今日のわが国のエスタブリッシュメント(指導層・支配層)は、
厖大な死傷者を出した「大東亜戦争」*を遂行した者たちの子や孫であり、
国土を放射能で汚染して、人の住めない地とした原発政策推進の当事者たちであるが、
* 日本人の死者数だけで、310万人(軍人:230人、民間人:80万)ともされる。
自分の父祖および自身が関与し、
この国の民に多大な犠牲を強いた こうした政策に対して、
今日まで、彼らは 責任を取らず、また それを追及されずに済んでいる。
これは、何も 我々の驚くべきことではなく、
また、彼らにとっては 何ら恥じることもない当然のことなのであった。
何故なら、彼らは この国の支配層(エスタブリッシュメント)だからである。
例えば、戦後の経済産業政策によって、
当然に予想されたように さまざまな「公害」が発生したが、
その責を 当該企業にいくばくか負わせても、
この政策の立案・遂行者が これを招いた責任を問われることはなかった。
戦後、今日まで 約64万*もの死者を出してきた自動車事故もまた そうであった。
この膨大な死者の責任は、自動車社会を構想し これを遂行した行政ではなく、
それを 自動車単体や運転者に帰し、かつ 国民が 気軽に自動車を利用するようにと、
事故の責任を減ずるべく、保険制度など各種の法整備をしたのであった。
* 1948~2020年 (1971年以前の沖縄は含まず)の 事故後24時間以内の死亡数
これらの政策によって、わが国は 自由世界第2の経済大国となったが、
わが国民は、これを 誇り 褒め称えることはあっても、
この政策で犠牲になった厖大な数の人々のことを顧みることはなく、
したがって、この戦後政策の責任を問う者はいなかった。
“人のイノチは地球よりも重い”と嘯き、
民主主義、そして 人権の擁護を 殊勝気に唱える人たちも、
“先進国”と誇る 自分たちの社会(国家)が、
このような厖大な人身御供の上に成り立っていたことには目を覆ってきた。
昨年来のCOVID-19パンデミックにおいても、
この国のエスタブリッシュメントの心根は変わらない。
つまり、この疫病流行の間に、政策の失敗*で 数万 数十万の犠牲者を出したとしても、
彼らにとっては 過去何度も経験してきたあり触れた出来事の一つでしかないのだ。
* 「失敗」ではなく、それは ある意図のもとに遂行されているのかもしれない。
例えば、ある者たちを儲けさせるため。 あるいは もっと遠大な構想を背景としている
かもしれない。つまり、このコロナ禍を 人口政策や金融政策などに利用しようとする者たち
が必ずいるだろう。
疫病対策について、彼らは
“ 責任を問われることはない。そして、どんな状況になろうとも、
我々は、この共同体の支配層で居続けられるのだ。”
――― とタカをくくっているのである。
まことに、おそるべき傲慢さである。
彼らの「エリート意識」・「指導者意識」が結果するものは、かくのごとし。
ある人は、この二つ*を 仏法を碍(さまた)げるものとして挙げている。
支配層たることを捨てて 「出家」 した釈迦の孕む意義の深広さが、あらためて思われる。
* この「エリート意識」・「指導者意識」を 一言では、「善人意識」 と言えるだろう。
つまり、仏教の言葉では、これは「自力・我執」である。
合掌
2021年02月10日