した。 江戸時代には 儒者や国学者により 俗神道として排撃されたものの、村落の宗教生活に

 まで浸透した。

                   唯一神道の普及と意宇六社の成立-仏と神から見た松江の近世

                  吉田兼倶 (1435~1511)- Wikipedia

 

        反本地垂迹説   Wikipedia

          鎌倉中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。

         神道側の仏教から独立しようという考えから起ったものである。伊勢神宮外宮の神官で

         ある度会氏は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成、伊勢神道

         (度会神道)の基盤を作った。伊勢神道においては、現実を肯定する本覚思想を持つ

         天台宗の教義が流用されて神道の理論化が試みられ、さらに空海に化託した数種類の

         理論書も再編され、度会行忠家行により体系づけられた。

           反本地垂迹説は、元寇以後の、日本は神に守られている「神の国」であるとする

         神国思想のたかまりの中で、ますます発展していった。

         南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに

         同調する者が現れた。慈遍は『旧事本紀玄義』や『豊葦原神風和記』を著して神道に改宗

         し、良遍は『神代巻私見聞』や『天地麗気記聞書』を著し、この説を支持した。吉田兼倶は、

         これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させた。しかし 鎌倉期の

         新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。

 

   本地垂迹説は 仏教に縁のなかった民衆に 仏・菩薩の教えを説明する必要から創出された論理でも

 あったので、法然も 『選択集』一六において  「 仰いで本地を討ぬれば、四十八願の法王なり。

 十却正覚の唱え、念仏に憑有り。 俯して 垂迹を訪えば、専修念仏導師なり 」と述べ、善導は 弥陀

 化身であり、『観経疏』が 弥陀の直説、西方指南の書であることを説明するのに使用している。

  各種法然伝においても、法然の本地を 勢至菩薩とし、祖師法然の生涯を救済者として描くのに使用

 されている。浄土宗の布教活動のなかで 念仏と 神祇との関係を説いたものに 建長八年(1256)信瑞

 が諏訪一族の上原敦広の質問に答えた『広疑瑞決集』と、 永和三年(1377)聖冏撰『破邪顕正義』が

 ある。 念仏が 現世祈禱となること、神社に向かって 念仏するようなことが不敬にならない ことが、

 阿弥陀仏と仏・菩薩、神々との本地垂迹関係から説かれている。

 

 

       ※ 平安末期には、伊勢の本地が大日如来、白山の本地が十一面観音など、神社の個別

         の祭神の本地に具体的な仏菩薩が充当されるようになった。

 

                     白山権現(『仏像図彙』より)