最近、阿満利麿(あまとしまろ)氏の「 日本人はなぜ無宗教なのか 」(ちくま新書 1996年初版)を

読んでいる。  この190ページに、

  「 世界と自分のありようは、自分に都合がよいようにできあがっているのだ 」

という言葉があった。 

 実に そのとおりである。 この言葉に 私は深く共感しました。 

それで、この言葉に触発されて思うことを、以下 少し述べてみたい。

 

                                            

 

 

  「 世界と自分のありようは、自分に都合がよいようにできあがっている 」  

 

 この私の現実(自己と世界)は、私の都合が造り出したものである。

 わが無明・煩悩によって造られた幻想世界なのだ。

        ※ 例えば、最近は どの家庭でも バス(風呂桶)がある。

         硬質プラスティックでできたものだが、我々は これを見て、風呂として使うものだ

                  と思って何ら怪しまない。

         しかし、この硬質プラスティックを、紫式部が見るように、そのあるがままに見たらどうか?

         現代人のように 風呂に使う物とは、彼女は思わず、中をごっそり くりぬいた物としか

                  見ないだろう。彼女にとっては 中をごっそり くりぬいたただの物体でしかない。

          つまり、我々のまわりの物は みな、我々の都合で作られた道具の世界であって、

         その道具性を除けば(喪失すれば)、単なる物質(ガラクタ)でしかないのである。

         その「ありのまま」を見れば、ただの硬質プラスティックの塊なのだ。

           この我々に都合の良い「道具の世界」のことを、仏教では「遍計所執性」の世界、

         また、ただの物質の世界のことを「依他起性」の世界という。

 

           別の例で言えば、物質としては 同じ家屋だが、

         先年は 「我が家」、そして 今年は 「空き家」。

          “ 最近 この辺りは 空き家が増えたな ” ・・・ と。

 

 これを、中国浄土教の祖・曇鸞(どんらん)は、

   有漏心*より生じて 法性に順ぜず、いわゆる 凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因 もしは果

   みな顛倒(てんどう)す、みな虚偽なり

 ——— と述べている。

                    * 有漏心 ・・・・ 無明・煩悩のこと

 私の この世界は 顛倒・虚偽の世界なのだ。

 

 

 ところで、ある念仏者は、

  「 あるがままを受け取って 念仏申す 」

と、その信心を吐露している。

 

 この「 あるがまま 」とは何か?

――― 今の場合は、

  < 世界は 自分に都合のよいようにできている(顛倒・虚偽だ) >

ということであろう。

 

 つまり、

「あるがまま」とは、

<“自分に不都合なものはない”という私の現実>のことであろう。

 <私に不都合な事は、何一つ その存在を認めない>

のが 私なのである。

 

したがって、

 「 あるがままを受け取って 念仏申す 」とは、

 “ 自分に不都合な事(現実)を認め、これを 受け取って 念仏申す ” 

のではなく、

 “ 自分に不都合な事(現実)を認めない 私を 受け取って、念仏申す ”

ということであろう。

 

 

我々は 誰もかれも、徹頭徹尾 自分に都合のよい世界を生きている。

もし 自分に都合が悪いもの(事)があれば、

世界を 自分に都合のよいように改造*することによって、

はじめて自分を支えているのである。

    * 西欧近代の理念は 科学・技術によって物質的世界を改造することだった。しかし、

     物質世界を 自分に都合よく改造できない場合は、イソップの「すっぱい葡萄」の物語のように、

     思いの中で、世界を改造する。我々の日常世界は、“すっぱい葡萄”でできた世界なのだ。

       

 

 

                                         (続)