すっぱい葡萄の世界(1)   (2)

 

 仏教の基本概念である「無常」というのは、

‘ 昨日のごとく今日があり、 今日のごとく明日がある ’という “日常”の否定である。

       無常: この世に 常なるものは 何一つない。 

          しかるに、我々は この世に 常なるものを求めてやまない。

          いつまでも変わらないものがあると思うor願う。

                    私も、私の子供らも、日本も、科学技術文明も、人類も、地球も、この宇宙も、

          やがて壊滅して、そして 誰もいなくなり、何もなくなってしまうのだが・・・。

 

 しかるに、日本人は、この世 つまり「無常」の世界を、

室町時代中期までは 「憂き世」、室町末期以後には 「浮き世」と大和ことばで語ったという。

これが、日本人独特の仏教理解だった指摘されている。

 

 つまり、われわれ日本人は、この「無常」という きわめて論理的なことばを、

「日常の否定」とはとらえず、

これを日常感覚のなかに取り込んで、感情のことばで解したのである。

     ※ 仏教の言葉の特徴は、よく知られているように、

     「無」とか 「不」とか 「空」とか 、あるいは「離」や「捨」や「除」や「出」などという語の多用にある。

     つまり、仏教は 感情のことばで語られるよりは 圧倒的に論理的な言葉で語られている。

 

 

 

  仏法は、この世に結果(果報)を求めない。

       ※ この世 ・・・ “この世”があれば 死後の “あの世”があるというのが、日本仏教。

         しかし、本来の仏教は、“この世”というのは 死後も“この世”という。

         つまり、“この世”とは 娑婆世界のこと。我々は 死に変わり 生まれ変わりして、

         六道を限りなく輪廻していく 迷いの世界のことである。

    

 

 しかるに、このことが 日本仏教の徒をして、

この世に悪業・不条理が増長するのを放置して、

これを抑止しようとする者(事)を軽んぜしめてきた。

 

 果報を この世に求めないのは、往相。

限りなくこの世にこだわって、その不条理の増長を抑止し、

菩提への道を整えるのが 還相である。

 

 中国唐の善導は、その『往生礼賛』に、

 

       かくのごとき等の罪、 上は諸菩薩に至り、下は声聞・縁覚に至るまで、

     知ること能わず。 唯 仏と仏とのみ、すなわち よく わが罪の多少を知りたまう。

       今、三宝の前、法界衆生の前において、発露懺悔したてまつる。あえて覆蔵せず。

      ・・・・

     今日より始めて、願わくは 法界衆生とともに、

     邪を捨てて 正に帰し、菩提心を発(おこ)し、

     慈心もて 相(あい)向かい、仏眼もて 相看(あいみ)、

     菩提の眷属、真の善知識と作(な)り、同じく阿弥陀仏国に生ぜん。

     ・・・・

と。

 この文の前には、「かくのごときらの罪」 が 縷々 述べられている。

それは、日常のなかで為している 私の罪悪である。

 

 この日常が 罪悪の上に営まれているという認識が、

しかし、日本仏教の徒には 大きく欠落しているのではないか?

                      ※ エスタブリッシュメントについて

 善導の語る“ 正に帰し” という “正”とは何か?

日本仏教の徒は、これを “長いもの” と捉えている*

     ※ “長いもの”・・・ “長いものに巻かれろ”の“長いもの”

 “長いもの”とは、 “われわれ”の世界(日常の常識世界)、

つまり、国家or世界体制 ( 権威および権力システム) であるだろう。

 

   * 真宗の「真俗二諦」が、このよい例だろう。

    その原初的な表現は、

     外には王法をもって表となし、内心には他力の信心を深くたくわえて、

     世間の仁義をもて本とすべし

    という 文明6年(1474)2月17日の日付で書かれた蓮如の手紙にある。

                ※ この2月16日には、一休宗純(1394~1481)が大徳寺の住持になっている。

                 この頃は、1467年に始まり 1477年に終わった応仁の乱の真っ最中である。

                 この3年前の1471年7月に、蓮如は 越前に吉崎御坊を創建する。

 

     当時の時代背景を踏まえて考えなくては、この言葉の意義は軽々には論じられないが、

    これが、明治初年の西本願寺21世門主明如では、「祖師相承の宗義・真俗二諦の妙旨」とて、

     それ、皇国に生をうけしもの、皇恩を蒙らざるはあらず。ことに、方今維新の良政をしきたまひ、

     内億兆を保安し 外万国に対峙せんと 夙夜に叡を労したまへば、道にまれ 俗にまれ、誰か

     王化をたすけ、皇威を輝かし奉らざるべけんや。 いわんや 仏法の世に弘通すること 偏に

     国王・大臣の護持により候へば、仏法を信ずる輩、いかでか王法の禁令を忽緒せんや。

      これによりて、わが宗においては、王法を本とし、仁義を先とし、神明をうやまい、

     人倫を守るべきよし かねてさだめおかるる所なり。・・・

    という 「御遺訓の御書」にまでなっている。

    かなり饒舌かつ蓮如の意を歪曲して、維新政府に阿った見解であるが、

    これが 今日の西本願寺教団の公式見解なのである。

 

                                        合掌