すっぱい葡萄の世界(1)  のつづき

    ———    「 あるがままを受け取って 念仏申す 」の 「 あるがまま 」とは何か?
 
 
我々は 自分に不都合な事があるのを いっさい認めないで、
不都合な事実(現実)も、自分に都合の良いものに改造する。
あたかも、イソップの 狐とぶどう の物語のように・・・。
 
たとえ 自分に不都合な事が 目の前にあっても、
私は、それが不都合であるゆえに これを ないもの とするか、
それあるを認めても、それが自分に不都合な事だとは見(思わ)ない。
 
    ある事を、私は “ 自分に都合が良い ”とまでしなくても、
    “ 自分に不都合でない ”としやすいが、
    “ 自分に不都合である ”とは 大変 しにくい。
 
         最初、それを警戒していても、我々は 時が経つとともに それに対する警戒心を解く。
         いつまでも、それに対する警戒心を持続する力がないのである。
 
          このコロナ禍における我々が まさに、このことをよく証明しているだろう。
         また、原発事故によって放射線管理区域となった地に取り残され、行政から 
         そこで生活することを強いられた老若男女のことを思い出す。
         我々は 心身共に、不都合な現実に ずっと晒されつづける耐久力が欠けているのである。
    
正しく その あるがまま に 事実(現実)を認識できず(せず)、
それを、都合の良いようなものに改造し、
その世界を、私の日常として 何ら怪しまないのである。
 
誰もかれも、みな こういう 自ら*が改造した世界を生きている。
我々は、人間である限り、
 あるがまま に触れることがついにできない。
          
        * この改造した世界を生きているのは、
         「自ら」 というのは、ひとり ひとりの個人のみならず、
        社会も、その集団(共同体)で 改造した世界( 共同幻想の世界* )を生きているのだ。
                               *  どの社会も それぞれ、その社会独特の ものの考え方・ものの見方、つまり
               その時代 その集団が 解釈し価値づけた世界を生きている。
                 「国」といえば、江戸時代には 藩のこと、明治には 天皇主権の中央集権国家、
                敗戦後は 主権在民の国(  しかし 内実は、JOC森元会長の舌禍で露わになった
               ように、明治国家体制の焼き直し )。
               「民」といえば、江戸時代は "藩の民"、明治には "臣民"、敗戦後は "国民"。
                或は、西欧中世では 人も物も 神の創造物だ というキリスト教の価値世界、
                              近代西欧以降は 、"神の創造物という観念"を(  )に入れて 判断を保留し、
               人には人権があり、唯物論的な科学的世界像で すべてを機能的に見(解釈
               す)るのがメジャー。
                ・・・・ などなど。 
 
したがって、
本当に 私に不都合な事(現実)というものを、
それが不都合なものとは、私は ついに認識(認知)できないのである。
 
       つまり、私は、
         「 私に不都合な事(現実)を、そのありのままに認識できない 」のである。
        これは 私が無明・煩悩の存在のゆえである。
 
 
しかしながら、 どうして 私は、
“ 自分に不都合な事を、それが不都合なことと、ついに認識できない ”
と言うことができる*のであろうか?
        * 言うことができる=わかる
 
      
 
                          (続)